第3.98話:没フラグの逆流、あるいは書き直されなかった過去
灰色の巨神が放つ「静止の波動」は、もはや物理的な圧迫を超え、概念的な「抹消」へと進化していた。三人の視界は、王都の風景を失い、無機質な灰色の空間へと塗り潰されていく。
ルカの形を借りたそのアーカイブの化身は、剥き出しの敵意ではなく、ただ「整理」という冷酷な論理をもって彼らの存在を否定し始めた。
巨神の灰色の衣が、数千万、数億という膨大な数の羊皮紙の破片へと分裂し、吹雪のように三人を包み込む。その一枚一枚が、ルカがこれまでの数年間、そして前世の記憶を動員してまで「なかったこと」にしようとした、血塗られた没フラグの断片であった。
「……ぐ、ああああッ!?」
アルトの脳内に、暴力的なまでの情報量が叩き込まれる。
彼が目撃したのは、ルカに出会わなかった世界線の、あり得たはずの「第一章」だ。
そこには、聖剣を抜いた瞬間に故郷が魔王軍の軍靴に踏みにじられ、愛する妹が、自分が手に入れたばかりの剣の届かない場所で、冷たい土へと変わる光景が刻まれていた。
聖剣を抜くことは、絶望を招くこと。
英雄になることは、愛する者をすべて失うこと。
ルカが保留していたのは、アルトの平穏ではなく、アルトの「魂の死」そのものだった。
『――アルト君。君が手を伸ばそうとしているのは、この地獄の扉だ。それでも、君はペンを置かないのか? 君を愛していた者たちが、灰になる未来を、君は選ぶというのか?』
巨神の声は、ルカの事務的な無機質さを保ちながらも、その奥底に、かつてアルトの肩を抱いた時の「冷たくて震えるような悲しみ」を孕んでいた。
アルトの黄金色の魔力が、恐怖と罪悪感によって急速に減退していく。肉体は英雄のそれであっても、中身はルカによって「守られてしまった」少年のままだ。その幼い心が、一万件分の「死の責任」に耐えきれず、ひび割れ、崩れようとしていた。
一方、セレスティーナを襲ったのは、より深い「虚無」の嵐であった。
彼女の周囲を舞う灰色の紙片には、彼女が捧げるはずだった「奇跡」の有効期限が、事務的な数値として冷徹に記されていた。
彼女が殉教して得られる平和は、わずか三年。
その三年が過ぎれば、世界は再び腐敗し、彼女の犠牲など誰も覚えていない。
聖女の死は、この巨大な世界の因果の歯車を、一時的に止めるだけの「使い捨ての潤滑油」に過ぎないのだ。
『――セレスティーナ様。君の祈りは、天には届かない。それは法導省の記録庫に収められ、数十年後には廃棄される単なるログに過ぎない。無意味に散るよりも、この灰色の静寂の中で、永久に美しいままでいた方が、君にとって幸福ではないのか?』
セレスティーナの黒い茨が、自らを刺し貫くように縮こまる。
彼女のアイデンティティであった「献身」という概念が、ルカの合理性という刃によってバラバラに解体されていく。彼女の瞳から光が消え、膝から崩れ落ちる。その背後に、巨神から伸びた「保留」の鎖が、彼女を永遠の沈黙へと誘おうと首筋に触れた。
そしてファルマ。
王女が直面したのは、彼女が最も恐れ、同時に渇望していた「孤独の王座」の真実だった。
ルカが保留した因果の果て、彼女は確かに王となり、敵をすべて焼き尽くしていた。しかし、その玉座の周りには、血の匂いと、自分を蔑む鏡の中の自分しかいなかった。
彼女を「案件」としてではなく、「ファルマ」として見てくれた唯一の人間――ルカ・事務官は、その未来のどこにも存在しない。彼女が英雄譚を完成させたとき、その物語を記録する者は、もうこの世にいないのだ。
『――殿下。君が求めたリアリティは、君自身を食いつぶす毒でしかない。君の憎悪を、私は受理できない。君を一人きりにするわけには、いかないのだ』
