プロローグ:決算の始まり、あるいは神の審判
そこは、色彩も、音も、そして情愛も存在しない「純白の回廊」であった。
世界の因果が全てログとして流れ込む場所、神域管理室。かつてルカがその末端に身を置き、ひたすらに保留案件を積み上げていた場所の、さらに上位に位置する概念空間である。
回廊の中央に浮かぶ巨大なホログラムには、現在進行形で崩壊と再構築を繰り返す「世界」の姿が映し出されていた。
かつてルカが維持していた、あの潔癖なまでの「灰色の静寂」は、今や見る影もない。画面は激しく明滅し、勇者の金、聖女の黒、王女の赤といった強烈な個の色彩が、記述言語を浸食するノイズとなって荒れ狂っている。
「……目も当てられんな。これが一人の下級事務官が仕越した『隠蔽工作』のなれの果てか」
冷徹な声が、無機質な空間に響いた。
主任監査官、ジブリール。彼は純白のスーツを一切乱すことなく、空中に浮かぶ無数の仮想ウィンドウを、指先の微細な動きだけで操作していく。彼の瞳には、慈悲の欠片もない。ただ「計算が合わないこと」に対する、深い不快感だけが宿っていた。
「一万二千五百件。これほどの案件を『未処理』のまま私物化し、あろうことか自身の存在を依り代に凍結させるとは。組織に対する重大な背任であり、世界の理に対する言語道断の冒涜だ。奴は、物語を救ったつもりか? 笑止。奴が行ったのは、単なる『負債の隠蔽』に過ぎない」
「まあまあ、ジブリール主任。そう怒らないでよ。彼のおかげで、ボクたちは退屈な定型業務の代わりに、この『史上最大の不渡り決済』という刺激的な仕事を得られたわけだし?」
楽しげな声を上げたのは、傍らに立つ少年、記録監査官のエノクである。彼はモノクルの奥で、アルトたちが暴れ回る「現在」の数値を、まるで新しい玩具を手にした子供のように興味深そうに眺めていた。
「見てよ、この勇者の魔力出力。本来なら一年前の村の焼失で『絶望』の負補正がかかって減衰するはずだったのに、ルカが保留したせいで、行き場を失った熱量が変な方向に煮詰まって暴走してる。聖女も、王女も、みんな記述の外側を走ってるよ。既存の因果律じゃ、もう誰も彼らを止められない。最高にワクワクする『改悪』じゃないか」
「笑い事ではない、エノク。バグは刈り取らねばならん。それも根こそぎだ」
重厚な金属音が響き、現場監査官のザキエルが影から進み出た。その背には、実体を伴わない概念や魂さえも物理的に断裁する、巨大な大鎌が背負われている。
「ルカという個体はあの日消滅したはずだが、世界の記述には未だ『灰色のノイズ』が残留している。それだけではない。奴が救った、本来は死ぬはずだった者たち……『既死者』共の存在が、世界の質量を狂わせている。存在してはならぬ命をいつまで放置しておくつもりだ? 神の帳簿を汚すシミは、一滴たりとも許されん」
ジブリールは無表情に画面を切り替えた。そこには、ルカがいなくなった後の「変容した世界」の惨状が、逃れようのない現実として映し出される。
■ 世界の変容:【因果の過負荷】
王都アイリスを起点に、世界は「正しく滅ぶことさえ許されない」狂気に支配されていた。
空にはルカが去ったあの日から、一度も消えることのない**「因果のオーロラ」**が揺らめいている。それは保留されていた数千通りの「あり得たはずの天変地異」の残滓が、処理を求めて大気中に滞留しているものだ。
ある地方では、ルカが一年前に「降るはずだった雨」を凍結解除したため、雲ひとつない快晴の下で、虚空から奔流が降り注ぎ、大地を飲み込む大洪水となっている。
またある地方では、ルカが消し去ったはずの「疫病の芽」が、数倍の毒性を持って芽吹き、沈黙の村々を量産していた。だが、その死者たちはルカの影響を強く受けすぎたせいで、「死んでいるのに腐敗せず、ただ静止したまま微笑んでいる」という異様な姿で静止していた。
そして、生き残った人々もまた、壊れていた。
アルトに従う義勇軍は、死の恐怖をルカに「保留」された記憶の反動から、痛覚を喪失している。彼らは四肢が千切れ、内臓が溢れても、ルカに守られていた頃の「無敵感」を忘れられず、笑いながら突撃を繰り返す狂戦士の集団と化していた。
「……見ての通りだ。この世界は、ルカというダムが崩壊したことで、一気に濁流に飲み込まれた」
ジブリールが冷酷に、そして決定的な断罪を下す。
「ルカのしたことは、救済ではない。ただの『残酷な猶予』だ。……さて、これより本件の最終処理を開始する」
■ 最終決算の宣告
「方針は三つ。
第一に、保留案件一万二千五百件の『一括強制執行』。執行猶予は不要。全ての悲劇を、最短スケジュールで現実に定着させる。
第二に、システムを混乱させた三勢力の無効化。彼らからルカの権限を剥奪し、本来の『物語の歯車』へ戻す。
そして第三に……」
ジブリールはホログラムの隅で、僅かに、しかし確かに揺らいだ「灰色のノイズ」を指し示した。
「現在、記述の隙間に潜伏し、下下の下劣な手法で『事後修正』を続けている廃棄データ……コードネーム『ルカ』の完全抹消だ」
「いいね、掃除の時間だ!」
エノクが喜び、ザキエルが大鎌の柄を、獲物を屠る期待を込めて叩いた。
「奴に、本当の『退職』を教えてやる。……この世界から、一文字も、一画の記憶も残さず、無かったことにしてやる」
ジブリールが端末に最後の一打を加えた瞬間、神域から地上へ向けて、三筋の白い光――監査官たちの「執行権限」が放たれた。
それは、ルカが愛し、守り、そして壊した世界への、最終決算の幕開けであった。
一万二千五百件目の因果の、そのさらに先。
事務員がいない世界で、物語は、ついに自らの「支払うべき代償」を突きつけられる。




