第15話:解体:勇者の残業代(アルト編)
■ 序:聖域の陥落、あるいは精神の強制監査
白く塗りつぶされた静止した世界の中で、勇者アルトは己の無力を噛み締めていた。
指先一つ動かせない。魔力の一滴すら、体内の回路を循環することを許されない。ルカが放った「一括保留」の権能は、物理的な拘束を超え、アルトという存在の「因果の連続性」そのものを凍結させていた。
「……あ、あ……ル、カ……さん……」
肺に溜まった空気すら吐き出すことを禁じられた絶望的な沈黙。その中で、ルカの軍靴の音だけが、無機質に、規則正しく響き渡る。ルカは倒れ伏すアルトの傍らに立ち、感情の死滅した瞳で彼を見下ろした。
「……。
……。
……。
……。
……個体識別名:アルト。……。
……。
……。
……。
……これより、貴方の精神領域に直接介入し、蓄積された『勇者』という不適格な属性ログを強制消去します。……。
……。
……。
……。
……。
……これは、貴方が救い上げたはずの因果に対する、正当な『税務調査』です」
ルカが万年筆の先を、アルトの眉間へと突き立てた。
実体としての痛みはない。だが、アルトの脳内に、暴力的なまでの情報量が直接書き込まれていく。それはルカによる、アルトの人生そのものの「監査」の開始であった。
■ 精神世界:【理想の破壊と、思い出の解体】
アルトの視界が反転し、かつてルカと共に過ごした「始まりの村」の風景が広がった。
夕暮れ時、剣の稽古を終えた二人が、木漏れ日の中で汗を拭い、笑い合っている。アルトにとって、人生で最も幸福で、最も守りたかった原風景。
『アルト君、筋がいいですね。君ならきっと、僕よりもずっと遠くまで行ける』
記憶の中のルカが、穏やかな笑みを浮かべてアルトの頭を撫でる。
だが、その瞬間。
風景の端から、黒い「修正液」のようなノイズが浸食し始めた。
「……。
……。
……。
……。
……。
……エラー検出。……。
……。
……。
……。
……この発言は、当時の事務官としての役割に基づいたリップサービスに過ぎません。……。
……。
……。
……貴方の成長を促すための『先行投資』であり、そこに個人的な情愛は介在しませんでした。……。
……。
……。
……。
……。
……当該データを、不適切な改ざんとして『却下』します」
ルカの声が、空から降ってくる。
直後、記憶の中の「優しいルカ」の顔が、ノイズによって無残に掻き消された。残されたのは、表情のないマネキンのような姿。思い出の体温が、急速に冷え切っていく。
「やめろ……やめてくれ! その思い出だけは、俺の宝物なんだ……!」
精神世界の中で、アルトの声が悲鳴となって響く。
だが、管理局長となったルカの監査は止まらない。
場面は、アルトが魔王軍を撃退し、英雄として称えられた祝宴の夜へと飛ぶ。
民衆に囲まれ、誇らしげに剣を掲げるアルト。その隣で、ルカは誰よりも深く、満足げに頷いていた。
アルトはあの日、初めて自分を認めてもらえたのだと確信していた。
「……。
……。
……。
……。
……。
……再計算。……。
……。
……。
……この祝宴による経済損失、および魔王軍撃退に伴う因果の偏り(歪み)は、神域にとって看過できないレベルでした。……。
……。
……。
……。
……貴方が『救った』とされる人々は、現在の統計上、その八割が一年後に別の不祥事で死に絶えています。……。
……。
……。
……。
……貴方の『勇者』としての残業は、因果の帳尻を合わせただけの無意味な遅延行為です。……。
……。
……。
……。
……。
……全功績を、架空資産として『没収』します」
黄金色に輝いていた祝宴の光景が、一瞬で色褪せ、瓦礫の山へと変わる。
救ったはずの人々が、ルカの言葉通り、影のような無機質な物体へと変貌し、アルトを指差して笑い始めた。
「……。
……。
……。
……。
……。
……アルト君。……。
……。
……。
……貴方が守りたかったのは世界ではなく、僕に褒められたかっただけの『自己満足』だ。……。
……。
……。
……。
……。
……その卑小な執着が、世界に余計な負荷をかけている。……。
……。
……。
……。
……今ここで、貴方を『勇者』という枷から解放して差し上げます」
■ 執行:【存在属性の事後承認】
精神世界から現実へと、意識が引き戻される。
アルトの体は、ルカの権能によって激しく明滅していた。
彼がこれまで積み上げてきた「勇者」としての経験値、魔力、そして誇り。その全てが、ルカの万年筆から溢れ出す「修正数式」によって逆流し、強制的に外部へと排出されていく。
「……あ、が……あ、あああああああ!!」
アルトの体から、黄金の粒子が噴き出し、虚空へと消えていく。
それは彼がこれまで命をかけて戦ってきた証。それをルカは、事後承認という「なかったことにする力」で、根底から覆していく。
「……。
……。
……。
……。
……。
……痛みを感じるのは、そこに『意味』があると思い込んでいるからです。……。
……。
……。
……。
……。
……大丈夫ですよ。……。
……。
……。
……。
……貴方の人生という名の『プロジェクト』を、最初からなかったことに上書きすれば、苦痛を感じる主体すら消滅します。……。
……」
ルカの周囲に浮かぶ一万二千五百人の亡霊たちが、アルトを取り囲むように旋回する。
かつてルカが救った命。彼らの囁きが、アルトの耳元で「もう休め」「頑張らなくていい」「何も残っていない」と呪いのように響く。
アルトの持つ黒い聖剣オルフェウスが、カシャン、と音を立てて砕け散った。
勇者の象徴が失われ、彼の体は急速に矮小化していく。
筋骨逞しかった肉体は、ただの脆弱な少年のそれへと戻り、かつての精悍な瞳からは光が失われた。
「……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……監査完了。……。
……。
……。
……。
……。
……アルト君。……。
……。
……。
……貴方はもう、勇者ではありません。……。
……。
……。
……。
……。
……ただの、管理不備によって放置された『残留思念』です。……。
……。
……」
■ 沈黙:【空虚な救済】
ルカが万年筆を引くと、アルトは糸の切れた人形のように地面に崩れ落ちた。
もはや咆哮する力も、ルカを睨みつける執念すら残っていない。
その瞳に映るのは、あまりにも遠く、あまりにも高い場所から自分を見下ろす、冷徹な神の使い。
「……る……か……さん…………」
アルトの震える唇から漏れた、最期の「甘え」。
だが、ルカはそれを拾い上げることもなく、ただ事務的に背を向けた。
「……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……次。……。
……。
……。
……聖女、セレスティーナ。……。
……。
……。
……。
……貴女の『愛』という名の過剰予算も、これより徹底的に精算させていただきます。……」
ルカの歩みは止まらない。
背後のアルトの存在さえも、既に「処理済み」として彼の記憶の隅へ、アーカイブ化されていく。
一人の勇者が、今日、死んだ。
名誉のためでも、世界の平和のためでもなく。
ただ一人の管理局長による、「事務的な修正」によって。
白い空間には、ルカの歩く乾いた軍靴の音と、砕け散った聖剣の破片が寒々と転がっているだけだった。




