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『有効化、保留中』  作者: 月見酒
『欠勤する救世主、あるいは神域の最終決算(エンドロール)』
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第8話:奇跡の十分間、あるいは体温の再会


 現場監査官ザキエルが再定義した「白い虚無」の空間。その絶対的な静寂と無機質な色彩が、今、内側から激しく、残酷なまでの熱量を持って脈動を始めた。

 ルカがその細い指先で掲げたのは、彼がかつて因果調律局のデスクで、死の間際まで守り抜いた「一万二千五百件の保留事案」である。それは彼がデスクに座っていた一年間、理不尽な死や不当な消滅を突きつけられた名もなき民たちの、生への未練、執着、そしてルカという事務官への無意識の感謝の集積であった。

 その膨大な、行き場を失った因果のエネルギーが、今、霧散しかけていたルカの輪郭を補完し、再定義するために一点へと集束していく。神域の法則を内側から食い破る、史上最大級の不具合バグ。それは、冷酷な世界の記述が、彼という献身的な事務官に与えた、最後にして唯一の「執行猶予」であった。

■ 受理される実体:【体温の帰還】

 淡い灰色の光が渦を巻き、透過していたルカの輪郭が、劇的な密度と質量を伴って「肉体」へと固定されていく。

 それは単なる視覚的な復元ではない。因果の糸が編み込まれ、細胞の一つ一つが神域のログから直接編み上げられていく、創造の再演であった。

 死人のような蒼白さではなく、微かな、しかし確かな赤みを帯びた肌。

 虚空を眺めていた虚ろな瞳に、現実の光を反射する生命の湿り気が宿る。

 そして、静まり返った戦場に、鼓膜を直接叩くような力強い音が響き渡った。ドクン、ドクン。それは、一年前のあの日、彼がすべての責任を肩代わりして停止させたはずの、本物の「心臓の鼓動」であった。

「……あ。ああ……ルカ、さん……。本当に、そこにいるのか……?」

 最初に声を漏らしたのは、修羅と化した勇者、アルトだった。

 ザキエルの法則改変によってボロボロに崩れかけた聖剣を杖にし、肺を焼くような血反吐を吐きながらも、彼は狂おしいほどの希望を持って顔を上げた。その視線の先には、透けることのない、影を落とした「生身のルカ」が立っていた。

 アルトは、縋り付くように震える手を伸ばした。その指先がルカの肌に触れた瞬間、伝わってきたのは幽霊のような凍てつく冷気ではなく、自分と同じ、あるいはそれ以上に熱く、重い、確かな**「体温」**だった。

 その温もりこそが、アルトの理性の最後の一線を、跡形もなく焼き切った。

■ 三色の狂乱:【接触の歓喜】

「あああああ! 触れる……! 触れますわ! 偽りではない、ルカ様、貴方の腕が、貴方のこの柔らかな熱が、わたくしの掌の中にありますわ!」

 セレスティーナが、聖女としての矜持も、教団の教義もすべてかなぐり捨て、泥に塗れた膝でルカの足元に縋り付いた。彼女の指先は、ルカの衣服の乾いた感触、その下にある確かな筋肉の弾力、そして呼吸に合わせて上下する胸の動きを確かめるように、激しく、卑しく、必死に彼の体を這い回る。彼女の瞳からは、祈りよりも純粋で醜い執着の涙が溢れ、それはルカの頬を汚し、熱となって彼の肌に染み込んでいく。

「……捕まえた。今度こそ、逃がさない。わたくしがこの国を統べる理由は、貴方を囲うためだけに必要だった。二度と、わたくしの視界から消えることは許さない……!」

 ファルマが、ルカの背後からその首筋に顔を埋めた。

 帝国の冷酷な統治者の仮面は、ルカの放つ「生きた男の匂い」に触れた瞬間に粉々に砕け散った。彼女はルカの心音を耳で直接確かめるように強く、折れんばかりに抱きしめ、その実体が二度と霧に還らぬよう、自身の魔力を呪いの鎖のように紡いで彼の全身に絡みつかせる。

