第18.5話:再会:血とインク、あるいは震える指先
■ 序:白銀の静寂に落ちる雫
神域の最高意志、支配役が分解され、膨大な情報の塵となって虚空へ霧散した。
先ほどまで空間を埋め尽くしていた、逃げ場のないほどの殺意と「絶対的な秩序」の圧迫感は消え去り、そこにはただ、耳が痛くなるほどの静寂が残された。
ルカは、神の座を象徴する玉座の前に膝を突いたまま、動かなかった。
漆黒の局長服は各所が裂け、その隙間から溢れる血が、白磁の床に不規則な文様を描き出していく。右腕に刻まれた「至高の印」が、神域の全演算負荷に耐えかねて、焦げ付くような異臭と紫色の火花を上げていた。
「……は、ぁ……っ、……ぅ……」
肺が焼けるような呼吸。
管理局長という「システムそのもの」の権能を無理やり個人で回した代償は、彼の肉体を内側から崩壊させていた。だが、ルカは倒れなかった。震える左手で万年筆を杖のように突き、必死に意識を繋ぎ止める。
背後で、衣擦れの音がした。
ルカの「事後承認」による偽装解体が解除され、本来の存在強度を取り戻し始めた三人が、ゆっくりと意識を浮上させていた。
「……ルカ……さん……?」
最初に声を上げたのは、アルトだった。
勇者の力を奪われ、ただの少年に戻されたはずの彼だったが、その瞳にはかつての絶望の曇りはない。彼は這いずるようにしてルカの背中へ手を伸ばした。
「本当に……あんたなんだな。俺たちを、助けて……」
その言葉が、ルカの肩を微かに震わせた。
■ 吐露:【鉄の仮面が剥がれる時】
ルカはゆっくりと、折れそうな首を回して振り返った。
そこには、かつて彼が「事務的に」切り捨てたはずの三人がいた。
アルトが、縋るような目で自分を見ている。
セレスティーナが、信仰を失った空虚な瞳に、今度は「一人の女性」としての涙を溜めて立ち尽くしている。
ファルマが、ボロボロになった礼装のまま、唇を噛んで、己の無力さとルカの献身を直視している。
「……。
……。
……。
……あ、アルト君……セレスティーナ様……陛下……」
ルカの口から漏れたのは、先ほどまでの冷徹な管理官の声ではない。
震え、掠れ、今にも消えてしまいそうな――かつて彼らが愛し、彼らを支え続けた「一人の事務官」の、情けないほど人間臭い声だった。
「……申し、訳……ありません。……。
……。
……。
……。
……もっと、痛くない方法が……あれば、良かったのですが。……。
……。
……私の、……事務処理能力の……不足です……」
ルカの瞳から、一筋の涙が零れ落ち、床の血溜まりと混ざり合った。
その瞬間、セレスティーナが、我慢しきれずに彼へ駆け寄った。
「ルカ様! ああ、ルカ様……! 謝らないで、謝らないでくださいまし! わたくしたち、貴方様が……貴方様がわたくしたちを見捨てていなかった、それだけで……それだけで、もう……!」
彼女は血に汚れるのも構わず、ルカの体を強く抱きしめた。
本来ならば神域の権能をその身に宿すルカに触れることは、常人には許されない。だが、ルカが自身の権能をすべて「内側」への抑制に向けていたため、彼女の柔らかな体温が、凍てついたルカの心に直接流れ込んできた。
「……セレスティーナ……様……。服が、汚れます……。……。
……。
……私の……私物のコートでは、ありませんから。……。
……」
「そんなこと、どうでもいいわ! 貴方が生きている! 私のために、また、私を騙してまで……!」
ファルマもまた、足元をふらつかせながらルカの傍らに膝を突いた。
彼女はルカの右腕、神の印が焼き付いたその腕を、自身の震える手で優しく包み込む。
「……ルカ。貴様という奴は、どこまで不遜な資産なのだ。わたくしに断りもなく、世界を一人で背負うなど。……。……だというのに、その手はこれほどまでに冷え切っている……」
「……。
……陛下。……。
……。
……帝国全土の、……負債の移管……無事に……完了しました。……。
……。
……。
……貴女はもう、……自由です。……誰の命も、背負わなくていい……」
■ 誓い:【血とインクの契約】
ルカの意識が遠のき始める。
神域の権能を掌握し続け、「保留」のステータスを維持するには、彼の魂そのものを演算装置として燃やし続けなければならない。
「……。
……。
……。
……皆さん。……聴いて、ください。……。
……。
……」
ルカは、自分を囲む三人の顔を、一人ずつ慈しむように見つめた。
「……私は、……この椅子に、残ります。……。
……。
……。
……支配役を消し、……神域の法を……書き換えました。……。
……。
……。
……ですが、世界を完全に正常化するには、……まだ、時間が、必要です。……。
……」
「残るって……一人でか!? また、俺たちを置いていくのかよ!」
アルトが叫ぶ。だが、ルカは首を横に振った。
「……。
……。
……違います。……。
……。
……。
……今度の、……『保留』は、……前とは、意味が違います。……。
……。
……。
……。
……。
……私は、貴方たちの『未来』を、……誰にも、確定させない。……。
……。
……。
……誰に、愛されるのかも。……どこで、死ぬのかも。……。
……。
……。
……。
……それは、貴方たち自身の、……自由意志(未承認)であるべきだ。……。
……。
……。
……。
……私は、そのための……門番になります。……」
ルカは万年筆を強く握り、最後のリソースを振り絞って三人の額に、柔らかな光の印を刻んだ。それは、神域の干渉から彼女たちの魂を永久に保護するための「事後承認済み・特別通行証」。
「……。
……。
……。
……。
……さあ。……。
……。
……。
……。
……。
……一万二千五百人の、……同僚たちが、……道を空けて、くれています。……。
……。
……。
……。
……地上へ、帰りなさい。……。
……」
ルカの背後に浮かぶ亡霊たちが、今度は優しい光となって三人を包み込み、ゆっくりと浮き上がらせる。
「ルカ様! 嫌ですわ、離したくありません! ルカ様!」
「ルカ、わたくしは認めんぞ! こんな結末、認めん!」
「ルカさん! 待ってろよ、必ず……必ず、あんたをそこから連れ戻してやるからな!」
三人の叫びが、遠ざかっていく。
ルカはただ、彼らが見えなくなるまで、無理に作った下手な微笑みを浮かべて手を振り続けた。
■ 独白:【静寂の玉座にて】
三人が因果の彼方、現世へと消えた後。
白い空間には、再びルカ一人だけが残された。
彼は血塗れの体を引きずり、神域の最高位にある「管理端末(玉座)」へと腰を下ろす。
重い。
全人類、全因果の重みが、文字通り彼の脊髄を圧迫する。
「……。
……。
……。
……。
……ふぅ。……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……やっと、……定時、ですか。……。
……」
ルカは虚空を見つめ、独り言ちた。
もはや誰も見ていない。
演じる必要も、戦う必要もない。
ただ、この世界が「壊れない」ように、ステータスを『保留中』に維持し続けるだけの、永遠の残業が始まる。
「……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……あ。……。
……。
……。
……。
……」
ルカはふと、自身の万年筆に残ったインクの量を確認した。
残りわずか。
だが、今の彼には、一万二千五百人の想いという名の「替え芯」がある。
「……。
……。
……。
……。
……。
……。
……本日の業務、……終了。……。
……」
ルカの意識は、深い、深い、演算の海へと沈んでいった。
その顔には、一年ぶりに、何の偽りもない安らかな眠りの予感だけが浮かんでいた。




