第19話:断章Ⅰ:有給休暇(現世への左遷)
■ 序:玉座の微睡み、あるいは因果の走馬灯
神域の最奥、白銀の玉座に、管理局長ルカは深く身を沈めていた。
彼が世界を「保留」する決断を下した代償は大きく、その意識は深い演算の海へと沈み込んでいる。肉体は神域の全システムを一人で回す負荷に磨耗し続けていたが、精神だけは、束の間の「有給休暇」を享受するかのように穏やかな夢を漂っていた。
夢の世界は、現実の神域のように白く、しかし刺すような冷たさはない。そこには、ルカが長らく抑圧し、事務的に処理してきた「感情」という名のバグが、色鮮やかな情景となって広がっていた。
それは、彼が「もしも、死なずに彼女たちと共に生きることができたなら」という、あり得たかもしれない未来の断片。
彼は、事務机に突っ伏して眠っていた。
やがて、優しい日差しの温もりを感じて、ゆっくりと瞼を開ける。
「……ん……。ここは……」
見慣れない、しかし懐かしい木の温もり。
隣には淹れたての紅茶が、静かに湯気を立てていた。
■ 光景Ⅰ:【隣人としての勇者】
「――ルカさん! 起きたのか!? 全く、寝過ぎだよ」
勢いよく部屋に入ってきたのは、白いTシャツにジーンズという、ごく普通の青年の姿をしたアルトだった。その顔には勇者としての重圧はなく、日焼けした健康的な笑顔が弾けている。
「アルト、君……? 畑はどうしたんですか」
ルカの記憶にあるアルトは、聖剣を手に狂気に染まった破壊者だった。だが、ここにいるアルトは、ただの「隣人の青年」だ。
「今日は俺とルカさんの当番だろ? 手伝ってくれたら、昼飯は俺の特製ポトフをご馳走するからさ!」
アルトは屈託なく笑い、ルカの腕を掴んで引っ張り起こす。
ルカは呆然としながらも、その腕の温かさと、瞳に宿る純粋な信頼に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
これは、あの時、ルカが死なずにアルトと共に故郷へ帰ることができたなら……という、決して叶わなかった夢の断片。
■ 光景Ⅱ:【家庭としての聖女】
「あら、またアルト君に起こされたんですか? 全く、彼はせっかちなんですから」
廊下から、優しい鈴を転がすような声が響く。
エプロン姿のセレスティーナが、朝食の皿を手に現れた。その顔には聖女としての孤独も狂信もなく、ただ穏やかな「慈愛」が浮かんでいた。
「セレスティーナ……様……」
「様、なんてやめてくださいな、ルカさん。ここは『貴方の家』なんですから」
彼女はルカの額にそっと手を当てる。その指先は、世界を侵食した茨の冷たさなどなく、ただ柔らかい。
「貴方が有給休暇を取って、この村で暮らすようになってから、もう一年。おかげで私も、本当にやりたかった『困っている人たちの手助け』ができるようになりましたの」
セレスティーナが差し出したコーヒーカップ。
その温もりは、かつての「神域の権能」よりもずっと重く、尊いものに感じられた。
セレスティーナが聖女の重責から解放され、ルカが共に生きる道を選べたなら……。
彼女の献身的な愛は、ルカの摩耗した精神を静かに癒していく。
■ 光景Ⅲ:【経営者としての女帝】
「ほう。貴様もやっと、この世の『真の幸福』を味わう気になったか、ルカ」
入り口には、腕を組み、不敵な笑みを浮かべたファルマが立っていた。
皇帝の礼装ではなく、シンプルなワンピースを身につけているが、その背筋は依然として伸び、瞳には鋭い知性が宿っていた。
「陛下……。なぜ、ここに……」
「陛下、などと呼ぶな。貴様が『帝国資産をすべて放棄する』という条件で神域と交渉を成立させて以来、わたくしはただの『地方の女社長』だ」
ファルマは卓上の書類を指差す。それはかつての膨大な国家予算案ではなく、わずか数ページの「村の収益報告書」だった。
「見てみろ。貴様が考案した地域振興計画だ。無駄な因果律の搾取を止め、地域の特色を活かした結果、収益は三割増。貴様がいた頃の帝国よりも、よほど健全な経営状態だ」
ファルマは誇らしげにルカを見つめる。かつての支配欲ではなく、ルカと、そして仲間と共に築き上げた「小さな世界」への、穏やかな満足感がそこにはあった。
ファルマが帝国という重責から解放され、ルカが彼女と共に「小さな理想郷」を経営する道を選べたなら……。
究極の「左遷」がもたらした、最高の幸福。
■ 終幕:【夢の終わり、あるいは永遠の残業】
アルトの笑顔、セレスティーナの温もり、ファルマの満足げな横顔。
痛みも絶望も孤独もない。
ただ、そこに「ある」のは、彼らが共に生きる、ありふれた幸福の光景だけ。
夢の中で、ルカは心から笑っていた。
それは、彼が「事務官」としての職務を全うする中で、決して手に入れることのできなかった、純粋な安らぎだった。
「……ああ……これが、定時、というものなのですね……」
その光景の中で、ルカの意識はさらに深い眠りへと沈んでいく。
だが、この夢はあくまで「断章」。
ルカが神の座でペンを動かし続ける限り、彼の「永遠の残業」は終わらない。
白い空間で、ルカの顔に安らかな微睡みが浮かぶ。
その右手には、万年筆がしっかりと握られていた。




