プロローグ:三つの執着、あるいは予兆の空
神域から放たれた三筋の白光は、因果のオーロラがのたうつ空を無慈悲に引き裂き、地上へと突き刺さった。
それは世界の理を「清算」するための絶対的な監査の始まりであったが、今の地上には、その神の意志さえも不純物として撥ね退け、飲み込みかねないほどに歪な熱量が渦巻いていた。
ルカがいなくなったあの日から一年。三人の主役たちは、それぞれの地獄で、その「終わりの始まり」を本能的に感知していた。
■ 北方:アイリス帝国・帝都――「支配の予兆」
豪華絢爛なはずの帝政執務室は、今や酸素さえも焦げ付く「焦熱の檻」と化していた。
若き皇帝ファルマは、彫刻が施された黒檀の椅子に深く身を沈め、窓の外で天を割る白い光を、退屈そうに、しかし冷徹な殺意を込めて見つめていた。
「……目障りな光ね。わたくしの庭を、許可なく照らさないでほしいわ」
彼女の指先には、ルカが残した「折れた羽根ペン」の破片。
ファルマにとって、ルカは自分の人生を勝手に『保留』し、勝手に消えていった、万死に値する不遜な臣下である。だが同時に、この腐りきった王宮で唯一、自分を「駒」ではなく「一人の人間」として守り抜き、あまつさえそのために己を消滅させた男でもあった。
「神だかシステムだか知らないけれど、わたくしの私物を勝手に『清算』しようなんて。……いい度胸じゃない。ルカを裁き、その魂の一片までを支配する権利があるのは、この世界でただ一人、わたくしだけよ」
彼女が苛立ちと共に魔力を解放すると、周囲の文官たちが悲鳴を上げて崩れ落ち、豪華な絨毯がじりじりと黒く焦げた。彼女の手の中で、羽根ペンの破片が警告のように赤く脈動する。ファルマはその熱を愛おしむように握りしめ、歪んだ独占欲を瞳に宿した。
■ 南方:灰の聖教団・本山――「信仰の予兆」
一面に「黒い茨」が血管のように這い回る祭壇の前で、セレスティーナは恍惚とした表情で膝をついていた。
かつての清楚な聖女の面影は、その肌に浮き出た禍々しい「穢れ」の紋様によって塗り潰されている。ルカがいなくなったことで、彼女が本来受けるはずだった数年分の呪詛が、今や彼女を異形の聖女へと変質させていた。
「ああ……聞こえますわ。ルカ様の、震える吐息が。またあの方たちは、貴方に無慈悲な『数字』を突きつけに来たのですね」
彼女の指の間で、羽根ペンの破片が黒い霧を吐き出す。
監査官の光が空を白く染めた瞬間、セレスティーナは慈愛に満ちた、しかし背筋が凍るような冷笑を浮かべた。
「お可哀想なルカ様。もう、あんな冷たくて苦しい事務なんてしなくてよろしいのですわ。大丈夫、今度こそ、わたくしが貴方をこの茨の檻に隠して差し上げます。神様にも、あの傲慢な女狐にも見つからない、温かくて暗い……泥の中へ」
彼女が立ち上がると、聖堂の壁を突き破って巨大な茨が意思を持つ蛇のようにうねり、降り注ぐ光の圧力を呪詛の防壁で撥ね返した。彼女にとってルカは、もはや人間ではなく、自分だけが供物を捧げ、自分だけが所有すべき「死せる神」であった。
■ 西方:義勇軍・前線宿営地――「救済の予兆」
吹き荒れる夜風の中、アルトは焚き火の傍らで、静かに、しかし執拗に聖剣オルフェウスを研ぎ続けていた。
一年前のあの日、台座から引き抜かれた剣は、今や抜いた主の精神さえも焼き尽くさんばかりの、暴力的な黄金の闘気を放ち続けている。
上空から降り注ぐ、現場監査官ザキエルが放つ「存在の刈り取り」の殺気。
アルトは反射的に剣の柄を握り、ゆっくりと立ち上がった。その瞳からは、かつての純朴で真っ直ぐだった少年の面影は、跡形もなく消え去っている。そこにあるのは、たった一つの目的のために己を削り、敵を屠るためだけに最適化された「修羅」の眼光であった。
「……来たか。あんたを『バグ』だの『廃棄データ』だの呼ぶ奴らが来るってんなら、それが神様だろうがなんだろうが、俺が全部斬り捨てる。……それだけだ」
懐の羽根ペンが、皮膚を焼くほどの熱を帯びる。
アルトは、ルカを救えなかったあの日から、一度も剣を離したことはない。彼にとって、この力は世界を救うためのものではなく、自分を欺き、守り抜いたあの事務員を「現実」へ引きずり戻すための楔であった。
「ルカさん。あんたに無理やり『保留』されたこの命、今度はあんたを『受理』するために使わせてもらう。……勝手にいなくなるなんて、二度とさせないぜ」
三つの歪な執着が、同時に「監査官」という共通の敵を捉えた。
救い出し、人間へと戻したい者。
閉じ込め、神として祀りたい者。
繋ぎ止め、私有物として支配したい者。
その巨大な因果が激突し、世界を再崩壊へと導く特異点。
そこに今、名もなき「灰色の影」が、一人の兵士の最期を書き換えるために、音もなく舞い降りようとしていた。




