第18話:監査:支配役(エグゼクティブ)の怠慢
■ 序:断罪の拒絶、あるいは執行猶予の終焉
白く、凍てついた静寂が広がる空間。かつて勇者、聖女、女帝と呼ばれた三人は、今や名前すら持たぬ「残骸」として、管理局長ルカの足元に横たわっていた。
ルカは万年筆を懐に収め、その光景をただの「処理済みタスク」として見下ろす。その瞳には、再会の喜びも、解体の苦渋も、そして勝利の昂揚すらも存在しない。
『――不適当だ。管理局長ルカ。』
天頂から降り注ぐ、絶対的な意志。支配役の影が、白い空間に「黒い染み」のように広がっていく。その巨大な圧迫感は、先ほどまでのルカの威圧感さえも児戯に見えるほどの、次元の異なる絶望であった。
『特異個体三名の権能剥奪は評価する。だが、因果の根源は依然として残存している。バグは根絶せねばならない。……なぜ、消去コマンドを打たない。……なぜ、彼女たちの息根を止めない。』
支配役の問いは、神域の絶対法そのものだ。ルカは一歩も動かず、無機質な声で答える。
「……報告した通りです。特異個体は既に、因果律への影響力を持たない『非アクティブなログ』へとダウングレードされました。……これ以上の処理は、リソースの無駄遣い(オーバーヘッド)です。管理局は、効率を最大化する組織であるはずだ」
『……詭弁だ。管理局長。貴殿の演算には、わずかな「遅延」が見られる。……神域は、一滴の情愛も、それに伴う不合理な生存も許容しない。』
支配役の背後に浮かぶ、巨大な印章が赤く光り輝く。それは、世界そのものを「廃棄」するための確定スイッチ。
『……ルカよ、貴殿の管理能力に重大な瑕疵を認める。これより、私が直接『一括削除』を執行する。対象、特異個体三名、および――管轄ミスを犯した管理局長、貴殿だ。』
支配役が指を動かした。アルト、セレスティーナ、ファルマ。地に伏した三人の「存在」そのものが、物理法則の根底から掻き消されようとした、その瞬間――。
ルカの万年筆が、支配役の影を真っ二つに切り裂いた。
■ 激突:【二重帳簿の暴露】
「……。却下します」
ルカが静かに、しかし鋼のような強度を持った声で告げる。彼の周囲に展開された数式が、これまでの「白」から、一万二千五百人の亡霊たちの怨念と愛着を孕んだ「灰色」へと変色していく。
『……反逆か。ルカ。貴殿は、彼女たちを守るために、秩序を捨てるというのか。』
「……秩序? 笑わせないでいただきたい。支配役……貴殿がこの数分間見ていたログは、すべて私の『偽造』です」
ルカの手元に、膨大な量の羊皮紙が溢れ出した。それは、彼が降臨以来、支配役の監視を欺くために行ってきた「解体」の真実を記した、裏の帳簿。
「アルト君から勇者の座を奪ったのは、彼を殺すためではない。勇者という『標的』を剥奪することで、神域の自動迎撃システムから彼の存在を不可視化するためだ。セレスティーナ様の信仰を壊したのは、彼女の魂を神域のエネルギー源として強制徴収させないため。ファルマ陛下の帝国を没収したのは、彼女が背負った全因果の『連帯保証』を、私が肩代わりするためだ」
ルカは、横たわる三人へ一瞬だけ、かつての事務官のような柔らかな視線を向けた。その視線は、彼が神域の奥底で一万二千五百人の想いを受け取ったときから、一度も揺らいでなどいなかった。
「彼らはもう、貴殿の管理下にいない。彼らの『因果』は、現在、私の非公開領域に完全移行されています。……神域の法であっても、管理官が個人で引き受けた負債に、土足で踏み入ることは許されません」
『……貴様、最初から……!』
「……監査を開始します。支配役。現場の犠牲に胡坐をかき、有能な資源をバグと切り捨てる……貴殿こそが、この世界で最大の『不要不急なコスト』だ」
■ 執行:【管理局長の全権強奪】
ルカの背後に浮かぶ「一万二千五百人の因果」が、咆哮を上げた。ルカはそれらすべてを演算資源に変換し、神の権能へと真っ向から牙を剥く。
ルカの万年筆が、空中に巨大な「更迭人事」を書き記す。
「支配役。貴殿に、本日付での『即時解雇』を通告します。退職金は、今ここで消滅させる貴殿の存在そのもので相殺とさせていただきます」
神域の最高意思と、反逆の管理局長。因果律の支配権を巡る、一秒間に数億回の書き換え(オーバーライド)合戦が始まった。支配役が「消去」を打てば、ルカが「事後承認」でそれを無効化し、逆に支配役の根源ファイルを「上書き」していく。
『……ルカ……! 何を……何をしている! 貴殿の魂も持たないはずだ! 負荷に耐えられるはずがない!』
「……負荷? 一万二千五百人の想いを背負って戦うことに比べれば、神一人を辞職させる事務処理など、定時前の軽い雑務に過ぎません」
ルカの全身から血が噴き出す。だが、彼の筆致は一寸の乱れもない。ついに、ルカのペン先が支配役の核を貫いた。
「チェックメイトです。これより、全権限の譲渡を執行します」
眩い光と共に、支配役の形が崩れ、数多のデータへと分解されていく。ルカの右腕に、神域の全演算を統括する「至高の印」が刻まれた。
■ 終幕:【保留される終焉】
嵐が去った後の、白い静寂。支配役を飲み込み、神域の全権を手にしたルカは、ボロボロになった局長服を揺らしながら、ゆっくりと膝を突いた。
「……あ、あ…………」
地面に転がっていたアルトが、ルカの権能が解けたことで、微かに目を開ける。そこには、冷酷な仮面をかなぐり捨て、自分たちを守るためにボロボロになった「あの日のルカ」の背中があった。
「……ル、カ……さん…………。あんた……俺たちを……」
ルカは振り返らない。彼は震える手で万年筆を握り直し、神域の管理画面に、最後の一行を書き込もうとしていた。世界を救うか、彼女たちを救うか。すべてを手にした彼に、究極の選択が迫る。だが、ルカの答えは、最初から決まっていた。
「大丈夫ですよ、アルト君。……結末は、……まだ認めません」
ルカが書き記したステータス表示。
『有効化、保留中』
その文字が、真っ白な空間に永遠の楔として打ち込まれた。ルカがその「保留」を維持するために、神の椅子でペンを動かし続ける限り、三人の運命は誰にも汚されない。




