第3.995話:未送信の走馬灯、あるいは境界線上の放課後
聖剣オルフェウスが完全に引き抜かれた瞬間、放射された光は物理的な破壊を超え、観測者であるルカの意識を「存在」と「非存在」の境界線へと押し流した。
爆音と熱狂が遠ざかる。
ルカの視界を埋め尽くしたのは、血塗られた戦場でも、崩壊する王都でもなかった。
■ 幻影の情景:【夕暮れの図書室】
そこは、どこか懐かしい、前世の記憶とこの世界の断片が混ざり合った奇妙な空間だった。
夕日に照らされた古い木造の教室。机の上には、無機質な事務書類ではなく、読みかけの物語本と、三人分の飲みかけのジュースが置かれている。
窓の外からは、争い合う軍勢の足音ではなく、遠くで練習に励む運動部の掛け声と、穏やかな潮騒が聞こえていた。
「……遅いじゃない、ルカ。また一人で残業してたの?」
窓際で、ファルマが呆れたように笑っていた。
彼女は王冠も反逆の炎も持たず、ただの少し気の強い少女として、窓から差し込む夕光に目を細めている。その隣では、セレスティーナが黒い呪印のない真っ白な手で、丁寧に淹れた茶を差し出していた。
「ルカ様、あまり根を詰めてはいけませんわ。ほら、今日はアルトさんが、街で評判の菓子を買ってきたのですから」
教室の扉が勢いよく開く。
そこには、血に汚れ、英雄の重圧に歪んだ姿ではない、屈託のない笑顔を浮かべたアルトが立っていた。彼は聖剣の代わりに、紙袋いっぱいの焼き菓子を抱えている。
「よう、ルカ! 今日こそは仕事なんて忘れて、みんなで遊びに行こうぜ。……ほら、そんな顔すんなよ。世界なんて、放っておいたってどうにかなるさ」
■ 保留された「幸福」の正体
ルカは呆然とその光景を見つめていた。
それは、ルカが彼らの因果をアーカイブし続け、一万二千五百回も「不幸」を回避した果てに、無意識下で願い続けていた**【究極の保留】**の形だった。
誰にも宿命が訪れず、誰もが特別な存在にならず、ただの「友人」として笑い合える、停滞した、しかし温かい袋小路。
ルカの頬を、一筋の涙が伝う。
事務員としての彼は、この光景を守るために全てを犠牲にしてきたのだ。
アルトを勇者にさせず、セレスティーナを聖女にさせず、ファルマを女王にさせなければ、この放課後は永遠に続くはずだった。
「……。ああ、……そうか」
ルカは、幻影の中のアルトが差し出した菓子に、手を伸ばしかけて止めた。
今、この幻影の向こう側で、アルトは血を吐きながら聖剣を抜いている。
セレスティーナは泥にまみれ、自分の命を削りながら世界を呪っている。
ファルマは孤独な玉座への階段を、怒りと共に駆け上がっている。
彼らが選んだのは、この「穏やかな停滞」ではなく、ルカの手を振り払ってでも手に入れたかった「痛みの伴う現実」だ。
「……ごめん。僕は、行かなくちゃいけない」
ルカがそう告げた瞬間、夕暮れの教室が、砂の城のようにサラサラと崩れ始めた。
ファルマの不敵な笑みも、セレスティーナの穏やかな手も、アルトの眩しい笑顔も、すべてが「保留されたデータの残滓」として、白い光の中に溶けていく。
「さようなら、僕の、……僕たちの、あり得たかもしれない平和」
■ 帰還、そして受領
ルカの意識が、崩壊する王都へと引き戻される。
目の前には、聖剣を抜き放ち、眩い光の柱となったアルト。
その光に焼かれながら、ルカの「灰色の肉体」は完全に透明化し、粒子となって霧散していく。
ルカは最後に、自分の胸元に手を当てた。
そこにはもう、ペンも、台帳もない。
あるのは、一人の人間として、彼らの物語を最後まで見届けたという、ひどく熱くて重い満足感だけだった。
「――案件、一二、五〇〇。……承認」
ルカの意識が完全に消失する直前、彼は見た。
光の中で自分を必死に探そうとする、三人の、震える瞳を。




