虹は見えたか
いつか、行こう。あの虹の彼方へ。
そういって、少年は少女の頭を撫でた。ほのかなラベンダーの香りが、少女の鼻をくすぐる。
うそ、行けるはずない。少女は思ったが、口には出さなかった。それは少年が一番知っていること、いうのは野暮というものだ。
「エティ、そろそろ帰らないと。おばさんが心配するわ」
「そうだね、夕飯の時間だし」
少年と少女は手を繋ぎ、草原を歩く。まだ雨のにおいがかすかに残っている。
少女はふと後ろを振り返った。ほらね、そこには行けやしないのよ。心の中でつぶやく。
虹はとうに消えていた。
少女はいつものように、あの丘で摘んだ花を抱えて、青年のもとへ走っていった。
開かれた窓から、少女は顔を出した。ベットの上で本を読んでいた青年は少女に気付くと、嬉しそうに微笑んだ。
「エティ、なんの本を読んでいたの?」
「読むかい?」
青年は分厚い本をちらつかせた。少女はあからさまに顔をしかめ、首を振る。
「あなたの読む本は難しすぎるもの。わたしには理解できないわ」
「きみはまた……。少しは勉強したらどうだい」
青年は呆れたようにため息をついた。少女は頬を膨らませ、ぷいとそっぽを向いた。
「そうだ、レイチェルがね、エティにって」
思い出したように少女は青年の方に向き直る。
少女はポーチに入れていた、淡い緑のリボンを渡した。
「僕に? レイチェルが?」
「ええ」
「本当に? わかった。じゃあ、レイチェルにこれを渡しておいて」
青年の声は心なしか弾んでいる。彼は枕元に置いている紙に羽ペンでなにかを書くと、それを少女に渡した。
少女は罪悪感にかられた。それをレイチェルが読めないことを少女は知っている。それどころか、リボンが彼女からだということも、まったくのでたらめなのだ。……だけど、そのリボンは紛れも無いレイチェルのもの。だから彼は、それを疑いもしなかった。
「ええ、レイチェルにちゃんと渡すわ」
少女は笑顔でそう答えた。
――愛しのレイチェルへ。
始めにそう書かれた、青年からレイチェルへの手紙。
少女はそれを読み、できるだけレイチェルの筆跡に似せながら返事を書いていた。
レイチェルなら。そう一生懸命考えながら文字を書く。この手紙を読んだら、レイチェルなら、青年のもとへ今すぐにでも行ったのだろう。けれど今、それを読んでいるのは少女だ。
いつまで続くのだろう。早く終わってほしいと少女は願った。うそをつき続けることは、少女にとっては苦痛でしかなかった。青年を欺いていることで、彼に会うことが日に日に辛くなっていった。もう限界だった。彼だって、レイチェルが一月も姿を現さないことを訝しんでいるにちがいない。終わりは近いのだと思った。
ある雨上がりのことだった。
「ラベンダーが、咲いていたの」
少女は青年に、両手いっぱいに抱えた紫色の花束を渡した。
いつからだったろう、彼からラベンダーの香りがするようになったのは。まだ少女は幼かったから、よく覚えていない。だけど、彼が少年と呼ばれていたときからラベンダーは彼のにおいだった。そして、彼女のにおいでもあった。少女はそのにおいが大好きだった。
「ラベンダーを見ていると、レイチェルを思い出すよ」
青年の顔色は悪い。けれどその微笑みは、変わらず穏やかなものだった。
そのせいで、たまらなく不安になる。青年もレイチェルのことを感づいているのではないか。だけど、うそは最後までつき続けなければならない。
少女はなんでもない風を装い、言葉を返す。
「レイチェルは紫の瞳だものね」
「それもあるけど、レイチェルはラベンダーが好きだったから」
「だから……」
だから、レイチェルからラベンダーの香りがしたのか。だから、青年からラベンダーの香りがしたのか。
「シエル、もういいよ」
穏やかに、青年はいった。はかなくも美しいその姿に、少女は息をのむ。今にも消えてしまいそうだと少女は思った。
「もう、いいんだ」
「……知っていたの?」
レイチェルがここにこないことを。リボンがレイチェルからだというのがうそだということを。
青年は頷いた。エティ、あなたは知っていてわたしのうそに付き合っていたの? 気付かれていないと思っていた。彼がもう長くはないことはわかっていたから、せめてレイチェルのことを悟られないようにしていた。けれど、青年はすべて知っていたのだというのだ。
「……ごめんなさい」
「いいんだ。レイチェルに、もうすぐ会えるから」
彼女のもとへ、僕は行くから。
少女は、そう、とだけいった。他にいう言葉が見つからなかったのだ。
青年は長い間病を患っていた。二十歳になるまで生きてはいないだろうと、そう告げられていた。それなのに、先に逝ってしまったのは、レイチェルの方だった。レイチェルは健康で、青年の方が先だと誰もが信じて疑わなかったが、彼女は流行り病であっさり逝った。
すとん、と肩の荷が下りたように感じられ、少女はへたへたとその場にへたり込んだ。
「あ、虹……」
少女はぽつりと呟いた。いつか青年と約束した、あの日の記憶が蘇ってきた。
――いつか、行こう。あの虹の彼方へ。
あの約束が、叶えられることはない。きっと彼が健康な身体であったならば、あの時少女の手を引いて探しに行ったにちがいない。少女だって、無邪気に虹を目指しただろう。
「シエル、ありがとう。約束を守れなくてごめん」
覚えていたのか。あのたわいのない子供の頃の約束を。決して叶うことのない、あの雨上がりの彼の言葉が、彼にとってほんとうはとても重要な意味を持っていたのかもしれない。
すっ、と青年は目を伏せた。寝台に横たわる彼の表情は、まるで眠っているように穏やかだ。
「エティ……?」
少女は呼びかけるが、返事はない。眠るように息を引き取っていた。