第5.7話:神の帳簿、あるいはバグの正体
神域より遣わされた現場監査官、ザキエルは、ガル・ムール平原の上空数千メートルに浮遊し、眼下で繰り広げられる「不条理」を無機質な瞳で観測していた。
彼の網膜には、常に世界の記述言語がリアルタイムの数値として投影されている。本来、彼がこの地で実行した「清算」は、対象領域内の全質量を、因果ごとゼロに還元するはずの完璧な処理であった。塵一つ、記憶一つ、本来存在してはならなかった命の火を一つ残さず、真っ白な紙に戻す作業。それが神域の「清掃」であり、世界の調律である。
「……不可解だ。計算が合わん。理の数式が、ノイズによって書き換えられている」
ザキエルの声に、隠しきれない苛立ちと、微かな困惑が混じる。
彼のモノクルに表示されたデータには、あり得ない「異常値」が警告の赤色で点滅し続けていた。かつて宇宙の開闢から続く完璧なシステムが、たった一人の「下級事務官」が残した残滓によって、激しく拒絶反応を起こしていた。
■ 監査ログ:【イレギュラー・レポート:因果律の崩落】
> 【対象領域:ガル・ムール平原】
> 【執行ステータス:清算完了(……再計算中:判定保留)】
> エラー:生存個体を検知(個体名:カイル)
> * 本来の因果: 一年前の戦闘にて魔導槍による腹部貫通、即死。
> * 現状: 生存。死の事象が「重傷」へと事後改竄されている。改竄の論理構成は『重要臓器を数ミリ回避した』という、統計学的にあり得ない稚拙な「言い訳」に基づく。
> * 改竄者: 不明(残存する灰色のノイズ:一致率99.8%――元・下級事務官ルカ)。
> 警告:接近する高エネルギー反応(三点――特級排除対象)
> * 種別:勇者(聖剣) ―― 出力:測定不能。因果の凍結解除による反動熱が、本来の物語想定値を400%超過。精神状態:極めて不安定。
> * 種別:聖女(泥濘) ―― 浸食率:神域汚染レベル。ルカへの執着を核に「死の運命」を拒絶。因果律を物理的に歪曲。
> * 種別:皇帝(焦熱) ―― 戦力規模:帝国の全魔導資源を一点投入。既存の歴史を焼き潰す猛火。
> 総合判定:当該領域は「記述不能」な混沌に突入。原因はすべて前任者ルカの遺した「保留案件」の二次災害と断定する。
>
■ 事務官ルカへの再評価:【無能から最悪の裏切り者へ】
「ルカ……あの、常に定時退社を望み、責任から逃げ続けていた無気力な『灰色の鼠』が、これほどの『毒』を仕込んでいたというのか」
ザキエルは巨大な大鎌を握り直し、その刃に「清算」の魔力を纏わせた。
かつて、因果調律局においてルカは「最も向上心のない、向上させる必要さえない最下層」と評されていた。上司が押し付ける膨大な悲劇、血生臭い戦争、理不尽な疫病――それら全てを、ルカは文句ひとつ言わず(しかし笑顔も見せず、無機質な義務感だけで)引き受け、そして「処理中」という名の山積みに放り込んで放置するだけの男。ザキエルは、ルカのことを「清算を先送りにすることで、その場しのぎの平穏を作り、自分の仕事量を減らしているだけの無能」だと断じていた。
だが、現実は違った。今、目の前で起きている惨状がそれを証明している。
ルカが「保留」していたのは、ただの事案ではない。
彼は、勇者が絶望で膝を折る瞬間を。聖女が汚れを吸いすぎて泥に沈む瞬間を。王女が孤独に耐えかねて狂う瞬間を――すなわち**「物語が完結(死)に向かうはずの転換点」**をすべて奪い取り、自身の魂という名の非正規ストレージへ隠蔽していた。
彼は、本来交わるはずのなかった彼女たちに「空白の平穏」という名の猶予を与え続けていた。その結果、物語の主役たちは本来枯れるはずだった時期を越えて肥大化し、神域の制御を遥かに凌駕する「怪物」へと成長してしまったのだ。
「奴は、執行を逃れさせただけではない。この『三つの怪物』を、神の支配を離れるまで、自分の独善的な愛で飼い慣らしていたのだ……! あの、薄ら笑いすら浮かべなかった男が、これほどまでに執拗な執着を他者に植え付けていたとは!」
ザキエルのモノクルが、警告のオーバーフローで真っ赤に染まり、パきりと音を立てて亀裂が入った。
急速に接近する三勢力。その先頭を走るアルトの聖剣が放つ金色の余波が、ザキエルが展開していた「世界監査結界」を、まるで安物の薄紙のように切り裂こうとしている。
そして、その直下、兵士カイルの傍らに。
再び、あの男の、灰色の不確かな気配が揺らいだ。
■ 清算の再開:【死刑執行】
「……訂正する。ルカ。貴様は無能ではない」
ザキエルは六枚の鋼鉄の翼を広げ、地上へと急降下を開始した。大気が悲鳴を上げ、彼の通り道にある全ての雲が「清算」され、消滅していく。
「貴様は、神の帳簿に潜み、千年の秩序を内側から食い荒らす、史上最悪の『寄生虫』だ。……貴様が与えたその偽りの平穏が、どれほどのコストを世界に強いているか。今こそ、その帳尻を合わせてやる」
ザキエルの目的は、もはや「名もなき兵士」の端数処理ではない。
この歪んだ物語の中心点。三人の主役たちを狂わせ、世界の法則を骨抜きにし、神に背いた大罪人――たとえそれが実体を持たない幽霊であろうと、その「灰色の影」を世界の記述から一文字残らず抹消し、最初から存在しなかったことにすること。
「見つけたぞ、ルカ。……貴様の『退職願』を、今ここで私の鎌で受理してやる。受理印の代わりに、貴様の存在確率をゼロにしてな!」
上空から降り注ぐ巨大な断裁の重圧。
それと同時に、地平線を割って現れたアルトの聖剣が放つ、怒り狂った黄金の光が正面から衝突した。ガル・ムール平原の因果が火花を散らし、空間がガラスのように砕け散る。
その光と闇、黄金と純白が混ざり合う、一万二千五百件の負債が爆発する混沌の渦中で。
ルカの影が、静かに、そしていつも通りの事務的な手つきで……。
再び、折れたペンの芯を執り、現実という名の書類を書き換え始めた。




