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『有効化、保留中』  作者: 月見酒
有効化、保留中:静かなる事務員の「一万二千五百件」の拒絶
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第2話:保留のひずみ、あるいは聖女の空虚な祈り


 法導省因果調律局の朝は、山積みになった羊皮紙の匂いと、澱んだ魔力インクの香りで始まる。

 ルカは昨日と変わらぬ時間に登庁し、昨日と変わらぬ手順で灯火を点け、昨日と変わらぬ角度で羽根ペンを置いた。

 アイリスの街は、何事もなかったかのように平穏を取り戻していた。昨日の聖剣の儀式が「失敗」に終わった事実は、人々の間で「期待外れの茶番」として処理され、すでに記憶の端に追いやられている。劇的な悲劇が起きなかった代わりに、人々は刺激のない日常という微睡みに、再び沈み込んでいた。

「おはよう、ルカ君。昨日は災難だったね、あんな大きな行事の担当になっちゃって」

 隣のデスクから、同僚のミナが明るい声をかけてくる。彼女はいつものように、街の評判のパン屋で買ってきたという甘い香りのデニッシュを齧っていた。

 彼女の目には、街を覆う不気味なほどの「静寂」は見えていない。ルカの視界には、街の至るところで、本来なら昨日弾けるはずだった感情の残滓が、行き場を失った灰色の霧のように石畳に這いつくばっているのが見えていた。

「おはよう、ミナ。……ああ、ただの事務手続きの不備だよ。たいしたことじゃない」

「またまたー。ルカ君が『異常なし』ってハンコ押すと、本当に何も起きなくなるから不思議よね。一部じゃ『幸運の調律官』なんて呼ばれてるの、知ってる?」

 ミナが無邪気に笑い、パンを差し出す。

「一口食べる? ここの、すごく美味しいのよ」

 差し出された指先がルカの手に触れる。その温もりは、昨日ルカがアーカイブした数万人の怨嗟や絶望とは無縁の、純粋で凡庸な「生の熱」だった。ルカはその温かさに眩暈を覚えながらも、事務的な微笑を崩さずに断った。

「ありがとう。でも、これから神殿への回診モニタリングがあるんだ」

「神殿? ああ、セレスティーナ様ね。彼女も大変よね、せっかくの晴れ舞台がああなっちゃって。なんだか最近、神殿の周りって空気が重い気がしない?」

 ミナの言葉に、ルカの手が止まる。

「……重い?」

「ええ、なんだか耳鳴りがするというか、肩が凝るというか。ま、気のせいだと思うけど!」

 気のせいではない。

 ルカは心の中で呟いた。

 因果を保留するということは、その事象を消し去ることではない。ただ「現実化する時間」を後ろへずらし、次元の隙間に積み上げているだけだ。ダムに溜まった水が、微かな隙間から漏れ出すように、保留された因果の重圧は、徐々に現世の物理法則を侵食し始めている。

 ルカは法導台帳を小脇に抱え、王立神殿へと向かった。

 白亜の塔がそびえ立つ神殿の境内は、いつも以上に静まり返っていた。祈りを捧げる信徒たちの姿も疎らで、空気はひどく冷え切っている。

 ルカの視界には、神殿の屋根から黒い泥のような「未使用の奇跡」が、ドロドロと滴り落ちているのが見えた。セレスティーナが昨日起こすはずだった、そしてルカが止めた、殉教の光。その光は、出口を失って腐敗し、今や人々の精神を蝕む重圧へと変質しつつあった。

 礼拝堂の奥、祈祷の間に、彼女はいた。

 セレスティーナは、神像の前で膝をつき、祈りを捧げていた。しかし、その背中に以前のような神々しさはない。ルカにしか見えない「黒い後光」が、彼女の華奢な肩を押し潰すようにのしかかっている。

