もっと遠くへ⑥
ライブハウスのお披露目の日、事故の日から、数日が経った。
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ライブハウスは再開していたが、空気は明らかに変わっていた。
入口の整理は厳重になり、客の数も制限した。
それでも、人は来る。むしろ前よりも多く、熱を帯びて。
「……みんな、あんなことがあったばかりなのに、俺たちの音楽を聴きに来てくれるんだな」
受付で列を見ながら、俺は呟いた。
事故があったことは広まっている。それでも人は来る。
次は自分が前で聞けるはずだと信じて。
将棋倒しの騒ぎに尾ひれがついて、逆にそれだけすごいものだと熱狂を産んでいく。
ナハトムジークは、もう“噂の場所”になっていた。
・
リハーサルの時間。
ステージに立っているのは、俺とゾラ、ルゥガだけだった。
「……アルブは?」
ルゥガが、ドラムスティックを回しながら聞く。
「……まだ来てない」
控室を覗いても、白い影は見当たらない。
いつもなら、ぴょこぴょこと現れるはずなのに。
アルブは最近、リハーサルの時間に遅れるようになっていた。
しばらくして、ようやく扉が開く。
「……みなさん、遅れてすみません」
アルブだった。
いつもより小さな声。視線は床に落ちている。
「大丈夫か?」
「はい……」
そう答えたが、耳は伏せたままだった。
・
リハーサルが始まる。
最初の曲。
アルブは、歌い出した。
♪〜〜
♪〜〜〜
――声は、前と同じように出ている。
音程も、ブレていない。
でも。
「……」
俺は、思わずベースの音を落とした。
届かない。
前列には届く。でも、遠くへは届かない。
前よりも、狭い。
まるで、途中で音が萎んでいるみたいだった。
「……ごめんなさい」
曲が終わる前に、アルブが口を開いた。
「もう1回……お願いしてもよろしいでしょうか……?」
もう一度。
それでも、同じだった。
ゾラが、腕を組む。
「……無理すんな」
「無理はしていません」
アルブは、すぐに言い返した。
でも、その声は震えていた。
「……私の歌が、届かないから、じゃないんです」
アルブは、視線を上げずに続けた。
「私がここに立つと、人が集まって、前に行こうとして、また……ああいうことが起きるかもしれません」
俺は息を呑んだ。
「歌がどうとかじゃなくて……声が届けられない私が、“歌う側”にいること自体、きっとよくないんです」
耳が、ゆっくりと伏せられていく。
「また誰かが怪我をしたら、それは……私が原因になるでしょう? 私は、私のせいで誰かが傷つくのを見たくないんです」
その言葉が、胸に刺さった。
・
その日のライブは、予定通り行われた。
客は入る。
前列は盛り上がる。
歓声も、拍手も、確かにある。
でも、アルブは声を大きくしようとして、途中で揺れ始めた。
一瞬、音程が外れた。
すぐに戻したが、それがノイズになる。
「……?」
誰かが、首を傾げた。
俺は必死に音を合わせ、ゾラと目配せをする。
ルゥガは、いつもより強く叩いていた。
ライブは終わった。
拍手はあった。成功、と言えなくもない。
でも。
アルブは、ステージを降りたあと、一言も喋らなかった。
・
控室。
アルブは、膝を抱えて座っていた。
「……もう、私、出ない方がいいです」
唐突だった。
「は?」
「今日……歌うのが私じゃなかったら、もっと良かったと思います」
俺は、言葉を探した。
でも、すぐには見つからなかった。
「……そんなことない」
それでも、そう言うしかなかった。
「前の人たちは、ちゃんと聞こえてたし、喜んでたよ」
「……でも」
アルブは、耳を伏せる。
「わかるんです。後ろの人は……聞こえてないんです。私の声が、途中で消える感じがして……」
それは、環境の問題だ。
頭では、そう理解しているはずだった。
でも。
「……少し、考えたいです」
アルブは立ち上がり、そう言った。
「考える?」
「はい。どうしたら、届くのか……みんなを傷つけないのか……」
その背中を、俺は止めなかった。
止められなかった。
・
その夜。
ギルドの明かりが落ちたあとも、俺は一人でステージに立っていた。
誰もいない客席。
空っぽの椅子。
(他の誰かの声なら、届くんだろうか……)
違う。
問題は、そこじゃない。
それでも。
ステージの中央に立つ影が、いつもより遠く感じられた。
――何かが、少しずつ、ずれていく。
まだ壊れてはいない。
でも、確実に、音楽ギルドナハトムジークは、次の段階に足を踏み入れていた。
それが、どこへ向かっているのか。そのときの俺には、まだ分からなかった。




