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『有効化、保留中』  作者: 月見酒
有効化、保留中:静かなる事務員の「一万二千五百件」の拒絶
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第3.99話:世界の再定義、あるいは記述言語の崩壊


 アルトの指先が、聖剣オルフェウスの冷徹な柄に触れた。その瞬間、世界を覆っていた「灰色の静止」が、ガラス細工を巨大な鉄槌で叩き割ったかのように粉々に砕け散った。

 それは単なる物理的な破壊ではない。ルカが数年間、そして一万二千五百件もの「保留」を積み重ねることで維持してきた、この世界の**記述論理ログ**そのものの強制的な上書きであり、大規模なバグ修正の失敗にも似た、凄絶な現実の再構築リアリティ・リブートであった。

■ 天空の変貌:【セピアから極彩色への爆発】

 まず、天が叫びを上げた。

 ルカの事務的な管理下に置かれていたアイリスの蒼穹は、どこまでも均一で、変化のない、徹底的に「無風」の青だった。それは市民に不安を与えないための、いわば調整済みのテクスチャに過ぎなかった。しかし今、保留されていた数千日分の雲の動き、蓄積された落雷の予兆、海からの湿った熱気、そして星々の狂ったような運行が、一秒という微小な時間の隙間に圧縮されて解き放たれた。

 空に架かっていたあの「黒い虹」が、内側から発火するように極彩色の閃光へと変じ、一瞬にして天を焼き尽くす。

 灰色の霧は、アルトの放つ黄金の魔力に焼かれて「勇者の黎明」を象徴する鮮やかな金紅きんくへと塗り替えられた。それと同時に、セレスティーナの黒い祈りが、その光の裏側を抉るようにして、空の半分を深い紺青の「殉教の夜」へと染め上げる。

 王都の真上に現れたのは、昼でも夜でもない。全ての時間が混ざり合い、渦を巻く**【因果の奔流タイム・カスケード】**だ。流星が白昼堂々と降り注ぎ、同時に朝日が西から昇ろうとするような、論理ロジックを喪失した光景。人々が仰ぎ見た天には、もはや「予定された明日」など存在しない。そこにはただ、激しく明滅し、刻一刻と表情を変える、剥き出しの「可能性」という名の怪物が荒れ狂っていた。

■ 大地の激動:【石畳から叙事詩の舞台へ】

 足元の地表もまた、その抑圧された本性を現し始めた。

 ルカが「特記事項なし」と記述し続けたことで、ただの無機質な石として沈黙を守っていた王都の石畳が、数百年分の歴史の熱量を帯びて脈動を開始した。

 聖剣の台座を起点として大地に走った亀裂からは、溶岩のように熱い「物語の残滓プロット・リーク」が噴出した。石畳のひとつひとつが、かつてこの地で英雄たちが流した血の記憶を、ルカのアーカイブから強奪して吸い込み、鈍い赤色に発光し始める。

 整然と並んでいた建物は、ルカが保留し続けてきた「老朽化」と「破壊」の因果を一気に受け入れ、あえて「美しく朽ち果てる」ことを選んだ。彫像は泣き、柱は歪み、アイリスを象徴する噴水からは水の代わりに、保留されていた誰かの「歓喜の涙」と「絶望の叫び」が、結晶化した宝石となって噴き上がった。

 整備されていた庭園の草木は、数十年分の成長を数秒で遂げた。巨神の灰色の衣を食い破るほどに太く、鋭い茨となって街を飲み込んでいく。平和を象徴する白百合は、一瞬で黒く萎れ、その種子から「戦乱の予兆」を孕んだ棘の森を芽吹かせた。街全体が、ルカが管理していた「清潔な模型」から、血と肉と熱狂が支配する「残酷な叙事詩ステージ」へと、その姿を劇的に、かつ不可逆的に変貌させたのだ。

■ 民衆の狂乱:【奪い返された主観の痛み】

 そして何より残酷で、かつ「生」に満ちていたのは、王都に生きる民衆の変貌だった。

 ルカの調律によって「悩み」も「激動」も奪われ、ただ凡庸な幸福を享受していた人々。彼らの肉体に、保留されていた一万二千五百件の因果の余波が、津波となって押し寄せた。

「ああ、あああ……! 思い出した! 私は、あの日、死ぬはずだったんだ!」

 広場で震えていた商人が、自分の胸を押さえて絶叫した。彼の脳裏には、ルカが無効化したはずの「馬車に轢かれる瞬間」の、骨が砕ける衝撃と熱い血の感触が、数年越しに再生されていた。

 別の場所では、仲睦まじく手を取り合っていた老夫婦が、突如として互いを突き飛ばし、むせび泣いた。彼らの間には、ルカがアーカイブに隠蔽した「かつての裏切り」と「愛の破綻」の記憶が、鮮烈な色彩を持って蘇っていた。

 人々は、ルカが与えた「偽りの平和」の中で忘れていた、自分の人生の重みを、その痛みと共に奪い返したのだ。

 母親は腕の中の赤子が「病で失われるはずだった未来」の寒さを感じて抱きしめ、若者は自分が「戦場へ向かうはずだった勇気」の熱に焼かれて立ち上がる。

 街の至るところで、昨日までルカが「異常なし」と記していた日常が、一人一人の「壮絶な主観」によって引き裂かれていく。泣き叫び、怒り、笑い、絶望する。その混沌こそが、ルカが最も恐れ、そして彼らが最も渇望していた「生きている証」だった。

 ルカが維持していたアイリスは、死体のように静かな「完成された庭」だった。

 だが、今ここにあるのは、血を流しながらも脈打つ、醜くも愛おしい「未完成の戦場」である。

■ 巨神の解体と、ルカの消失

 アルト、セレスティーナ、ファルマ。三人の意志が重なり、この「世界の再定義」を加速させる。黄金、漆黒、紅蓮。それぞれの因果が、灰色の巨神アーカイブの衣を完全に引き裂いた。

 巨神の核――因果の最深部にいたルカの視界から、ついに、一秒も欠かさず表示されていた「事務的なステータス画面」が、ノイズと共に消失した。

 

 【警告】も、【保留】も、【受理】もない。

 【残業時間】も、【因果保有量】も、今のルカには見えない。

 

 ルカの目に映るのは、ただ一人の少年が、泥にまみれ、歯を食いしばりながら、人生のすべてを懸けて剣を抜こうとしている、救いようのないほどに美しい「生」の光景だけだ。

 

 ルカの肌に、初めて「本当の風」が触れた。

 それは前世のオフィスのエアコンのような無機質な冷気でも、調律官としての事務的な冷徹さでもない。アルトたちの怒りと、期待と、そしてルカへの断ち切れない情愛が混ざり合った、焦げ付くような熱風。

 

「……ああ。……きれいだ。こんなに、うるさくて、汚い世界だったのか」

 ルカの呟きは、世界の再定義がもたらす天崩地裂の轟音にかき消された。彼の肉体を形作っていた灰色の法導台帳の紙片が、一枚、また一枚と、この新しく生まれ変わった世界の激風にさらわれ、極彩色の空高くへと舞い上がっていく。

 

 それは、世界で一番長い「退職届」が受理された瞬間でもあった。

 

 そして。

 アルトが、聖剣オルフェウスを台座から完全に引き抜いた。

 

 その瞬間、世界から全ての色彩が、光そのものが、一度白紙へと収束した。

 一万二千五百件目の案件、完遂。

 ルカという名の「保留」が消え、世界は、ついに最初の第一歩を――地獄への行進を開始した。

 

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