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もっと遠くへ⑦

 そして、ライブハウスはしばらく使われなくなった。

 表向きは「安全確認のため」という名目だったが、実際には、誰もが口に出せない空気がそこにあった。

 ――アルブの声が後ろまで聞こえない限り、同じことが、また起きるかもしれない。


 人が集まり、前に押し寄せ、音が届かず、奪い合いになる。

 その光景が、誰の頭からも消えていなかった。


 アルブは、あれ以来、ほとんど歌わなくなった。


 必要な会話はしてくれる。

 頼めば返事もする。

 でも、声を出すこと自体を、どこか怖がっているようだった。


「……すみません。今日は、少し……」


 そう言って耳を伏せる姿を見るたび、胸の奥が痛んだ。

 あの事故の原因は、アルブじゃない。

 わかっている。

 わかっているのに、俺はまだ、はっきり言葉にできずにいた。


 どうすればよかったのか。

 どうすれば、もっと遠くへ届けられたのか。


 その答えを探すように、俺は無意識に“前の世界”の記憶を掘り返していた。


 ――そうだ。


 ふと、思い出す。


 あるバンドの話だ。

 横浜でやっていた野外ライブの音が、海側に向いていたのに、風向きのせいでかなり離れた川崎や東京でも聞こえて騒音として苦情が殺到したというニュース。

 あっちでは、そんなもんかというくらいで聞いていたけど、あれは確かに、実際に起きたことだ。


 音が、風に乗る。


 ……いや。


 この世界なら、もっと直接的な手段がある。


「……風魔法、か」


 呟いた瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。

 音を“飛ばす”のではなく、音が“届く道”を作る。

 もし、声に風を乗せられたら――。

 俺は、すぐにケマーレの顔を思い浮かべた。


 ・


 〈鳥人種(バードアイ)〉のケマーレは、あれからずっとこの街にいる。

 空を飛べることもあって、風を読むこと、操ることは、彼女たちにとって呼吸のようなものだと言っていた。


「風魔法で、声を飛ばせないかな?」


 ずいぶん長いこと〈ファルノヴァ〉にいるケマーレとはだいぶ打ち解けていた。

 

「うーん……飛ばす、っていうか……普通、そうするよね?」

「普通?」

「うん。遠くの人と話すとき、風に乗せるでしょ? それと同じだよ」


 俺は言葉を失った。


「……魔法、使ってる、のか?」

「え? アオたちは使ってないの?」


 今度は、ケマーレの方が驚いた顔をする。


「だって、風に声を乗せないと、遠くまで届かないでしょ? どうやって声を届けるの?」


 あまりにも当然のように言われて、しばらく理解が追いつかなかった。

 ケマーレは、少し考えてから説明してくれる。


 〈鳥人種(バードアイ)〉は、俺たちが歩いたり、走ったりするのと同じように、飛行時に無意識に気流を感じ、流れを整え、身体を乗せる。

 この気流を作るときに、無意識に風魔法を使っている。

 遠くに声をかける時も同じで、声が風にぶつかって消えないよう、前に通り道を作るのだそうだ。


鳥人種(バードアイ)は共鳴腔で音を鳴らすんじゃないのか?」


 そういうと笑い出した。

 

