第3話空を飛ぶ
第3話空飛ぶ
制服の襟を整えながら、羽石健斗は深呼吸を一つした。
新千歳空港のブリーフィングルーム。壁のホワイトボードにはその日飛ぶ路線情報が記され、天気図、風向、雲量、すべての数字が目に焼き付くほど頭に入っている。
「落ち着いていけよ、健斗。今日のお前は副操縦士じゃなくて、“プロ”の副操縦士だ」
隣の席で声をかけてくれたのは、左席の機長・吉永。年齢は20代後半。整ったヘアスタイルと落ち着いた声音が印象的なベテランパイロットだ。
「はい。ありがとうございます」
「何度も訓練でやったルートだ。焦らず、決して急がず。最初のフライトってのは、空の匂いを身体に染み込ませる時間だ。忘れられない一日になるぞ」
健斗は黙って頷いた。内心では心臓が速く打っていた。緊張ではなく、興奮と責任の狭間にある独特の鼓動。
訓練では何度もこのルートをシミュレーションしてきた。離陸から上昇、巡航、アプローチ、着陸まで、すべてを頭の中で描ける。しかし今日は違う。乗客がいる。機体が本物。空が本番だ。
搭乗口から外に出ると、朝の冷たい空気が一気に肌を刺す。駐機されているボンバルディアDHC-8-Q400が朝日に照らされ、白と青のANAカラーが美しく輝いていた。
「やっぱ、でかいな……」
健斗は足を止め、機体を見上げた。プロペラ機とはいえ、実際に人を乗せて飛ばす航空機。教官から何度も言われた“責任の重さ”を、今この瞬間、全身で感じていた。
「おい、見るのも大事だが、早く点検しろ。タイムスケジュール押すぞ」
吉永の笑い声に、健斗は我に返った。「すみません」と笑いながら、プレフライトチェックに入る。燃料量、オイル、タイヤの摩耗、アンテナ、センサー、プロペラ……細かく項目を確認しながら、何も異常がないことを確かめていく。
点検を終えると、キャビンクルーとのブリーフィングを済ませ、いよいよコクピットへ乗り込んだ。
シートに腰を下ろし、シートベルトを締め、スロットル、オーバーヘッドパネル、FMS――すべてを確認する。
インターフォンが鳴った。
「お客さまの搭乗、全員完了しました」
CAの報告に吉永がうなずき、コクピットドアを閉める。
機内に静けさが戻る。スイッチのクリック音だけが響く中、健斗は深く息を吸い込んだ。
「よし……行こうか」
吉永の声に、健斗は無言で頷いた。
Q400のプロペラが唸りを上げる。エプロンから見える空は、冬の終わりを告げるような淡い曇り空だった。
「All Nippon 373, ready for departure, runway one-niner-right.
(オール・ニッポン・スリー・セブン・スリー、レディ・フォー・ディパーチャー、ランウェイ・ワン・ナイナー・ライト)」
羽石健斗は、マイク越しに静かに告げた。副操縦士として、初めて乗客を乗せた本番のフライト。胸の内に灯る緊張は、訓練のときとは比べものにならない。
「All Nippon 373, cleared for takeoff, runway one-niner-right. Wind 200 at 7.
(オール・ニッポン・スリー・セブン・スリー、クリアード・フォー・テイクオフ、ランウェイ・ワン・ナイナー・ライト。ウィンド・トゥー・ゼロ・ゼロ・アット・セブン)」
「Cleared for takeoff, one-niner-right, All Nippon 373.
(クリアード・フォー・テイクオフ、ワン・ナイナー・ライト、オール・ニッポン・スリー・セブン・スリー)」
左席の機長が力強くスロットルを押し込む。滑走路に機体が走り出し、プロペラの振動が体中を揺さぶった。
「V1... Rotate!
(ブイワン…ローテイト!)」
健斗が操縦桿を引く。機体が地面を離れ、空へと舞い上がった。新千歳の街並みが徐々に小さくなっていく。
機体が安定した巡航高度に到達すると、健斗は窓の外を見た。薄い雲の上に、澄んだ青が広がっていた。あの日、空を目指すと誓った瞬間を思い出す。初めて紙飛行機を飛ばした小学生の頃、航空大学校に合格した日、そして副操縦士任用訓練を乗り越えたあの震災の午後――。
彼の胸には、今もあの時の教官の言葉が残っていた。
「お前があの日、あの状況でも“空を諦めなかった”こと。それが今日に繋がってるんだぞ…よし水平飛行に入った」[Autopilot Center Command Push]と吉永が言う
短いフライトだが、決して軽くはない。責任と誇りを翼にのせて、Q400は北の大地をゆく。
やがて、機体は女満別空港への降下に入った。吉永が健斗にアイコンタクトを送る。
「Approach briefing complete. Landing, your control.
(アプローチ・ブリーフィング・コンプリート。ランディング、ユア・コントロール)」
「My control.
(マイ・コントロール)」
健斗は操縦桿を握り直した。初の着陸操作――すべての感覚が鋭敏になる。エンジン音、風の流れ、微細なバイブレーションすら身体に伝わる。
「All Nippon 373, contact Memanbetsu Tower 118.2.
(オール・ニッポン・スリー・セブン・スリー、コンタクト・メマンベツ・タワー、ワン・ワン・エイト・デシマル・ツー)」
「Contact 118.2, All Nippon 373.
(コンタクト・ワン・ワン・エイト・デシマル・ツー、オール・ニッポン・スリー・セブン・スリー)」
周波数を切り替え、最後のやり取りに入る。
「Memanbetsu Tower, All Nippon 373, established ILS runway one-eight.
