第3話:王女の誘惑、あるいは反逆の因果
夜の王宮は、静謐という名の薄氷で覆われている。
ルカは月明かりに照らされた回廊を、影のように歩いていた。足音を殺し、気配を消す。それは事務官としての習性というより、この世界の理から自分を「保留」するための本能に近い。
王女ファルマから呼び出された裏庭は、迷宮のように入り組んだ生垣の先にある。ここはかつて、王位継承を巡る陰謀の密談や、許されぬ恋人たちの逢瀬に使われた「劇的な場所」だった。しかし、ルカがこの数年間、王宮内の負の因果を片端からアーカイブし続けた結果、今やここはただの「管理の行き届いた植え込み」に成り下がっている。
「……遅いわよ、ルカ。一分と三十秒、遅刻だわ」
生垣の影から、鈴の鳴るような、しかし刺々しい声が響いた。
ファルマ王女は、夜風に金髪をなびかせ、大理石のベンチに座っていた。公式の場での豪華なドレスではなく、動きやすさを重視した夜会用の軽装だが、その瞳に宿る意志の強さは、どんな宝飾品よりも鋭く光っている。
「申し訳ありません、殿下。法導台帳の整理に手間取りまして」
「嘘ね。貴方はいつも定時に灯火を消す。その後、一人で何を抱え込んでいるのか、わたくしにはお見通しよ」
ファルマが立ち上がり、ルカの目前まで歩み寄る。
彼女の周囲には、ルカにしか見えない「紅蓮の煤」が渦を巻いていた。本来なら彼女は、今夜あたり、父王を毒殺しようとする叔父の計略を知り、復讐の鬼と化して隣国と手を結ぶはずだった。その「反逆のフラグ」を、ルカは三日前に「調理場への衛生指導」という名の事務処理で、未然に無効化してしまった。
結果として、彼女の叔父は腹を壊して寝込んでおり、陰謀は立ち消えた。だが、彼女の魂に刻まれた「何かを変えたい」という強烈な衝動だけは、行き場を失ってルカという観測者に向けられている。
「なぜ、わたくしを呼び出したのですか。夜分の王宮内での私的な接触は、調律官の倫理規定に抵触します」
「そんなつまらない紙切れの話を聞くために呼んだのではないわ。……ルカ。貴方、わたくしを蔑んでいるのでしょう?」
ファルマの手が、ルカの胸元に伸びた。
彼女の指が、ルカの官服の襟を掴み、力任せに引き寄せる。ルカの視界に、彼女の長く整えられた睫毛と、湿った唇が迫る。彼女の体温は、アルトの荒々しい熱さとも、セレスティーナの病的な冷たさとも違う。それは、じりじりと燻り続ける「炭火」のような、執念深い熱量だった。
「蔑むなど、滅相もございません」
「いいえ、蔑んでいるわ。貴方はわたくしから、戦う理由も、憎む相手も、自分の手で運命を掴み取る機会も、すべて『事務的』に奪い去った。貴方がニコリともせずに台帳にペンを走らせるたびに、わたくしの人生は薄まっていく。今やわたくしは、歴史の教科書の端にすら載らない、ただの退屈な王女よ」
ファルマの吐息が、ルカの唇をかすめる。
彼女の指が襟を離れ、ルカの首筋を這う。爪が微かに皮膚を立て、そこから彼女の「怒りの因果」がルカの体内へと染み込もうとしてくる。ルカは反射的に彼女の手首を掴み、その動きを制した。
「……離して」
「これ以上は、因果の汚染が殿下の精神を損ないます。おやめください」
「嫌よ。貴方が吸い取ってくれるのでしょう? わたくしのこの、持て余したドロドロした衝動を。貴方のその、死人のように冷たい指先で。……ああ、本当に冷たいわね、ルカ。貴方は、人間なの? それとも、ただの記録媒体?」
ファルマは掴まれた手首を振り払わず、逆にルカの手を自分の胸元、心臓の鼓動が最も激しく響く場所へと押し当てた。
薄い絹越しに、狂ったように脈打つ心音が伝わってくる。
ルカの視界が歪んだ。
彼女の心臓を起点として、数千、数万の「もしも」の分岐点が爆発的に増殖し、夜の庭園を塗り替えていく。血に染まった王座、炎に包まれる王都、絶叫する民衆。その凄惨な美しさに、ルカの精神が呑まれそうになる。
「……っ、殿下。これは、危険すぎます」
「いいから、やりなさいよ。いつもみたいに、無効化しなさい。わたくしのこの、煮え滾るような人生を、貴方の灰色の世界に閉じ込めてしまいなさい!」
ファルマが叫び、ルカの首に両腕を回した。
逃げ場のない密着。
ルカは覚悟を決め、次元の裏側にある「王宮深層記録庫」の深淵を解放した。
ゴオオ、という幻聴が耳を叩く。