 三人の主役たちにとって、この十分間は、神域の崩壊や世界の救済よりも遥かに重い「奇跡」だった。一年間、どれほど空を切り、どれほど悲鳴を上げても手に入らなかった「ルカの手触り」が、今、掌の中で脈動している。

■ 因果の再演算:【十分間の総力戦】

 ルカは、自分を奪い合う三人の爆発的な情念に眉一つ動かさず、ただ静かに左手首に巻かれた、ひび割れた銀の時計を、事務的な瞳で一瞥した。

「……十分です。一万二千五百件の保留因果を依り代に、僕の実体を現世に『事後承認』で強行固定しました。……この時間が過ぎれば、僕は再び、ただの記録ログに還元されます」

 ルカの声は、実体を得たことで、かつて調律局の静かな廊下で響いていた、あの低く、落ち着いた響きを取り戻していた。

 彼は、自分に縋り付く三人の頭を、まるで行儀の悪い部下を宥めるように、事務的に、けれど不思議と慈愛を込めて優しく撫でた。

「ですから、その前に、積み残した『残業』を終わらせましょう。……ザキエル。貴様が記述したその『理不尽な仕様』は、僕がすべて赤字で修正リライトします」

 ルカが地面を蹴り、一歩踏み出した。

 実体化したことで、彼が握る「折れた羽根ペン」は、一万二千五百人の執着を刃に変えた、灰色の光を放つ長槍へと変貌していた。

「アルト君、剣を。セレスティーナ様、呪詛を。ファルマ陛下、火力を。……これより、僕がザキエルの権限を一時的に『凍結ロック』し、全事象の『最終承認』を開始します。……僕についてきてください」

■ 峻烈なる連携:【事務的殲滅】

 ルカが戦場の中心へ躍り出る。その動きに、もはや残像はない。確かな質量を持った弾丸となり、ザキエルの眼前へと肉薄した。

「抜かせ……バグが実体を持ったところで、計算式は変わらん!」

 ザキエルが叫び、大鎌を振り下ろす。空間を断裂させるその一撃に対し、ルカは回避さえしない。槍の石突を地面に突き立て、冷徹に宣告した。

「『座標固定』の事後承認。――その鎌の軌道、既に処理済みです」

 ルカの影から、かつて彼が救った兵士たちの幻影が数千、数万と立ち上がり、その実体化した盾で鎌を受け流す。

「アルト君、左舷の『削除権限』を破壊してください!」

「応ッ!!」

 ルカの声に反応し、アルトが黄金の雷火となって跳ねた。ルカが槍でザキエルの防御術式に「修正(傷跡)」を入れた瞬間、アルトの聖剣がその隙間へ正確に突き刺さる。

「セレスティーナ様、その傷口へ因果のエラーを流し込め!」

「喜んで……ルカ様っ!」

 黄金の斬撃によって穿たれたザキエルの傷口に、セレスティーナが放った黒い茨が蛇のように侵入し、神域の演算回路を内側から食い荒らす。

「ファルマ陛下、総仕上げです。……余計な事象はすべて、僕が『保留キープ』しました!」

 ルカが槍を天に掲げると、ザキエルが放とうとしていた反撃の光が、まるでインクの染みのように一箇所に固まり、静止した。

「……終わりよ! 灰に還りなさい、神の猟犬ッ!」

 ファルマの魔導機甲兵たちが放つ極大の熱線が、ルカが固定した一点――ザキエルの胸元へと一点に収束し、爆発した。

 爆風の中、ルカは再び時計を見た。

 残り、八分。

 

「十分で、すべて片付けてやる。……だから、ルカさん。その時間が終わっても、……今度は、絶対に俺の手を離すなよ!」

 アルトの叫びが、崩壊する世界の空に木霊した。肉体を持ったルカによる、神をも恐れぬ「最終決算」が、今まさに加速していく。


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