「……ルカ様ですか」

 ノックをする前に、彼女が振り返った。

 その瞳は酷く虚ろで、潤いを失っている。彼女はゆっくりと立ち上がり、ルカの方へ歩み寄った。床を叩く足音が、空っぽの礼拝堂に不気味に響く。

「本日の因果定例調律に伺いました。聖女様、体調はいかがですか?」

「体調、ですか。……ええ、とても静かですわ。あの日以来、わたくしの祈りはどこにも届かず、ただわたくしの内側に、冷たい石のように積み重なっていくのが分かります」

 セレスティーナが、ルカの目の前で足を止める。彼女から漂うのは、清浄な香香ではなく、埃と、そして何かが腐り始めたような、甘ったるく不穏な匂いだった。

「検査を始めます。手を」

 ルカが事務的に促すと、彼女は拒むことなく、細い両手を差し出した。

 ルカがその手首を掴む。

 その瞬間、ルカの脳内に激痛が走った。

 セレスティーナの血管を流れているのは、もはや血液ではない。それは「死に損ねた祈り」という名の高密度のエネルギー体だ。ルカの手のひらを通じて、彼女が抱える「誰かのために死にたかった」という狂おしいほどの自己犠牲の欲求が、濁流となって流れ込んでくる。

「……っ」

 

 ルカは奥歯を噛み締め、彼女の手を離さなかった。

 もし今ここで手を離せば、彼女の内側で臨界に達した因果が爆発し、神殿ごと吹き飛ばすだろう。ルカは自分の精神を鋼の盾に変え、彼女の熱量を吸い上げ、台帳の裏側にパッキングしていく。

「ルカ様の手、今日は少し温かいですわね。わたくしの冷たい祈りを、吸い取ってくださっているからかしら」

 セレスティーナが、うっとりとした表情でルカの顔を覗き込む。彼女の指が、ルカの腕に絡みつく。それは救いを求める者の縋り付きであり、同時に、自分をこの空虚な檻に閉じ込めた監守への、歪んだ情愛の表現でもあった。

「セレスティーナ様、過剰な因果の蓄積は精神を摩耗させます。もっと……日常的なことに意識を向けてください。美味しいものを食べるとか、花を愛でるとか」

「日常? わたくしにそのようなもの、あったでしょうか。わたくしは、奇跡を起こして散るためだけに育てられたのです。それを貴方が止めた。わたくしから、死ぬ理由を奪ってしまった」

 彼女の指先が、ルカの喉元に触れる。冷たい。氷よりも冷たい指が、ルカの脈動を確かめるように這う。

「今のわたくしは、ただの空っぽな器。中身は貴方が預かっている。……ねえ、ルカ様。いつになったら、わたくしを『有効化』してくださるの? いつになったら、わたくしを完成させてくださるの?」

 彼女の問いは、刃物のようにルカの胸を刺した。

 ルカは彼女の指を静かに引き剥がし、事務的な表情を取り戻す。

「因果の有効化には、適切なタイミングと社会的な合意が必要です。現在はまだ、その段階ではありません。……今日の調律は完了しました」

 ルカは台帳に『異常なし』と書き込む。その文字が、自分でも嘘臭く見えた。

 彼女の因果はすでに変質している。本来なら美しい「光の殉教」になるはずだったそれは、保留され続けたことで、触れたものすべてを呪う「黒い絶望」へと変わりつつある。

 神殿を後にしたルカは、次に騎士団の訓練場へと向かった。

 そこには、昨日の「勇者候補」アルトがいるはずだ。

 訓練場の入り口に着くと、尋常ではない破壊音が聞こえてきた。木材が砕け、石畳が割れる音。

 ルカが中に入ると、そこには上半身裸で、一心不乱に木人を叩き続けるアルトの姿があった。彼の周囲の空気は陽炎のように揺らめき、放たれる一撃一撃が、従騎士のものとは思えないほどの衝撃波を生んでいる。

「……アルト君」

 ルカの声に、アルトが動きを止めた。

 振り向いた少年の顔は、汗と、そして抑えきれない焦燥で歪んでいた。彼の皮膚は赤く上気し、全身から蒸気が立ち上っている。ルカの視界には、彼の心臓付近で、行き場を失った「英雄の力」が、荒れ狂う猛獣のように暴れているのが見えた。