ファルマの内側で暴発寸前だった「反逆の因果」が、ルカの腕を通じて凄まじい圧力で流れ込んでくる。それは鋭利な針の束を飲み込むような痛みとなって、ルカの神経をズタズタに引き裂いた。ルカの瞳孔が開き、肺の中の空気が無理やり押し出される。
「あ……、あ……っ」
ファルマが声を漏らし、ルカの肩に顔を埋めた。
熱い因果が吸い取られていく快感――あるいは喪失感に、彼女の肢体が震える。ルカは彼女を抱きしめるような格好で、その奔流を受け止め続けた。彼女の背中を撫でるルカの指先は、今や凍傷を負ったかのように感覚を失い、青白く変色している。
どれほどの時間が経っただろうか。
狂おしい熱気は去り、庭園には再び、死んだような静寂が戻ってきた。
ファルマは力なくルカの胸に寄りかかり、荒い呼吸を繰り返している。彼女の背後から立ち上っていた紅蓮の煤は消え、ただの、少し疲れた様子の少女がそこにいた。
「……満足、ですか」
ルカの声は枯れ、震えていた。
彼はフラフラと後退し、大理石のベンチに手をついて辛うじて立ち続ける。右手の感覚は完全に消失し、激しい耳鳴りが止まらない。
「……最悪。最悪の気分だわ、ルカ。貴方に触れられるたびに、わたくし、自分が自分でなくなっていくのが分かる。……でも、その喪失感だけが、今のわたくしに与えられた唯一の『本物』なのよ」
ファルマは乱れた髪を整え、冷淡な王女の仮面を被り直した。だが、その瞳には、消し去ることのできない深い依存の光が宿っている。
「覚えておきなさい。貴方がわたくしを『保留』し続ける限り、わたくしは何度でも貴方を呼び出すわ。貴方がわたくしの因果でパンパンに膨らんで、いつか破裂するその日まで。……ねえ、ルカ。貴方が壊れるとき、世界はどんな色に染まるのかしらね?」
ファルマは残酷な笑みを残し、夜の闇へと消えていった。
一人残されたルカは、震える手で懐から法導台帳を取り出した。
ペンを握る力さえ入らない。彼は口にペンを咥え、自分の血をインク代わりにして、羊皮紙に文字を刻み込んだ。
【観測ログ:聖暦四一二年 二月六日 深夜】
【案件:三四五号(王女反逆事案)】
【処置:アーカイブ完了。深層記録庫の圧力が臨界点の九十五パーセントに到達】
【現況:……問題なし】
九十五パーセント。
ルカは台帳を閉じ、天を仰いだ。
月が、冷酷なまでに美しい。
アルトの闘争、セレスティーナの祈り、そしてファルマの憎悪。
本来なら、この三つが絡み合い、一つの巨大な叙事詩を形成するはずだった。それを、ルカがバラバラに引き裂き、未提出のまま自分の内側に溜め込み続けている。
物語にならないまま堆積した「未使用の人生」は、もはや正常な因果の法則を逸脱し、ドロドロとした黒い澱となってルカの魂を蝕んでいる。
「……あと、どれくらい持つかな」
ルカは、感覚のない右手を、左手で強く握りしめた。
翌朝。
調律局に出勤したルカを、上司のヴォルガッシュ局長が満面の笑みで迎えた。
「いやあ、ルカ君! 君のおかげで、今期の『未解決トラブル発生率』が過去最低を記録したよ! 王宮も、神殿も、騎士団も、みんな平和そのものだ。陛下も大変お喜びでね。君を二級官吏に昇進させるよう、わしから強く推薦しておいたよ!」
ヴォルガッシュがルカの肩をバシバシと叩く。
その衝撃のたびに、ルカの視界に赤い警告ログが明滅する。
限界だ。
もう、これ以上は、収まりきらない。
「……光栄です、局長。ですが、昇進よりも先に、アーカイブの『整理』を行う許可を頂けますか」
「整理? そんなの、いつでもいいじゃないか。今は平和を謳歌しようじゃないか! ほら、街の広場では、平和を祝う祭りの準備が始まっているぞ」
窓の外、広場では人々が歌い、踊っていた。
そこには、ルカが人生を削って作り上げた、完璧なまでの「退屈な楽園」があった。
だが、ルカには見えていた。
広場の中心にある聖剣の台座。そこから、地面を伝って黒い亀裂が四方八方に広がり始めているのを。
保留された因果たちが、現実の壁を内側から叩いている。
「出してくれ」と。
「物語にさせてくれ」と。
ルカは静かに目を閉じ、最後の一行を台帳に書き足した。
【特記事項:嵐の前の、完璧な静寂】
その日の午後、王都アイリスの空に、見たこともないような「真っ黒な虹」が架かった。
誰もがそれを「吉兆」だと信じて疑わなかったが、ルカだけは、静かに自分のデスクを整理し始めた。
【保留件数:一二、四九九】
【有効化まで:あと一件】




