第5話:死に損なった兵士と、灰色の影
その場所は、もはや「戦場」という言葉では生ぬるい、因果の吹き溜まりだった。
アイリス帝国領、辺境の緩衝地帯「ガル・ムール平原」。かつてルカが「局地的な紛争」として、その決着を数年にわたり書類一枚で保留し続けてきた地である。ルカという重しが消えたことで、凍結されていた数年分の殺意、硝煙、そして「本来訪れるはずだった死」が、一気に現実へと雪崩れ込んでいた。
空は因果のオーロラに焼かれ、引き裂かれたカーテンのような光が不気味に揺らめいている。風が吹くたび、そこにはないはずの「過去の断末魔」が混じり、腐敗臭とオゾンの匂いが混ざり合う、生物にとって生理的な忌避感を抱かせる空間へと変貌していた。
■ 既死者の断末魔:【返却された痛み】
「……ああ、熱い、熱いんだ……ッ! 誰か、誰か止めてくれ……!!」
若き帝国兵カイルは、泥と黒ずんだ血にまみれた地面を、爪が剥がれるのも構わず這っていた。
彼の腹部には、敵軍の放った魔導槍が根元まで突き刺さっている。本来、この傷は一年前の「保留された小競り合い」で負い、その瞬間に彼の命を散らすはずのものだった。ルカが事務的にその事実を凍結したおかげで、カイルはこの一年、自分が致命傷を負ったことさえ気づかずに、故郷の母へ手紙を書き、恋人と笑い、平穏に生きてきたのだ。
だが、今。ダムが決壊するように、蓄積された「負傷の事実」が現実へと書き戻されている。
肉が焼け、内臓が爆ぜ、骨が砕ける感覚が、一秒の間に一年分へと圧縮されて神経を焼き尽くす。
「助けて……死にたく、ない……昨日まで、あんなに普通に……生きてたのに……!」
カイルが絶望に濡れた瞳で見上げた先、天から一筋の白い光――監査官ザキエルが放った「清算」の余波が迫っていた。ザキエルにとって、カイルのような生き残りは「計算を狂わせるゴミ」に過ぎない。その光が通り過ぎるだけで、カイルの存在そのものが定義ごと抹消され、魂の欠片さえ残さず消滅するはずだった。
光の刃が、震えるカイルの首筋に触れ、世界の記述から彼の名を消去しようとした、その刹那。
■ 事後承認:【灰色の介入】
――「カチリ」。
世界の騒音が、まるで古い蓄音機の針を上げたように唐突に止まった。
降り注ぐ血の雨も、迫る消滅の光も、すべてがセピア色の静止画へと変わる。その静寂を切り裂いて、ノイズのように揺らめく「灰色の影」が音もなく立ち現れた。
それは、実体を持たない幽霊のようでありながら、どこか見覚えのある、徹底的に着崩れのない事務服に身を包んだ青年の姿。
……ルカであった。
だが、かつての無機質な事務官の姿ではない。その輪郭は絶えず砂のように崩れかけ、透き通った体の中には、血管の代わりに「未処理のログ」が青白く流れている。右目は因果の毒に深く侵され、底なしの闇を湛えていた。
「……本件、死因の妥当性を再検証。……事後承認を開始します」
ルカの声は、風の鳴るような、あるいは劣化した記録媒体を再生するような、ひどく掠れた響きだった。
ルカが震える手で虚空をなぞると、そこにはかつての「法導台帳」の残滓である、光り輝く灰色の座標軸が現れる。
「死因:魔導槍による即死――これを棄却。……付帯条件を追加。『魔導槍は重要臓器を数ミリ回避。極度の出血多量とショックによる……一時的な仮死状態』へと再定義」
「ガ、ア……ッ!? ぐ、あああああ!!」
カイルの体が弓なりに弾けた。
ザキエルの放った「消滅の光」がルカの灰色の影を通り抜けた瞬間、その光はルカの記述によって「ただの眩しいだけの光」へと意味を書き換えられ、無害な粒子となって霧散した。
致命傷だったはずの腹部の傷が、急速に「重傷だが生存可能な傷」へとその性質を変えていく。それは神の奇跡のような慈悲深いものではない。事務員が徹夜で無理な言い訳を書類にねじ込むような、泥臭く、執念深い「現実の改竄」であった。
■ 影との邂逅:【託される意志】
ルカは膝をつき、意識が混濁していくカイルを、かつてと変わらぬ――しかしどこか悲しげな瞳で見下ろした。
彼自身の体は、今の一回の介入だけで、存在の半分ほどが霧のように薄く透けている。一回「承認」するごとに、彼は自らの存在確率を削り、消滅へと近づいていくのだ。
「……生きてください。今の僕は、もう『保留』してあげることはできないけれど……。こうして、結果を少しだけ『修正』することなら、できるから」
「あ……あん、た……は……。あの、時の……事務官……?」
カイルが、一年前に手続きを交わした際の断片的な記憶を頼りに、必死に声を絞り出す。
ルカはそれに応えることなく、ただ折れた羽根ペンの「芯」のような小さな欠片を、カイルの血に染まった胸元にそっと置いた。
「監査官が、君を消しに来る。……これを、アルト君に。……彼なら、君という『例外』を、世界から守り抜けるはずだ」
ルカの姿が、陽炎のようにふっと掻き消えた。
直後、戦場に世界の轟音が戻る。
遠く地平線の彼方から、因果を力付くでこじ開けるような黄金の輝きを放ち、荒野を猛速で疾走してくる「勇者」の気配が迫っていた。
カイルは、ルカから託された熱い破片を握りしめ、泥の中で初めての、そして本当の意味での「生きるための呼吸」を刻んだ。
事務員がいなくなった世界で、死を免れた一人の名もなき兵士。
それが、三人の狂える主役たちをこの地へ呼び寄せ、神域の監査官たちを逆撫でする、最初の決定的な「ノイズ」となった。




