第11話:組織改編、あるいは血塗られた棚卸し
特例・因果管理局長、ルカ。
その辞令が神域の全階層、網の目のように張り巡らされた魔導因果ネットワークに回覧された瞬間、全監査官たちの間には、凍り付くような沈黙に続いて、猛烈な嘲笑と軽蔑の嵐が巻き起こった。
「元・下級事務官が局長だと? 冗談ではない。神域の歴史上、そんな屈辱的な人事がかつてあったか?」
「どうせ、あの地上の『三つのバグ』ども――かつて彼が情けをかけて育てた怪物たちを鎮めるための、使い捨ての餌だろう。奴らを釣り上げるための、ただの生きたデコイだ」
神の代行者を自称し、数多の世界を冷酷に剪定してきた監査官たちは、この時まだ理解していなかった。ルカという男が、どれほど執念深く、どれほど「非効率」を憎む怪物であるかを。そして、彼が死の淵から持ち帰り、神域の最高意思決定機関から授けられた「管理局長」という権限が、単なる役職名ではなく、神域の法そのものを根底から書き換える、絶対の執行権であることを。
■ 傲慢の終焉:【第一監査広場の招集】
ルカの初仕事は、地上の鎮圧ではなかった。
彼は就任からわずか一時間後、神域の第一監査広場――白亜の石柱が並び、常に数千の監査官が待機する、神域の心臓部とも言える場所に、三千名に及ぶ精鋭監査官を緊急招集した。
広場に集まった監査官の一人、カシエルは、不機嫌そうに壇上を見上げていた。彼はこれまでに七つの文明を「帳簿の辻褄合わせ」のために滅ぼしてきたベテランであり、自分よりも遥かに階級の下だったはずのルカが、局長の制服を着ていることが我慢ならなかった。
(……気に入らんな。あの痩せっぽちの事務員風情が、神域の象徴たる漆黒の法衣を纏うなど。奴が何か一つでも失態を犯せば、即座にこの戦斧でその首を叩き落としてやる)
カシエルが握る巨大な戦斧は、事象を断裂させる権能を有している。周囲の同僚たちも同意見らしく、彼らの視線には剥き出しの殺意と嘲笑が混じっていた。
だが、壇上に現れたルカの姿が目に入った瞬間、広場の気温が物理的に数度下がった。
ルカは無表情だった。
以前のような、腰の低い、どこか気弱ささえ感じさせた事務官の面影は微塵もない。支給された局長服は、周囲の光をすべて吸い込むほどに深く、その背後には、彼が一年間で救い上げ、そして共に心中した「一万二千五百人の死者の因果」が、巨大な、幾何学的な模様を刻む灰色の『帳簿の翼』となって静かに、重々しく脈動していた。
「……本日付で、因果管理局の『組織改編』、および徹底した『棚卸し』を行います」
ルカの声は、神域の空間そのものを震わせる。増幅された権能が、監査官たちの魂を直接揺さぶった。
「……査定の結果、貴様たちの九割は、神域の貴重なリソース(因果律)を浪費するだけの『不良債権』であると判断しました。組織の健全化のため、これより一括して、人員整理を執行します」
静寂は一瞬で怒号に変わった。
「貴様、正気か!? 我々は神に選ばれ、世界の均衡を守ってきた精鋭だぞ!」
「下級の分際で、増長するのも大概にしろ!」
カシエルは耐えかねて飛び出した。
「ほざけ、小役人がっ! その傲慢な舌ごと、貴様の存在をこの広場から削除してやる!」
カシエルが跳躍し、身の丈を超える戦斧を振り下ろす。その一撃は、本来ならば空間を「切断」の状態に固定し、防御不能の死を与えるはずのものだった。
だが、ルカは視線すら向けない。彼は左手に持った「局長専用万年筆」のキャップを、静かに、事務的な所作でノックした。
「……管理番号:『公務執行妨害』。当該個体の雇用継続を『却下』。事後承認により、存在の記述を抹消します」
カチリ、という小さな音が響いた瞬間。
空中でルカを斬り伏せようとしていたカシエルの巨体が、唐突に「透明な数式」へと分解された。
悲鳴を上げる暇すらなかった。カシエルの肉体も、その強力な戦斧も、彼が千年かけて積み上げてきた功績も、すべてがインクの染みを消しゴムで消すように、神域の記述から完全に消し飛ばされた。後に残ったのは、彼がいた場所を吹き抜ける、虚無の風だけだった。
「な……!? 何をした……! カシエルの権能が、完全に無力化されたのか……!?」
