第8話「火曜17時はシュッの備え」
火曜の午前授業。
ノートを閉じた麗奈の仕草に、近くの女子が小声をもらす。
「麗奈さんって、字まできれいだよね」
「うん……なんか全部整って見える」
憧れの視線が集まる。
だが麗奈はまったく気づかない。
心に響いていたのはただひとつ。
(今日の17時……クマしゃん♡)
それだけで鼓動が速くなり、机の下で握るペンが震えた。
***
放課後。
夕暮れの駅前コンビニ。
自動ドアをくぐった瞬間、麗奈の目は一点で輝く。
飲料棚の前。
正座するクマしゃんが段ボールを抱え、ぽっちゃりした背中を揺らしている。
「よいしょぉ……」
重そうな箱を持ち上げた瞬間、体がぐらりと傾いた。
「おっと……大丈夫でしたぁ」
クマしゃんはすぐ体勢を戻した。
だが麗奈は、もうカバンからタオルを取り出していた。
(今もし倒れてたら危なかった……。次に傾いたら、すぐ床にタオルをシュッて滑らせる……! そうすればケガはしない……。クマしゃんの安全は、私が守る……!)
タオルを両手で握りしめ、真剣な眼差しでじっと構える。
頬を赤らめながら小さく口にする。
「……シュッ、だよ。シュッ……」
本人にとっては当たり前の備え。
だが、少し離れた通路から見れば――
高嶺の花と呼ばれる少女が、店内でタオルを握りしめ「シュッ」とつぶやきながら正座の店員を凝視している。
その光景は、完全に奇行だった。
***
クマしゃんは気づかぬまま、ペットボトルを並べていく。
ラベルを丁寧に揃えるたび、麗奈の胸はきゅんと跳ねた。
「ふぅ〜……冷えてますよぉ」
のんびりした声に、麗奈の心臓はさらに熱を帯びる。
(あぁ……♡ 私の心は燃えてるのに……! これが恋じゃなくて何なの……!)
雑誌を胸に抱きしめ、視線を逸らすことができない。
***
買い物を終えて店を出ても、耳には「よいしょぉ」「シュッ」が残っていた。
帰宅後。
制服のままベッドに倒れ込み、枕を抱きしめて転げ回る。
「ふへへっ♡ タオルまで握っちゃった……! これもう、守護者ポジションじゃん……! やっぱり恋ってこういうことなんだぁ……♡」
観察ノートを開き、今日の欄に書き込む。
〈火曜17時=尊い正座〉
〈揺れるダンボール=要警戒〉
〈タオル構え=“シュッ”準備〉
〈“冷えてますよぉ”=心臓過熱〉
ページの端には、大クマしゃんが大きな箱を小さなコグマに渡す絵。
その横に「恋♡」「運命♡」と大きく書き込まれていた。
「……クマしゃんの安全は、私が守る。それが……恋なんだ♡」
麗奈は真剣に頷いた。
その姿は本人にとって切実。
けれど外から見れば、やっぱり「タオルを構える奇行少女」でしかなかった。