第9話:灰の残滓と三人の慟哭
光が引いた後のガル・ムール平原には、鼓膜を圧迫するほどの、あまりにも残酷な静寂が横たわっていた。
つい数秒前まで世界を焼き尽くさんとしていた断罪の雷鳴も、空間を削り取る数式の嘶きも、今はもう聞こえない。ただ、戦場となったフェルン村の跡地に、命の気配を一切含まない乾いた風が、虚しく吹き抜けていくだけだった。
その中心で、三人の「怪物」たちは、魂を抜き取られた泥人形のように立ち尽くしていた。つい先ほどまで、その指先に、その肌に、確かに感じていた「ルカ」という熱の記憶だけが、呪いのように彼女たちの心臓を刻んでいた。
■ 喪失の風景:【体温の消失と勇者の崩壊】
アルトは、自分の両手を信じられないものを見るかのように震えながら見つめていた。
指先には、まだルカの肩を掴んだ際の肉厚な感触がこびりついている。掌には、彼が確かに生きていた証である、あの胸の焼けるような熱い体温の残滓が、焼き印のように残っている。だが、その腕の中にいたはずの男は、世界を繋ぎ止めるための代償として、文字通り「砂」となって、指の間を零れ落ちていった。
「……う、あ…………あああッ!!」
アルトの喉から、獣の断末魔のような、あるいは弦の切れた楽器が鳴らす不協和音のような悲鳴が漏れた。
彼は血に塗れた泥の中に崩れるように膝を突き、ルカが立っていた場所の土を、指の爪が剥がれるのも厭わずに掻き集める。だが、必死に握りしめた拳の中から零れ落ちていくのは、無情な砂と、ザキエルが残した冷たい灰の混じり物だけだった。
「嘘だろ……。ルカさん……。俺が、今度こそ俺が守るって……あんたの代わりに俺が傷つくって、そう決めたんだ! あんたを救うために、俺はこの汚れた剣を取ったんだ……! なのに、またあんたは……俺に何一つ報いさせてくれず、独りで勝手に『完了』しやがった……ッ! 認めない……こんな救済、俺は絶対に認めないぞ!!」
黄金の勇者の瞳から溢れ出したのは、世界を救った聖なる涙ではない。たった一人の男を繋ぎ止められなかった、底なしの絶望と自己嫌悪が混ざり合った、黒い執着の毒液だった。彼は己の無力を呪い、救われたはずの世界を憎悪するように、地面を拳で叩き続けた。
■ 愛執の破綻:【聖女の埋葬と呪詛】
「ルカ様……。ルカ様、ルカ様、ルカ様……ッ! 嫌です、そんな……そんな冗談、わたくし、受け付けられませんわ……」
セレスティーナは、祈りのポーズを保ったまま、彫像のように固まっていた。
彼女の白い法衣は泥と返り血で無残に汚れ、その慈愛に満ちていたはずの顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃに歪んでいる。彼女にとって、この世界が存続するかどうかなど、もはや道端の石ころほどの価値もなかった。彼女の「唯一の神」は今、自分の腕の中で砂となって崩れ落ち、永遠の保留(死)という名の聖域へと、自分を置いて逃げてしまったのだ。
「返して……。わたくしのルカ様を返してっ!!」
彼女は、ルカの残像が焼き付いた空間を、空気を、必死に掻き毟り始めた。その指先からは鮮血が滴り、彼女自身の制御を失った黒い茨が、泣き声を上げるように周囲の瓦礫を粉砕し、大地をズタズタに引き裂いていく。
「わたくしの愛を……あの熱を……。どこへ隠したの!? ザキエル!? 神域!? 誰でもいいわ……あの方を返さないというのなら、わたくしが、この救われた世界を……今度こそ、あの方が愛したこの忌々しい全てを、跡形もなく呪い殺してあげますわ……ッ! ルカ様がいない世界に、存在する価値なんて、一つもありませんのよ!!」
聖女の愛は、守るべき対象を失ったことで、世界そのものを敵に回す純粋な「呪い」へと完全に変質した。彼女の瞳には、もう神の光など宿っていない。ただ、ルカを連れ去った理への、底冷えするような殺意だけが燃えていた。
■ 皇帝の陥落:【冷徹な崩壊と空虚な笑い】
ファルマは、ただ一人、微動だにせず立ち尽くしていた。
彼女は崩れたマントを翻すこともなく、ルカの力強い「鼓動」を最後に感じた自分の胸元を、骨が軋むほど強く握りしめている。その瞳には、大陸を震わせた冷徹な支配者の光はなく、ただ広大な、どこまでも続く空虚だけが広がっていた。
「……定時退社、か。どこまでも皮肉な男ね」
その声は、ひどく掠れ、震えていた。
彼女は、ルカが消えた地点に落ちていた、ひび割れた銀の懐中時計の破片を拾い上げる。針はもう、一時一秒たりとも動くことはない。
「わたくしは、この国を手に入れた。大陸を、法を、最強の軍勢を……望むすべてを手中に収めたわ。……けれど、たった一人の『部下』さえ、その実体を縛り付けておくことができなかった。皇帝? 支配者? 笑わせないで。わたくしは、ただの無力な女に過ぎなかったというわけね」
ファルマは天を仰ぎ、喉を鳴らして乾いた笑い声を漏らした。
「ふふ……あはははは! 笑えるわ。わたくしは、また、あの方に敗北したのね。……自分の命さえ事務的に使い捨てて、わたくしたちに勝手に『生』を押し付けて消えるなんて。……どこまで、独善的で、残酷な男かしら……ッ!!」
彼女の指の間から、時計の破片がパラパラと零れ落ちる。
鉄の女と呼ばれた皇帝の頬を、初めて、熱い熱い後悔の涙が伝い落ちた。
■ 灰の中の予兆:【未解決事案の再起動】
三人がそれぞれの地獄に沈み、絶望を深める中。
ルカが消滅した「特異点」の空間が、微かに、本当に微かに、陽炎のように揺らめいた。
それは、ザキエルが構築した幾何学的な数式ではない。
もっと深く、もっと無機質な、世界の根幹からのフィードバック。
ルカが命を、魂を、一万二千五百人の因果を賭して行った『事後承認』。それは、神域の帳簿に、決して消去することのできない巨大な「矛盾」として刻まれた。ルカという個人の肉体は消えた。だが、彼が強引に承認し、固定した「生存」という名のバグは、今やこの世界の理を内側から侵食し、新たな法則を書き換え始めている。
風に舞う灰の中に、一瞬だけ、灰色のインクが虚空に新たな文字を綴るような幻影が見えた。
『管理番号:未定。……承認内容の履行を確認。これより、当該個体の――再雇用に向けた、待機処理を開始します。』
三人の主役たちは、まだ知らない。
ルカという執念深い事務官が、自分たちの狂愛から逃れるために「死」という名の退職を選んだとしても、神域という名の「組織」が、これほどまでに異常な『有能』を、ただで眠らせておくはずがないということを。
絶望に染まる平原の空に、ルカの再来を予感させる、冷たい灰色の星が一つ、静かに瞬いた。




