最終話:一万二千五百件目の因果(あるいは、世界が壊れ始めた日)
光が、すべてを塗り潰した。
王都アイリスの中央広場。聖剣オルフェウスが台座から引き抜かれた瞬間、爆発したのは単なる魔力ではなかった。それはルカがその人生を賭して、魂の「引き出し」に押し込め、鍵をかけ続けてきた**「一万二千五百件分の真実」**が、圧縮された時を突き破って世界へ溢れ出した咆哮だった。
崩壊する世界の中心で、ルカの意識は奇妙に研ぎ澄まされていた。彼の脳裏には、前世のオフィスに掛かっていた安物の掛け時計の音が、幻聴のように刻まれている。
チッ、チッ、チッ――。
針は今、二十三時五十九分四十秒を過ぎた。
■ 事務官の消滅:【最終処理完了】
光の渦の真っ只中で、ルカの輪郭は陽炎のように揺らぎ、急速に透き通り始めていた。
彼の指先は、まるで古い羊皮紙が灰になるように、指の節から、爪の先から、音もなく灰色の粒子となって霧散していく。
「あ……、あ……ッ!」
アルトが絶叫し、必死にルカの腕を掴もうと手を伸ばした。しかし、彼の逞しくなった英雄の手は、ルカの体を掴む手応えを得られず、虚空を空しくかき回す。
「ルカさん! 待ってくれ、行かないでくれ! 俺……俺は、あんたに……!」
「……アルト君、駄目だよ。そんな顔を、しないで」
二十三時五十九分五十秒。
ルカの声は、風にさらわれる羽毛のように頼りなく、それでいて、かつてないほど穏やかだった。ルカの周囲では、彼がこれまで書き溜めてきた法導台帳のページが猛烈な勢いで舞い上がり、紙の一枚一枚が極彩色の火花となって、この「新しく書き換えられた世界」の記述と言語へと再構成されていた。
「ルカ様! お願い、わたくしを置いていかないで!!」
セレスティーナが泥にまみれた膝で這い寄り、ルカの足元に縋り付こうとする。だが、彼女の指先が触れる場所から、ルカの体は光の粉となって天へ昇っていく。
「……すみません、セレスティーナ様。……僕は、君に『正しい死』ではなく、『激しい生』を選んでほしかった。……僕の、わがままです」
二十三時五十九分五十五秒。
ルカの視界に、最後のリミッターが外れる音が聞こえた。
> 【システムログ:深層意識層】
> 一万二千五百件目の案件、最終処理完了。
> 執行者「ルカ」の管理権限を永久に返上します。
> ――全ての業務、お疲れ様でした。
>
「……お疲れ様、か。……嫌いじゃ、なかったよ。この仕事」
最後に、一歩も動けずに立ち尽くしていたファルマを見つめる。王女は、その傲慢な瞳を涙で潤ませ、唇を噛み切りそうなほど強く引き結んでいた。
「……殿下。……君は、誰よりも強い。……孤独を恐れず、その炎で、新しい国を焼いて、……創ってください」
二十三時五十九分五十八秒。
ルカの胴体が、ついに光の粒子となって消失を開始した。三人は、その光景をただ、網膜に焼き付けることしかできなかった。彼らがこれほどまでに渇望し、そして憎み、最後には愛してしまった「灰色の男」が、自分たちが引き起こした「物語の再始動」という激流に呑まれて消えていく。
「さようなら。……僕の、大切で、……ひどく手のかかる、主役たち」
二十三時五十九分五十九秒。
ルカの姿が、完全に光の中に溶け込んだ。
王都アイリスの中央に、天を突くほどの巨大な光の柱が立ち昇る。残されたのは、真っ二つに割れた聖剣の台座と、ルカが消滅した瞬間にその場に落ちた、「折れた一本の羽根ペン」だけだった。
■ 荒野の夜明け:【記述された世界の終わり】
光の嵐が去った後、王都アイリスには、これまで一度も経験したことのない「重苦しい沈黙」が訪れた。
空は焦げ付いたオレンジ色とどす黒い紫が混ざり合い、大地からは保留されていた数年分の雷鳴が、遠くの山々で激しく鳴り響いている。街の人々は、自分たちが「死に損なっていた」記憶と痛みを抱え、瓦礫の中で呆然と立ち尽くしていた。
「……ここから、始まるんだな。あんたがいない、本当の世界が」
アルトが、抜かれた聖剣オルフェウスを杖代わりに、ふらふらと立ち上がった。セレスティーナは無言で地面を掻きむしり、ファルマは炎を纏った瞳で空を仰いだ。
かつて世界には、因果を「保留」し続けた一人の事務員がいた。
彼がいなくなった今日、世界は、ようやくその「最初の地獄」への一歩を踏み出す。
不意に、三人の耳に微かな音が届いた気がした。
それは、世界を管理していた巨大な「時」の歯車が、一万二千五百回分の中断を経て、ようやく正しく噛み合った音。
天を衝く極彩色の光が弾け、静寂が世界を包み込んだその瞬間。
重なり合った秒針は、音もなく「零時零分」を指し示した。