ファルマの紅蓮の炎が、自己嫌悪の煤によって一瞬、勢いを失う。彼女の傲慢なまでのプライドが、ルカが抱えていた「あまりに独善的で、あまりに献身的な過保護」の前に、脆くも砕け散ろうとしていた。
三人の意識が、灰色の波間に消えていく。
王都アイリスの時間は、今まさに巨神の調律印によって、永久の「保留」へと封じられようとしていた。
だが、その沈黙の深淵で、最初に「異音」を発したのは、やはりルカを最も近くで「事務的に」翻弄し続けてきたアルトだった。
「……。……ふざ、けるなよ」
アルトが、鼻から黄金の血を滴らせながら、一歩、灰色の地平を踏み締めた。
彼の脳裏にある妹の死。その幻影に向かって、彼は自らの血で濡れた拳を叩きつけた。
「悲惨だろうが、無意味だろうが、妹が死ぬ運命だろうが……! それは、俺が選んで、俺が泣いて、俺が背負うはずだった痛みだ! ルカさん、あんたは『いい事務官』だったかもしれないけど、人の人生から勝手に『不幸なページ』を破り捨てる権利なんて、誰にもないんだよ!!」
アルトの叫びに呼応するように、黄金色の魔力が再点火される。それは先ほどまでの「与えられた力」ではない。絶望を直視し、それごと飲み込むと決めた、一人の人間としての、剥き出しの意志だ。
「ええ……そうですわ。……この無残な結末さえも、わたくしが選び取った結果なら、喜んで抱きしめて差し上げますわ! 無意味な死? 結構です。その三年の平和のために、わたくしはわたくしの命を、わたくしの意志で投げ捨てたいのです! 貴方の引き出しの中で、腐っていくのを待つくらいなら!!」
セレスティーナが、自らを縛っていた保留の鎖を、自身の黒い茨で引き千切った。
彼女の瞳には、狂信的なまでの生への執着――いや、自らの「死」を自らのものにするための決意が宿っていた。
「ルカ! 貴方が決めた『幸せな結末』なんて、反吐が出るわ! わたくしたちは、貴方の書く完璧な台帳の一部になんて、死んでもならない! 貴方がわたくしを一人にしないと言うのなら、わたくしが貴方を、この地獄の底まで引きずり込んであげるわ。……ほら、逃げないで、わたくしの炎を、最後まで記録しなさいよ!!」
ファルマの炎が、迷いという煤を焼き払い、純粋な「拒絶」の紅蓮へと変わる。
三人の意志が、保留されていた「負の因果」さえも自分たちの血肉として取り込み、一つの巨大な、そして歪な「物語の力」へと昇華された。
三人の色彩が、灰色の巨神の衣を、物理的な炎と闇と光で焼き焦がし始める。
巨神の内部――。
因果の海に溶けかけていたルカの意識は、その衝撃で、皮肉にも「覚醒」していた。
全身を突き抜けるのは、一万二千五百件分の事務処理を一瞬で突き返されるような、凄まじい「差し戻し」の衝撃。
(……ああ。そうだ。……僕が怖かったのは、これだったんだ)
彼らの剥き出しの感情。
整理しきれない怒り。
救いきれない悲しみ。
それらが、ルカの灰色の世界を、暴力的なまでの色彩で塗り替えていく。
ルカの瞳に、色が戻る。
事務員としての「正常な判断」が、人間としての「異常な歓喜」に敗北していく。
(……受理、だ。一万二千五百件の、不備だらけの人生。……ついに、提出されたか。……なら、受領印を押さなきゃいけないな)
ルカは、自身の魂を燃料にして、巨神の内側から最後の「保留」を解除した。
巨神の表面に、縦横無尽に亀裂が走る。
そこから漏れ出すのは、もはや灰色ではない。三人の色彩を反射して輝く、名もなき未来の光だ。
眼前には、ついにその鞘をすべて露わにし、黄金の雷光を放つ聖剣オルフェウス。
そして、その柄を掴もうとする、アルトの剥き出しの手。
ルカは、巨神の崩壊する意識の中で、最後に願った。
(――さあ、抜いてくれ。僕が止めていた、本当の今日を)




