第8話 白銀の空と静岡の滑走路
第8話:白銀の空と静岡の滑走路
「……本日、日本列島全体が強い寒気に覆われており、全国的に大雪となっています」
羽田空港のブリーフィングルームに、管制情報を告げる声が響いていた。羽石健斗、副操縦士。機材はB737-800。目的地は新千歳空港。
――が、予報通りの天候に、乗員たちの表情はどこか硬い。
「新千歳は今のところオープン。ただ、着陸許可の順番待ちは20機を超えてる」
チーフパイロットの説明に、健斗は即座にルート変更のシナリオを頭に描く。だが、ダイバート先の空港が次々に「フル」になっているという現実が重くのしかかっていた。
「ANA123便、新千歳空港行き、出発時刻まで15分です。搭乗開始します」
地上係員の声に背中を押されるように、健斗は制服のネクタイを締め直す。
「じゃあ、行きますか。今日は何が起こってもおかしくない」
機長の高木が笑いながら言った。年齢は50代。柔和な表情ながら、30年のフライト経験を持つベテランである。
離陸後20分。上空ではすでに機長と健斗が代わる代わる気象データとにらめっこしていた。
「新千歳、いまRVR(滑走路視距離)500。あと30分で閉鎖の可能性あり。羽田、成田、仙台……すでにダイバートの航空機で満杯」
「関空、伊丹、函館、高松、女満別も……だめです」
CAが入ってきた。
「すみません、あとどれくらいで着陸できますか? お客様に不安が広がってきてまして……」
「……正直、我々も探してるところだ」
健斗が言葉を濁すと、CAは神妙に頷いた。
「富士山静岡空港が、使えるようです」
管制からの情報を受けて、健斗の眉が動いた。
「……まさかの静岡か。千歳から800km近く離れてる。燃料は?」
「残り45分分。……ギリギリだな」
「それ以外の選択肢は?」
「……丘珠は、滑走路閉鎖。もう、静岡しかない」
機長と短い目配せを交わす。
「オールニッポン123、富士山静岡へダイバートします。ETA(到着予定時刻)はおよそ35分後。燃料は最小限。緊急宣言は出しておきます」
健斗の手が、スロットルの上でわずかに震えた。第7話――つい先日。あのヤクザ風の若者による機内騒動。コクピット目前まで来た危機を思い出す。あのとき、CAたちは機内を守るため全力で動いた。彼ら彼女らの信頼は、今、健斗に託されていた。
「こちらは機長の高木です。本便は、新千歳空港の悪天候のため、目的地を富士山静岡空港に変更しております。ご不便をおかけしますが、安全のためご理解ください」
健斗は無線とメータを交互に見つめながら、機体の姿勢を整えていく。
「滑走路32、ウインド340から15ノット。クロスウインドだな」
「ギアダウン。スピードチェック」
静岡上空――周囲は晴れていたが、山からの突風が滑走路へと吹き下ろす。緊張感はむしろ増していた。
「オールニッポン123、ランウェイ32、クリアードトゥランド」
「クリアードトゥランド、オールニッポン123」
風を切り裂くように、737は機首を下げていく。エンジン音が甲高くなり、フラップが全開になる。
「バーストウインド! +10ノット!」
「補正入れる!」
最後の数秒、健斗が副操縦士として補助入力を加える。右からの風を読み、進入角を微調整。
「……タッチダウン」
機体はわずかにバウンドした後、静かに接地した。
「リバース、セット」
ホイールが路面をしっかりとらえ、ブレーキが効いていく。管制塔から着陸完了の確認が入ると、機内はほっとしたようにため息に包まれた。
ターミナルでCAのひとり、佐藤が健斗に声をかけてきた。
「羽石さん……やっぱり、頼れるっていうか……かっこよかったです」
「え?」
「前のハイジャック未遂のときも、今回のダイバートも……他のクルーたちの間で話題なんです。『次の機長は絶対羽石さん!』って」
「……まだ副操縦士ですよ、俺」
「でもそういう人に、安心して命預けられるなって、思います」
