第1話:因果の無効化、あるいは剣を抜かせなかった日
【事案番号:00000】
【事案名:世界の救済】
【ステータス:保留(アーカイブ済み)
警告:因果の蓄積量が規定値を超過しています。
警告:主役三名の「運命」が未処理のまま放置されています。
警告:担当事務官「ルカ」が、独断で悲劇の受理を拒否しています。
勇者の覚醒――「保留」。
聖女の殉教――「保留」。
王女の狂気――「保留」。
――時計の針は、零時で止まったまま。
――偽りの安寧へようこそ。
その朝、王都アイリスの広場は、沸騰する寸前の鍋のような熱気に包まれていた。
雲一つない蒼穹から降り注ぐ陽光が、石畳を白く焼き、人々の期待を物理的な質量へと変えていく。群衆の視線の先にあるのは、石造りの台座に深く突き立てられた一振りの古剣だ。
『聖剣オルフェウス』。
建国神話に語られるその剣は、数百年もの間、主を待ち続けて沈黙を守ってきた。今日、その沈黙が破られることを、誰もが疑っていなかった。なぜなら、神殿の預言者が「運命の刻」を告げ、その運命を体現するかのような少年、アルトが台座の前に立っているからだ。
だが、法導省因果調律局の三級官吏、ルカにとって、その広場は熱狂の場ではなく、極めて「処理困難な火薬庫」に過ぎなかった。
ルカは群衆の最後方、日陰に置かれた受付デスクに座り、羽根ペンを動かしていた。彼の視界には、普通の人々には見えないものが映っている。
アルトの背後から立ち上る、紅蓮の炎のような因果の奔流。それは空を焼き、王都を飲み込み、さらには隣国の国境線までを塗り替えるほどに巨大な「宿命」の導火線だった。もし彼が今、あの剣を抜けば、その瞬間から戦乱の歯車が回り出す。数万の命が露と消え、大陸の地図は書き換えられ、アルト自身も肉親を失い、血と涙に塗れた英雄への道を歩むことになる。
その光景は、ルカの瞳の裏で、不快な耳鳴りを伴うノイズとなって明滅していた。
「……本日、午前十時。案件番号三一二、聖剣覚醒に伴う大陸規模の動乱フラグ、確認」
ルカは事務的な口調で独り言を漏らし、手元の厚い羊皮紙――法導台帳にペンを走らせる。
彼の仕事は、これらの劇的な事象を、それが起きる前に「保留」することだ。
ルカは席を立ち、群衆の中へと歩みを進めた。人々の肩をすり抜け、熱狂の渦をかき分けていく。アルトが剣の柄に手をかけようとしたその時、因果の糸が弾け、空間が物理的な震動を始めた。空気がひりつき、少年の全身から金色の魔力が溢れ出す。
あと一秒。
あと一秒で、引き返せない物語が始まってしまう。
「待ちなさい」
ルカの声は、喧騒にかき消されるほどに小さかった。しかし、彼は確実にアルトの隣へと滑り込み、その震える右手に自分の手を重ねた。
触れた瞬間、アルトの肉体から伝わる圧倒的な熱量に、ルカは眉をひそめた。十七歳の少年が抱えるにはあまりに重すぎる、純粋な闘争本能。血管を流れる血が沸騰しているかのような拍動。ルカの手のひらは、紙の束を整理し続けて冷え切っていたが、その冷たさがアルトの肌に触れた瞬間、ジュッという幻聴が聞こえるほどの激しい温度差が生じた。
「……ル、ルカさん?」
アルトが驚いたように顔を上げる。彼の瞳は黄金色に染まりかけており、英雄の覚醒が始まっていることを示していた。だが、ルカは無表情のまま、アルトの手首の拍動を指先で探り、そこにある「因果の結び目」を見定めた。
「アルト君、少し呼吸を整えて。この剣は今、メンテナンスが必要な段階だ。君が引くべきではない」
「でも、予言では今日こそが……! 俺、体の中が熱くて、何かしなきゃいけない気がして!」