周囲の監査官たちが、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。
「……。
……。
……驚くようなことではありません。僕はただ、彼の『雇用契約』という名の因果の鎖を、この万年筆で一行、横線を引いて消しただけです。……神域において、僕の承認がない存在は、もはや塵以下の無価値でしかない」
■ 恐怖の再定義:【事務的殲滅】
広場は一転して、死者の国のような静寂に支配された。
ルカの瞳は、感情を完全に排した灰色の鏡と化している。彼は手元の羊皮紙――新たに作成された、冷酷な『神域職員名簿』に、淡々と、そして流麗な筆致でペンを走らせていく。
「次。第4監査部、第7監査部。……およびその関連部署。貴様たちの過去三百年分の業務記録を精査しました。……一年前のフェルン村における因果漏洩、および前任監査官ザキエルの暴走を『不可抗力』として報告し、責任を回避しましたね。これは、明白な職務怠慢、および虚偽報告に該当します」
「ま、待て! あれはザキエルの独断であり、我々には止める権限が――」
「……。
……報告書を読み上げる時間すら無駄です。一括して、却下します」
ルカが名簿の名前をペンで塗りつぶす。
その動作一つで、広場に並ぶ監査官たちが、数十人、数百人という単位で次々と「消滅」していく。それは戦闘ですらなかった。管理者が、ハードディスクの中にある不要な一時ファイルをゴミ箱へ放り込むような、あまりにも事務的で、あまりにも一方的な『整理』。
「ふざけるな! 全員でかかれ! こんな奴の独裁を許すな!」
一人の監査官が叫び、生き残った者たちが一斉にルカへ殺到した。事象を書き換える魔法、因果を断つ刃、魂を吸う鎖。あらゆる神域の武具がルカを襲う。
しかし、そのすべてはルカの手前数センチで、見えない壁に阻まれた。
「『未承認の物理干渉』。……予算外の支出として、すべて受理を拒否します」
ルカがそう呟くだけで、最強を誇るはずの攻撃はすべて「無害な空気」へと変換され、そよ風となって彼の髪を揺らすだけに終わった。
「……。
……。
……三十分。予定より五分、超過しましたね。……やはり、手作業でのリストラは、多少の時間のブレが生じます」
広場に残ったのは、血の一滴も流れることなく、ただ「最初から存在しなかったこと」にされた二千七百名分の、空虚な空白だけだった。
■ 局長の宣告:【神域の統制】
生き残ったわずか三百名の監査官たちは、恐怖のあまりその場に平伏し、震えていた。彼らがこれまで地上で見せていた尊大さはどこにもない。ただ、目の前に立つ漆黒の死神が、自分の名前を書き込むのをやめてくれることだけを祈っていた。
ルカは、自身の万年筆の先を指先で軽く拭い、冷徹な声で告げた。
「……。
……生き残った者たちに、新たな業務命令を下します。これより、管理局直属の『清算部隊』として再編します。ターゲットは地上の『三つの特異事案』――アルト、セレスティーナ、ファルマ」
ルカが虚空にペンを走らせると、崩壊しかけている地上の映像が、かつてない鮮明さで浮かび上がった。
ルカを求めて狂い、世界を内側から食い破り、神域の門を力ずくでこじ開けようとしている、かつての教え子と、愛した女性たちの凄惨な姿。
「……。
……彼らは、僕が直接『修正』します。貴様たちは、周囲の因果が漏れ出さないよう、空間の『絶対封鎖』にのみ従事してください。……。
……。
……遅延は認めません。……失敗すれば、次は貴様たちの名前に、僕が心を込めて横線を引くことになります。……。
……。
……。
……さあ、行きましょう。……定時までに、この乱れた帳簿をすべてクリーンにするために」
神域の全システムが、ルカの放つ圧倒的な「管理権限」に屈服し、一斉に鳴動した。
管理局長ルカ。
その冷徹な背中には、もはや救世主の優しさは欠片もなかった。
あるのは、自分を狂わせた三人の「バグ」たちを、組織の冷酷な論理で徹底的に解体し、世界のページを正常な白紙へと戻そうとする、非情な管理者の意志だけであった。