そう言って笑う彼女の表情に、健斗は気づかぬうちに顔を赤らめていた。
機体の外では、富士山が白くそびえていた。
“守った”。そんな実感が、冬空の下で静かに彼を包んでいた――。
翌朝朝5時52分。羽石健斗は、ホテルのアラーム音で目を覚ました。前夜、富士山静岡空港へのダイバートを終えた後、急遽押さえた静岡駅前のビジネスホテルは、古びていたが清潔だった。
気温は氷点下。カーテンを開けると、外は夜の名残をうっすらと残しながらも、雪が静かに降り積もっていた。
「……この静岡で雪かよ」
つぶやきながら制服に袖を通す。今日のフライトは羽田発。静岡から新幹線で東京へ戻り、午前11時の那覇行きANA127便に乗務予定だった。時間はある。だが、油断はできない。
6時22分発、こだま804号東京行き。ホームに立つと、すでに雪は靴底を覆い、車体にもうっすらと積もっていた。静岡駅は遅れもなく、列車は定刻どおりに発車した。
健斗は車内の3号車、通路側の自由席に腰を下ろし、ペットボトルのコーヒーをひと口。前の席では、修学旅行帰りのような高校生たちが小声で笑い合っていた。
——しかし。
新富士駅を発車して間もなく、列車は急ブレーキをかけることもなく、自然に速度を落として停車した。外は、視界が白一色で埋め尽くされていた。
アナウンスが流れた。
「この電車は、現在三島駅手前の区間で、大雪の影響により運転を見合わせております。再開の見込みは未定です。詳しい情報が入り次第、お伝えいたします」
健斗はすぐにスマートフォンを取り出し、運行情報を確認した。
東海道新幹線、新富士〜三島間が豪雪により運転見合わせ中。再開の見込みなし。
思わず口元を押さえた。
「嘘だろ……」
時刻は7時10分。仮にすぐ動いても東京到着は9時すぎ、会社集合にはギリギリ。だが、“すぐ動く”気配は、車窓にも車内の雰囲気にも、まるでなかった。
電話を取り出し、会社の運航管理部へ連絡を入れた。
「お疲れさまです、羽石です。今、こだま804号で三島手前で立ち往生してます。すみません、羽田集合……間に合いそうにありません」
「……了解。今、新幹線が全部止まってるって情報来てる。こっちでも代替クルーの手配かける。無理に来なくていい、身の安全を優先してくれ」
「ありがとうございます……すみません」
通話を切ったあと、健斗は背もたれに頭を預けた。車窓には、雪に煙る街と、動かぬ線路。そして、徐々に凍ってゆく彼自身の焦りがあった。
CAたちの間で「頼りになる副操縦士」として名前が出るようになっていた健斗も、この事態ばかりは手の打ちようがなかった。プロである以上、遅延は避けるべき——それでも、自然の前ではどうしようもない現実が、静かにそこにあった。
そして、不意に車内アナウンスが再び響いた。
「現在、除雪作業のため運転再開には1時間以上を要する見込みです」
健斗は苦笑した。
前方の高校生たちは不安げに先生を見上げ、斜め前のビジネスマンは苛立ちを隠しきれずに腕時計を睨んでいた。
健斗は制服のポケットから折りたたみのノートを取り出し、そこにボールペンを走らせた。
《こういう時にこそ、どう振る舞えるかがプロだ》
自戒をこめたその文字を、ひと息ついて見返した。そして、ふと、視線の先に見覚えのある姿を見つけた。
CAの成瀬だった。先日の那覇便で同乗していた、年上の落ち着いた女性で、あのハイジャック未遂のあと「またご一緒できて嬉しいです」と微笑んでくれた相手だ。
彼女もまた出勤途中らしく、制服の上にダウンコートを羽織り、静かに読書をしていた。
健斗は席を立つと、静かに声をかけた。
「おはようございます、成瀬さん。……まいりましたね、この雪」
成瀬は微笑んで言った。
「おはようございます、羽石さん。……ほんとに。でも、昨日の大雪でもあんな冷静だった健斗さんが焦る姿、ちょっと貴重かも。……ですね。笑」と苦笑い
その一言に、健斗は肩の力が抜けるような感覚を覚えた。