「ああ、ルカさん……。すみません、なんだか体が、言うことを聞かなくて。動いてないと、自分が内側から焼き切れてしまいそうなんだ」

 アルトが肩で息をしながら歩み寄ってくる。彼が歩くたび、足元の石畳に微かな亀裂が入る。保留された力の「漏れ」だ。

「昨日の今日だ、無理もない。アルト君、少し休むんだ。これは法導省からの勧告だ」

「休みたくない! 休むのが、一番怖いんだ。じっとしていると、聞こえてくるんだよ。……『なぜ剣を抜かなかった』って。知らない誰かが、俺を責める声が。俺が剣を抜かなかったせいで、何かが壊れてしまったような気がしてならないんだ」

 アルトがルカの肩を掴んだ。

 熱い。

 服越しでも伝わる、火傷しそうなほどの熱量。

 

「ルカさん、あんたは言ったよな。俺が引くべきじゃないって。あれは間違いだったんじゃないのか? 俺は、あの時……」

 アルトの指がルカの肩に食い込む。その力が、ルカの鎖骨を軋ませる。

 ルカは痛みを感じながらも、逃げなかった。

 彼は知っている。この痛みは、アルトが本来世界に対してぶつけるはずだった怒りの、ほんの一滴に過ぎないことを。

 ルカはアルトの熱を帯びた胸板に、そっと掌を当てた。

「間違いじゃない。君が今生きている、それが全てだ。アルト君、君の鼓動が速すぎる。落ち着くんだ。……私が、止めてあげるから」

 ルカはアーカイブの深層を解放し、アルトの内側で暴走する「英雄の熱」を強制的に吸い上げ始めた。

 ジュウ、という音が、今度ははっきりと聞こえた気がした。

 ルカの掌を通して、アルトの荒ぶる魂が鎮まっていく。吸い取られた熱量はルカの腕を焼き、血管を黒く浮かび上がらせるが、彼は無表情を貫いた。

「……はあ、……っ。ああ、涼しい……。ルカさんに触られると、いつも、頭の中が静かになる……」

 アルトがルカの胸に頭を預け、崩れ落ちる。ルカはその大きな体を支え、地面に座らせた。アルトの荒い吐息が、ルカの首筋を濡らす。その接触は、残酷なほどの官能を伴っていたが、それは死にゆく者に麻酔を打つような、救いのない快楽だった。

「……ルカさん。あんた、いつも手が冷たいな。紙の読みすぎか?」

「そうかもしれないな」

 ルカはアルトの濡れた髪を、事務的な手つきで撫でた。

 アルトはそのまま、深い眠りに落ちた。保留された熱量を無理やり奪われた反動だ。

 ルカは立ち上がり、痺れる右腕を隠すようにマントを羽織った。

 視界の端に、再びログが流れる。

【観測ログ:聖暦四一二年 二月六日】

【案件三一二:二次影響観測】

【事象:対象者アルト及びセレスティーナにおける因果の漏洩、及び精神的摩耗を確認】

【処置:追加無効化による安定化を執行】

【現況:異常なし。ただし、保留データの圧縮率が規定値を超過】

 規定値超過。

 ルカはその文字を、冷めた目で見つめた。

 ダムの決壊は、もう始まっている。

 彼がどれだけ事務的に、どれだけ正確に、どれだけ孤独に因果を保留し続けても、世界は「起きたがっていること」を止められない。

 夕暮れ時。

 執務室に戻ったルカを待っていたのは、山のような「新たな保留案件」のリストと、一通の封書だった。

 差出人は、第二王女ファルマ。

 

『今夜、王宮の裏庭に来なさい。来ないのなら、わたくし、ここで自分を「有効化」してしまうわよ。それがどういう意味か、貴方なら分かるわね?』

 ルカは溜息をつき、その手紙をランプの火で焼いた。

 燃えかすが、灰となって机に沈殿していく。

 街の灯りが一つ、また一つと灯り始める。

 そこには、ルカが守り続けている、偽物の、しかし平和な夜が広がっていた。

 ルカは羽根ペンを手に取り、真っ白な羊皮紙に、今日最後の一行を書き込んだ。

「世界は、特に問題なかった」

 その文字の上に、一滴の汗が落ちて、文字を滲ませた。

【保留件数:一二、四九二】

【有効化予定:未定】


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