「あはは。何それ偏見。そんなの使いすぎたら痛くなるじゃん」


 そう言って、彼女は喉に手を当てた。


「ここは中で響かせるだけ。声は大きくなるけど、遠くへ届けるには、やっぱり風がいるよ」


 ――なるほど。


 今まで俺たちは、“声を大きくする”ことばかり考えていた。

 共鳴腔で声量を大きして遠くへ届ける。


 でも、それは近くにいる人に対してだけだ。

 遠くなれば結局は減衰して届かなくなる。


 必要だったのは、“音量”ではなく、到達距離。


「……ケマーレ。一節でいい。歌ってみてくれるか」

「えー。アルブみたいにうまくないよ?」

「それでもいい。アルブの声を遠くに届けるヒントにしたいんだ」


 頼むと、ケマーレは軽く頷いた。

 彼女は、軽く息を吸い、短い旋律を口ずさむ。

 その瞬間、空気が変わった。


 声が、まっすぐに伸びているようだ。

 強いわけじゃない。

 でも、澄んでいて、遠くまで届くし、まるで包まれるようだ。


「……上手いな」


 思わず、そう呟いていた。


「そう?」


 ケマーレは少し照れたように笑った。


「風で届けると楽なんだよ。無理しなくていいから、ちょうど聞こえやすい音にできるの」


 その言葉が、胸に刺さった。


 無理しなくていい。

 奪い合わなくていい。

 押し合わなくていい。


 ――アルブの歌にも、それができるんじゃないか。


 でも、同時に気づく。

 これは、俺が知らない領域だ。前の世界ではなかったもの。作曲や音響だけじゃないもの。


「……魔法、か」


 そんなことを考えていると、奥でヴォセムと話していたミルチャが声をかけてきた。


「今のはケマーレか! 悪くないじゃないか。アオ殿。ケマーレに歌わせるのはどうかね? アルブ殿もいいが、ケマーレなら確実に届く。安全な運営ができるぞ? 試してみる価値はある」


 ミルチャは例の装飾剣を杖のように床に突きながら言った。


「今の歌い手では声が通らない。しかし、声の通る歌い手がいる。これで事故も防げる。何より儲かる。なら、やらない理由がないだろう?」


 何かの本を読んでいたアルブは、何も言わず、耳を伏せたまま、視線を本に落としている。


(……何も言わないのは、許しているわけじゃない)

 

 俺は、一瞬だけ迷ったが、答えはもう決まっていた。


「……やってみよう。ケマーレ。頼まれてくれるか?」


 そう言った自分の声が、少し硬いことに気づいていた。

 ケマーレは、躊躇しているようだった。


「私は興味あるけど……」

「ケマーレよ。わしからも頼む。やってみてくれ」

「わかりました……やってみます」


 そう答えたケマーレは責任の重さを理解している目だった。


 ・


 ライブ当日。


 前回の事故もあって、入場制限は厳しくした。

 客席の配置も変え、通路を広く取る。


 そして――歌い出し。


 ♪〜〜

 ♪〜〜〜


 ケマーレの声は、違った。


 強くない。

 押し付けない。

 でも、風に乗って、すっと前へ伸びていく。


 後ろの席まで、ざわつきがない。


「……聞こえる」

「ちゃんと、声が届いてるぞ」


 客たちの声が、ざわめきではなく、感嘆に変わっていく。


 事故は起きなかった。

 押し合いも、怒号もなかった。


 ただ、音楽が、そこにあった。


 ライブは成功だった。


 拍手は大きく、長く続いた。

 立ち上がる客も多く、口々に「次はいつだ」と声が飛ぶ。


 ミルチャは、心底楽しそうに笑っていた。


「いやあ……これは、いけるな。問題解決ではないか! やったな! アオ殿」


 そして、悪びれもせず、続けた。


「正直に言おう。今後はケマーレ中心で予定を組むべきだ。安定しているし、事故もない。何より――儲かる」


 その言葉に、空気が一瞬、張りつめた。

 アルブは、何も言わなかった。

 それが同意でも拒絶でもないことだけは、分かった。



 俺は、視線を逸らしてから、口を開いた。


「……次は、ケマーレの曲、書いてみるよ。今は、それしかない」


 自分でも驚くほど、淡々とした声だった。


「全体をケマーレに合わせて調整しよう」


 それは、正しい判断だった。


 音楽的にも。

 運営的にも。

 音楽ギルドナハトムジークとしても。


 間違ってはいない。


 ケマーレが、少しだけ困ったように俺を見る。


「……いいの?」

「……今は、それが一番だと思う」


 アルブの方を見る勇気は、なかった。


 ・


 その夜、アルブはほとんど口をきかなかった。

 片付けが終わり、皆が引き上げる頃になっても、姿が見えなかった。


 翌朝。


「アルブ?」


 ギルドの上にあるアルブの部屋を探しても、返事はなかった。

 荷物も、最低限しか残っていない。

 いつも持ち歩いていた楽譜も、置いていなかった。


 逃げた、という言葉は違う。

 追い出した、という言葉も違う。


 ただ――いなくなった。


 ヴォセムに聞いても、行先はわからなかった。


 俺は、窓の外を見る。


 街は、いつも通りに動いている。

 ナハトムジークは、成功している。

 次のライブの予約も、もう埋まり始めている。


 なのに。


 胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたようだった。


(……これで、よかったのか?)


 答えは出ない。

 でも、はっきりしていることが1つだけある。

 俺は、俺の音楽を届けるために、アルブの居場所を奪ったんだ。


 窓から吹き込む風が、やけに冷たく感じられた。


 音楽は、前に進んでいる。

 でも、その進行方向が、本当に正しいのか。

 俺はまだ、確信を持てずにいる。

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