(メマンベツ・タワー、オール・ニッポン・スリー・セブン・スリー、エスタブリッシュド・アイ・エル・エス、ランウェイ・ワン・エイト)」
「All Nippon 373, cleared to land runway one-eight. Wind calm.
(オール・ニッポン・スリー・セブン・スリー、クリアード・トゥ・ランド、ランウェイ・ワン・エイト。ウィンド・カーム)」
「Cleared to land runway one-eight, All Nippon 373.
(クリアード・トゥ・ランド、ランウェイ・ワン・エイト、オール・ニッポン・スリー・セブン・スリー)」
「300…approaching minimum」と計器から音が流れる健斗が慣れたように言う(Checkt)「…200 …minimum」「continue」 (300…アプローチングミニマム チェックト…200ミニマム…コンテニュード
「100‥50…30…20…10」
(100…50…30…20…10)
滑走路が眼前に現れる。スロットルを調整し、フレアをかけ、プロペラ音が一段と高まる中、機体は穏やかに着地した。
「ナイスランディング。」
吉永の一言に、健斗は静かに笑った。
スポイラーが立ち上がり、プロペラが逆回転し、Q400は滑走路を転がってタキシーウェイへと移っていく。
女満別空港の誘導路を走る中、ふとコクピットの窓から乗客たちの表情が垣間見えた。笑顔、安堵。確かに、それは自分たちが届けた空の旅の証だった。
プロペラが止まり、チェックリストが終了する。
「シップオーケーです」と健斗が吉永に言う「これからよろしくな新人さん!」吉永が緊張をほぐすため爽やかな笑顔で伝える
羽石健斗、27歳。今日、彼は本物のパイロットとして空に立った。
女満別空港での業務を終えた健斗は、空港連絡バスに揺られて網走駅前に着いた。日は沈み、北国の夜風が肌に心地よい。ANAの提携ホテルにチェックインする前に、何か温かいものを胃に入れようと駅前の小さな居酒屋へふらりと入った。
「いらっしゃいませー!」
暖簾をくぐった瞬間、すでに酒の香りと笑い声が店内に満ちていた。カウンター席に一人座っていた背広姿の男が、ふとこちらを振り返る。
「……おう、羽石!」
「えっ、吉永機長!? ここ、来てたんですか?」
「お前こそ来てんじゃねぇか。ホテル行く前に腹ごしらえってか? 同じだな」
二人は笑い合い、自然と隣に座る。地元のホッケ焼き、じゃがバター、鹿肉の串焼き……素朴で滋味あふれる料理が、今日の疲れをほどいていく。
「今日はよくやったな。ちゃんと空を飛ばしてた。あの目は、なかなか消えないぞ」
「ありがとうございます。でも……まだ、機長の背中は遠いです」
吉永は氷の音を鳴らしながら、焼酎を一口すすった。
「遠くていいんだよ。近かったらつまらねぇ」
その言葉に、健斗は少しだけ笑った。
帰り道。北国の夜空には星が瞬いていた。二人は同じホテルへ向かって、並んで歩く。
「健斗、お前、最初の空、どうだった?」
「……正直、怖かったです。でも、楽しかった。なにより、俺、今日――」
そう言いかけて、ふと空を見上げる。
「……旅をする側じゃなくて、空を飛ぶ側になったんだなって、実感しました」
「ふっ、そうかい」
ホテルの灯りが見えた。二人は何気ない話をしながら、ゆっくりとその扉をくぐった。
ホテルの自動ドアが静かに開く。暖かいロビーの灯りが、二人を迎え入れた。白い息を吐きながら歩いてきた健斗は、思わず「ふぅ」と声を漏らした。
「……やっぱ北の夜は冷えますね」
「このくらいで音を上げるな。真冬は鼻で息吸っただけで凍るからな、網走は」
吉永の冗談に健斗は苦笑しながら、フロントへと向かった。小さなカウンターには女性スタッフがにこやかに応対している。
「ご予約の方、お名前をお願いいたします」
「ANAです。羽石です」
健斗が予約確認をしていると、隣にいた吉永が無言で社員証を見せて、スムーズにルームキーを受け取った。
「さすがベテランですね、慣れてる」
「毎月来てるからな、このホテル。もう何も言わなくても通じるさ」
カードキーを受け取った健斗が、エレベーター前まで一緒に歩くと、吉永がちらりとこちらを見た。
「ちなみに、お前の部屋、たぶん俺の隣だぞ。ANAの契約部屋、だいたい並びで取られるからな」
「えっ、そうなんですか……」
エレベーターに乗り込むと、静かな音楽が流れていた。数字の表示が「3」を指すと、扉が開く。
廊下を歩き、並んだ部屋の前で二人はそれぞれカードキーを差し込んだ。
「じゃ、また明日。フライトの報告書、朝イチで送っとけよ。遅れると整備にも怒られるぞ」
「了解です。……吉永機長、今日は本当に、ありがとうございました」
「礼なんていらん。自分で掴んだ空だろ?」
そう言って、吉永は軽く手を挙げて部屋に入っていった。
その背中を見送りながら、健斗も自分の部屋へと入る。静かな部屋の窓から、街の明かりと遠くの海が見えた。
バッグを床に置き、ジャケットを脱ぎながら、健斗はもう一度、自分の手のひらを見つめた。
「……今日、俺、本当に空を飛んだんだな」
小さく笑うと、カーテンを閉めてベッドに腰を下ろした。夢のようで、でも確かに現実だった初フライトの一日が、ゆっくりと終わろうとしていた。