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もっと遠くへ②

 昨夜の出来事が頭に残っていて、胸の奥がまだざわついていたけれど、ミルチャに会って最初に彼が発した言葉は――。


「見事だったぞ、アオ! いや、アオ殿と言うべきか!」


 ――まったく、正反対の明るさだった。


「ファルノヴァでも聞いたが、昨夜は格別だった。アルブ殿の声も言葉も、アオ殿、ルゥガ殿、ゾラ殿の演奏も素晴らしかった。ゾラ殿は爪までが輝いておったわ。あれほどの盛り上がり、十年ぶりかもしれん!」


 ミルチャの豪快な笑い声が部屋いっぱいに響いた瞬間、昨夜の恐怖が一瞬だけ押し流されたように感じた。

 ……でも、胸の奥のざわめきは、まだ消えていない。

 が、すぐにミルチャの目は商人の眼光へと変わる。


「……さて、単刀直入に頼みがある。もっとだ。もっと多くの者に、あの音楽というものを聞かせてほしい!」

「もっと……?」

「昨夜のホールでも思ったが、そなたらの音は近くで聞かねば伝わらん。後ろの方にいた客人にはよく聞こえなかったようでな。わしがいくら話しても、あれは言葉では理解できん。実にもったいない。これは商売になる。多くの人に聞こえるようにすべきだ。お前たちの音楽は、いつか大きく国を動かせるほどの力になるやもしれんぞ?」


 その瞬間、ミルチャの声色が半音低くなった。

 商人が大きな金の臭いを嗅ぎつけたときのような声だ。

 

(……国を動かす……? たしかに、昔、音楽で国の姿が変わった国があったとか聞いたことがあるけど……)


 ミルチャはテーブルに地図を広げ、身を乗り出して語る。


「〈ファルノヴァ〉や〈ラクリノヴァ〉だけじゃない。西にも、東にも、北にも、南にも広げられる。これは世界が変わるぞ。そのためには金がいるだろう。いくらでも出そう。音がもっと遠くまで届くようにする――それをできぬか?」


 いくらでも、って……簡単に言ってくれる。


「何か必要なものがあれば、わしが手に入れよう。金はわしが出す。〈ラクリノヴァ〉の商人ギルドの力を総動員して探してやる!」

「そんな……悪いです」

「いや、もちろん、わしもたっぷり儲けさせてもらう。こういうのは最初に大きくやったものが勝つ。先行投資だ。気にするな」


 思わず息を呑んだ。


(……この人、本気だ)


 ミルチャはさらに続ける。


「せっかく来たのだ。しばらく〈ラクリノヴァ〉に滞在していくのもよいぞ? 寝食も、練習場も、我が屋敷を自由に使うといい」


 その厚意は、本当にありがたかった。

 でも――。


「……ミルチャさん。実は昨夜、帰り道で……昨日の、狐の紋章の男、カラボスに襲われたんです」


 ミルチャの顔から一瞬で笑みが消えた。


「……なんだと?」

「ゾラが追い払ってくれて、衛兵の人たちが来てくれて収まりましたけど……その……正直、かなり危険でした」

「衛兵たちめ……。わしが魔王側と敵対すると言い出すと思って、報告しなかったな……」


 沈黙。

 次の瞬間、ミルチャは椅子を立ち、部下を呼びつけた。


「街の警備を強化しろ。特に、旧市街周辺だ。カラボス殿には、私から話をつける。ただ、カラボス殿はヴルペ直属の配下でな。魔王の名のもとにやりたい放題やっておるのだ。納得はしないだろう」


 怒りを押し殺した声だった。


「しかし、わしの客人に手を出すとは……商人の面目を潰す行為だ。これ以上の危険な目には合わせんと約束しよう……すまなかったな、アオ殿」

「いえ。ミルチャさんのせいじゃ……」


 ミルチャは深くため息をつき、もう一度こちらを見た。


「しかし、ヴルペに動かれると、わしでもどうにもならん。しばらく〈ラクリノヴァ〉から離れたほうがいい。帰りの馬車はすぐに手配する。御者も護衛ができる者を付けよう。何か困ったことがあったら、何でも言ってくれ」


 本当に信頼できる男だと思った。

 俺たちは礼を言い、ミルチャが手配してくれた馬車で街を出た。


 ・


 ファルノヴァへ向かう街道を走っていたときだった。

 上空から、声が聞こえてきた。


「アオ・マイナ殿! アオ・マイナ殿! お待ち下さい!」


 俺はびっくりして空を見上げると、上空で鳥のようなものが飛んでいる。あそこから聞こえている声なのか? 御者が手を振ると、影が落ちてきた。


 バサァァッ――!


 鳥のような羽音。

 見上げると、一人の少女が空から降りてきた。


 翡翠色の翼。人間より少し細い体つき。やたらと露出が多い服装。くりっとした目が、やけにくっきりしていて……。


(……あんな上空からの声が、こんなにはっきり届くなんて)


「アオ・マイナ殿ですね!」

 

 少女の声は驚くほどよく響いた。鼓膜を素通りして胸まで届く感じだった。


「わ、はい! どちら様ですか……?」


「私はケマーレ・ヴァンツィア。ミルチャ様のご命令で、空から見張りをしておりました。この先の街道でヴルペの軍が検問をしております。カラボスが手を回したものと思われます。このまま陸路を進むのは危険です!」


 カラボス――また、あいつか。


「なので! ここからルヴェンアール川を下ってください。すでにミルチャ様が船を手配されており、まもなく到着いたします。急いで案内しますので、ついてきてください!」


 ケマーレはそのままふわりと浮かび、翼を大きく広げた。

 俺たちは彼女に導かれるまま、馬車を川沿いへと進める。

 とても大きな川につくと、数分後、木造の大きな船が待っていた。

 帆にはミルチャの家紋。船員が手を振っている。


「こちらへ! 急いで!」


 俺たちは馬車から飛び降り、船に乗り込んだ。


「このまま、私がファルノヴァまで送り届けます!」


 ケマーレは、胸を張って翼を畳んだ。

 彼女は、〈鳥人種(バードアイ)〉なんだそうだ。その声はやけに通る。馬車のガタガタした音の中でも、言葉ひとつひとつが鮮明に聞き取れた。


 (声が通る人っているんだな……)


 そんなことを考えていると船が動き始めた。

 川面の穏やかなせせらぎの音が、昨夜の熱狂がまだ胸に残っていることを思い出させた。


(……帰ろう。ファルノヴァへ)


 新しい音と、新しい戦いが始まる場所へ――。

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