「それは一時的な魔力の亢進だ。法導省の判断により、本件は『保留』とする」
ルカは指先に意識を集中させ、次元の裏側にある「王宮深層記録庫」の鍵を回した。
アルトの背後に見えていた巨大な宿命の火柱が、ルカの手のひらに吸い込まれるようにして、急速に縮小していく。それは目に見える光の粒子となってルカの袖口へ消え、代わりにアルトの肉体からは、生命力そのものを奪い去るような急激な弛緩が訪れた。
ガクン、とアルトの膝が折れる。
ルカは彼の体を支えるようにして抱きとめた。少年の項から立ち上る汗の匂いと、行き場を失った熱気が、ルカの胸元に押し付けられる。アルトの荒い呼吸が、ルカの首筋に熱を吹きかける。本来ならこの熱は世界を焼く炎になるはずだった。それを、ルカは自分の内側に押し込め、事務的な「記録」へと変換した。
「……ああ、なんだ。力が、抜けて……」
アルトの瞳から黄金の輝きが消え、ただの少年の瞳に戻る。
周囲の群衆は、何が起きたのか理解できず、呆然と立ち尽くしていた。聖剣は抜かれず、光も爆発も起きず、ただ一人の事務官が、疲れ果てた少年の肩を抱いている。
神聖な儀式は、一瞬にして「体調不良による中断」という、あまりに世俗的で退屈な結末へと塗り替えられた。
「ルカ様! アルト様に何をなさいましたの!」
群衆を割って飛び込んできたのは、聖女候補のセレスティーナだった。彼女の白銀の髪が陽光を反射して眩しく揺れる。彼女にとっても、今日は自分の「殉教と奇跡」の物語が始まる記念すべき日になるはずだった。ルカの目には、彼女の足元から伸びる「生贄としての鎖」が見えていたが、それもまた、ルカが今しがたアーカイブした因果の影響で、霧のように薄れている。
「魔力酔いによる一時的な失神です。セレスティーナ様、彼を安静な場所へ。今日の典礼は中止、事後処理は法導省が引き受けます」
「そんな……。わたくしの祈りは? 今日のために、わたくしは……」
セレスティーナがルカの衣の袖を掴んだ。彼女の手は、アルトとは対照的に、死を覚悟した者のような病的な冷たさを帯びている。だが、ルカはその手を優しく、しかし事務的な正確さで解いた。
「祈りは、また後日に。台帳には『特記事項なし』と記載しておきます」
ルカは彼女の指先に一瞬だけ触れ、彼女の内側で蠢いていた「自己犠牲の因果」もまた、軽く撫でるようにしてアーカイブの隅へと追いやった。彼女の瞳に絶望と、それ以上に深い「空白」が宿る。救われたはずの彼女は、なぜか捨てられた子供のような顔をして、ルカを見つめていた。
広場の熱気は、急速に引いていった。
人々は口々に不満を漏らし、「期待外れだ」「予言も当てにならない」と吐き捨てて、家路につく。アイリスの平和は守られた。戦乱の火種は消え、数万人の命は――彼らがそれを知る由もないままに――救われたのだ。
ルカはフラフラと歩くアルトを門番のガウェインに預け、自身の執務室へと戻った。
法導省の長い回廊は、冷たい石の匂いがした。窓から差し込む斜光が、宙に舞う埃を照らしている。すれ違う職員たちは、ルカに「お疲れ様」と声をかけることもない。彼らにとってルカは、いつも何も起きない区域を担当している、運だけが良い退屈な男でしかなかった。
執務室の重い扉を閉め、ルカはデスクに崩れるように座った。
右手が、激しく震えていた。
アーカイブ(無効化)した因果の総量は、ルカの肉体を通して次元の裏側へ送られる。その際、一時的にその因果が持つ「重み」をルカ自身が負担しなければならない。アルトが背負うはずだった英雄の重圧。数万人の死の嘆き。それらが幻痛となって、ルカの神経を焼き、骨を軋ませる。
