第8話:奇跡の十分間、あるいは体温の再会(終局)
三色の螺旋がザキエルの中心核を貫こうとした、その刹那。
世界の記述そのものが、物理的な悲鳴を上げた。空間を構成する「文字」が、過負荷によって次々と爆ぜ、現実の輪郭が焼け焦げた紙のように丸まっていく。
「……認めん。認めんぞ、事務員ッ! 私が、神域が定めた正しき清算が、このような不条理に敗北するなど、断じて認めん! 私が消えるのではない……この世界(帳簿)そのものが間違っているのだ。ならば、ページごと焼き払ってくれる!」
ザキエルの瞳から理性の光が急速に失われ、代わりに「虚無」の漆黒が、血管のような亀裂となってその全身を走り出した。彼は自身の霊基を、存在そのものを、そして神域から与えられた「世界を記述する全権限」を燃料として暴走させた。
ザキエルの肉体はもはや、人の形を維持してはいなかった。それはフェルン村を、ひいてはガル・ムール平原の広大な空間そのものを歪ませ、飲み込みながら、空を覆い尽くす巨大な、幾何学的模様を描く**「断罪の円環」**へと変貌していく。
それはザキエルの個としての意思ではなかった。システムが、修復不可能な致命的エラーを検知した際、領域ごと、そこに存在する因果ごと物理的に強制抹消するための、神域による**「強制フォーマット」**の最終段階であった。
■ 絶望の広域消滅:【最終形態・世界葬】
「ルカ様! 空が、空そのものが、わたくしたちを飲み込もうとしていますわ!」
セレスティーナが絶叫した。見上げれば、空はかつての青さを完全に失い、無機質な白いグリッド線と、すべてを原子レベルで分解する黒い嵐が交互に吹き荒れている。
瓦礫は砂よりも細かな「数値」へと解体され、帝国の魔導機甲兵たちも、その強固なはずの魔導装甲が安物の紙のように剥がれ落ち、光の粒子となって消えていく。世界そのものが、巨大なシュレッダーにかけられているかのような凄惨な解体作業。
「ちっ……! 攻撃が、空間そのものに吸い込まれる……! 斬るべき『実体』が、もうどこにもないぞ!」
アルトが渾身の力で聖剣を振るうが、その黄金の波動さえも、広がり続ける黒い亀裂に触れた瞬間に飲み込まれ、何の意味もなさず虚無へと霧散する。
ザキエルであったものは、今やこの領域全体を包む「閉鎖された壁」となり、その内側にあるすべての存在を圧搾し、絶対の無へと還元しようとしていた。
逃げ場はない。この因果の牢獄が閉じきれば、ルカが救った一万二千五百人の魂も、三人の主役たちも、そして今まさに得たばかりのルカの「実体」も、まとめてこの世から「不具合」として抹消される。
残り、一分三十秒。
■ 管理官の最終決断:【事後承認・世界再定義】
ルカの右腕が、肘のあたりからパラパラと灰となって崩れ、風に舞った。
一万二千五百件の因果を消費して維持していた「有給休暇(実体化)」は、もはや秒読みの段階に入っている。腕を失う激痛さえも、彼は事務的な意志で神経ごと遮断した。ただ冷徹に、左手で灰色の槍――彼の執念が形を成した「最終承認の証」を強く、強く握り直した。
「……想定内です。ザキエル。貴様のような、規律を絶対視する『堅物』なら、自分の失敗を認めるくらいなら、心中を選ぶと思っていました」
ルカは静かに目を閉じ、自身の中に眠る、一年間守り続けてきた膨大な嘆願の声を呼び覚ます。
飢えから救われた子供。戦火を免れた恋人。病を乗り越えた老人。彼らがルカに託した「生きたい」という祈りのすべてを、槍の穂先に、一滴の無駄もなく凝縮させていく。
「アルト君、セレスティーナ様、ファルマ陛下。……僕を信じて、すべての魔力を僕の『承認印』に預けてください。この領域に下された『削除命令』を、僕が責任を持って上書きします」
「ルカ、さん……!? だめだ、そんなことをすれば、あんたの魂そのものが……!」
アルトが本能で察知した。ルカがやろうとしているのは、暴走する世界の削除負荷を自分一人で「受理」し、システムからの攻撃を一身に引き受けることで、彼女たちを記述の外へ逃がすことだ。
「……これは依頼ではありません。本業務を完遂するための、事務的な『工程』です。……急いでください。僕に、まだ体温(実体)があるうちに」
ルカの穏やかな、けれど一切の反論を許さない灰色の瞳に、三人は戦慄し、そして咽び泣きながら、持てる全ての生命の火をルカへと注ぎ込んだ。
アルトの聖剣から溢れる黄金の勇気。
セレスティーナの茨が紡ぐ漆黒の愛執。
ファルマの魂を焦がす紅蓮の支配。
三つの極大エネルギーがルカの槍の中で激しく混ざり合い、それは虹色を通り越し、ついには何色にも染まらない、透き通った**「無色の承認光」**へと昇華された。
■ 最終工程:【定時退社の向こう側】
「管理番号『世界終焉』――その執行を『永久保留』。代わりに、本領域内の全生命個体の存続を、管理官権限にて『事後承認』します」
ルカが槍を、天を覆う虚無の円環へと突き立てた。
衝撃波が、世界の時間を止めた。
ザキエルが構築した「削除命令」の絶対的な数式に対し、ルカは一万二千五百通の「生きたい」という物理的な嘆願書を、鉄壁の防壁として叩きつけたのだ。
真っ白な空間に、ルカが振るう槍先から、力強い「灰色の修正線」が次々と引かれていく。神域が「死ね」と書き記した文字列の上に、ルカが「否」と、血を吐くような執念で書き加えていく。
バキ、バキ、と因果の背骨が折れるような音が響き、空を覆っていた幾何学模様の円環が、内側から粉々に砕け散り始めた。
それと引き換えに、ルカの全身はひび割れた陶器のように脆くなり、その隙間から灰をボロボロと零していく。脚が消え、胴体が削れ、それでも彼は槍を離さない。
「……ああ、やっと。……やっと、これで、僕の仕事は……」
残り、十秒。
ザキエルの断末魔の叫びと共に、世界を包んでいた虚無が、まばゆい光の奔流となって弾け飛んだ。
光が収束し、世界は再び「記述」を取り戻していく。
その光り輝く渦の中で、ルカは最後に、自分に必死に手を伸ばし、声を限りに名前を呼ぶ三人の顔を見た。
彼は満足そうに、けれど少しだけ、約束を破ってしまうことを済まないと感じているかのように、一瞬だけ、かつてのように穏やかに微笑んだ。
「……。
……本日の、すべての業務は、……これにて……終了、です……」
光が完全に晴れたとき。
そこには、元の静かな、けれど戦いの傷跡が生々しいガル・ムール平原が戻っていた。
けれど。
三人の腕の中に確かにあったはずの「温もり」は、もう、どこを探しても見つからなかった。