「……ふう、……っ」
ルカは震える手で羽根ペンを握り直し、羊皮紙の余白に文字を刻んだ。
【観測ログ:聖暦四一二年 二月五日】
【対象案件:三一二号(聖剣覚醒事案)】
【処置:第一段階保留。因果の接続を断裂、王宮深層記録庫へアーカイブ済み。】
【現況:異常なし。世界は、特に問題なかった】
最後の一行を書き終えた瞬間、視界の隅に浮かんでいた不吉な赤いノイズが消え、平穏な、しかし死んだように静かな事務室の光景だけが残った。
ルカはペンを置き、自分の手のひらを見つめた。
そこには、先ほど触れたアルトの体温がまだ微かに残っている気がした。あの、若々しく、剥き出しで、世界を壊してでも進もうとした、命の熱。
それを奪ったのは、自分だ。
ルカは自嘲気味に息を吐き、机の引き出しから小さな調律印を取り出した。これを羊皮紙に押せば、今日の記録は完全に「完了」し、誰も思い出すことのない過去のゴミとなる。
「……ごめんよ、アルト君。君には、ただの退屈な若者として、長生きしてほしいんだ」
ルカが印を押そうとしたその時、部屋の扉がノックもなしに開いた。
現れたのは、第二王女ファルマだった。彼女は豪華なドレスの裾を苛立たしげに翻し、ルカのデスクに詰め寄る。
「ルカ! 説明なさい! あんなに盛り上がっていた広場が、どうして一瞬で冷え切ってしまったの? わたくし、あそこで何かが、決定的な何かが起きるのを、ずっと待っていたのに!」
彼女の背後には、ルカにしか見えない「血塗られた王座」の幻影が揺らめいている。彼女は自分の運命が、ルカの指先一つで書き換えられたことに、本能的な違和感を覚えているのだ。
「王女殿下。それは単なる集団心理の反動です。何も起きなかった。それが真実です」
「嘘よ。貴方がアルトの手に触れたとき、世界が一瞬、止まったように見えたわ。貴方、あそこで何を『消した』の?」
ファルマがルカの机を叩き、顔を近づけてくる。彼女の瞳には、怒りと、そして得体の知れない期待が混ざり合っていた。彼女の指先が、ルカの手のひらに重なる。
ルカは逃げなかった。彼女の指の細さ、爪の先まで行き届いた手入れ、そしてその奥に潜む破壊的な衝動を、肌を通じて「計測」する。
「何も消してはいません。ただ、未来を少しだけ、保留しただけです」
「保留? いつまで?」
「……いつまでも、です。私がここにいる限りは」
ルカの冷徹な言葉に、ファルマは息を呑んだ。彼女はルカの冷え切った指先を、逆に強く握りしめる。その強引な肉体接触は、ルカにとっては何よりも重い事務的コストだったが、ファルマにとっては、この偽物の平和の中で唯一触れることのできる「真実の牙」だった。
「……貴方って、本当に最低の男ね、ルカ」
「光栄です、殿下」
ファルマが去った後、ルカはようやく羊皮紙に印を押した。
ドクン、と心臓が一度だけ大きく跳ねる。
記録庫の奥底に、また一つ、巨大な熱量が放り込まれた。
ルカは窓の外を見た。
夕闇が迫る王都は、どこまでも穏やかで、静かで、そして空虚だった。
誰も死なず、誰も泣かず、誰も英雄にならない世界。
ルカは灯火を消し、コートを羽織る。
今日もまた、世界は何も起きなかった。
ルカの視界の端で、保留された因果の総量を示す数値が、また一つ、静かにカウントアップされた。
【保留件数:一二、四八六】
【有効化予定:未定】
ルカは重い足取りで、誰も待っていない家へと向かう。
夜風は、どこまでも冷たかった。




