第一話紙飛行機の始まり
第一話紙飛行機のはじまり
風が吹いていた。
午後の伊丹空港、展望デッキ。鉄柵の向こうを、一機のボーイング787が滑走路へ向かってゆっくりとタキシングしていく。
「……ANAの機体、やっぱかっけぇな……」
少年時代の**羽石 健斗**は、いつもこの場所にいた。制服姿の父の背中を見送りながら、紙飛行機を手に、何度も空を見上げていた。
「健斗、帰るぞ」
「もうちょっとだけ。あの飛行機が飛び立つまで……」
背中に響くジェット音。翼が地面を離れ、滑走路から宙へと舞い上がる瞬間──それが、少年の心を捉えて離さなかった。
JALのパイロットだった父・羽石大吾。厳しい人だったが、唯一、空の話だけは目を輝かせて語ってくれた。
「コクピットから見る雲はな、下から見上げるのとは全然違うんだぞ。空の“中”にいるんだよ」
その言葉が、健斗の中でずっと残っていた。
空の“中”へ行きたい。飛びたい。父のように──いや、父以上に。
「航空大学校、合格だと……!?」
高校を卒業してから、三度目の受験だった。二浪して航空大学校へ入るには、周囲の冷たい視線もあった。けれど、健斗は曲げなかった。
「俺、空しか見てないんで」
宮崎キャンパスでの訓練は想像以上だった。学科の量、英語の専門性、気象と航空工学の複雑さ、そして飛行訓練──どれも体力と精神力を削る日々。
毎朝5時に起床し、操縦技術のシミュレーター訓練、午後は座学、夜は翌日の準備。失敗すればすぐに再評価、最悪は訓練停止。
「健斗、また教官にぶつかったのか?」
「ぶつかったっていうか……言い返しただけだって」
「それが“ぶつかってる”っていうんだよ」
同期の一人、冷静沈着な梶 亮太はよく健斗を止めたが、それでも健斗は譲らなかった。
「でもさ、命かける仕事なんだぜ?言うべきことは言う。それが俺のやり方だからさ」
仲間に煙たがられることもあった。だが、逆に「そこまで熱い奴、最近いねぇよ」と密かに好感を持つ者もいた。
そして4年後──。
卒業試験当日。
実技の最終チェックで、航大の訓練機が誘導路を進む。管制との交信、緊張の中、健斗はひとつ深呼吸をした。
「これは終わりじゃない。始まりだ」
空は晴れ渡っていた。雲一つない青空が、まるで彼の門出を祝福しているかのようだった。
卒業式の朝。
宮崎の空は、ひんやりとした海風と、うっすらと広がる春霞に包まれていた。
紺のブレザーの胸元に、航空大学校の青いエンブレム。
羽石健斗は、正門の前に立ち尽くしていた。何度も歩いた通学路、風に揺れる松の枝、そしてグラウンドの上に広がる空。そのすべてが、今日限りで「思い出」になる。
「……ほんとに終わるんだな」
ふと後ろから、肩を軽く叩かれた。
「羽石、まだ泣くには早いぞ」
振り向くと、同期の梶亮太が笑っていた。冷静で几帳面。だが、何度も自分を励まし、支えてくれた親友だ。
「泣いてねぇよ」
「顔、ゆるんでる。泣いてるのと同じ」
「お前こそ、スーツがよれすぎてて台無しだ」
二人は最後の悪ノリを交わして、列に並ぶ。壇上で一人ひとり名前が呼ばれ、卒業証書が手渡されていく。友人たちは次々に別の航空会社へ進み、あるいは民間訓練校、あるいは別の道へと分かれていく。
健斗の未来は、まだ確定していなかった。
――だが。
式が終わった午後。宿舎のポストに届いていた一通の封筒。
「全日本空輸株式会社」の文字が印字されたその白い封筒を開く手は、わずかに震えていた。
拝啓
羽石健斗 様
このたび、あなたを全日本空輸株式会社 自社養成パイロット訓練候補生として採用することとなりました。
しばらく、文字が読み取れなかった。喉が詰まり、声が出ない。
「……マジか……!」
その瞬間、思わず拳を握りしめた。隣の部屋から飛び出してきた梶に抱きつかれ、二人で部屋の中を跳ね回った。
父に電話を入れる。
受話器の向こう、しばらく沈黙が流れたあと──。
『そうか。よくやった。お前は俺より空に向いてる』
その声に、健斗の目から涙がこぼれた。
羽田空港第2ターミナルの北側、ANAの訓練施設「ANA Blue Base」。
白と青のロゴが入った建物の中には、最新鋭のシミュレーター、教官室、機種ごとのモックアップ機が並ぶ。
羽石健斗は、濃紺の制服をまとい、初めてこの場所に足を踏み入れた。
ANAの自社養成パイロットとして、ついに“本物の空”に向けての第一歩が始まる。
「羽石健斗、入ります!」
教官室で立ち上がったのは、60代のベテラン機長だった。鋭い目つきの彼は、短く言った。
「ここから先は、学生じゃない。“空を預かる責任”を持ってくれ」
この言葉に、健斗の背筋が伸びた。
初日は座学。システム運用、非常時対応、CRM、チェックリスト運用……どれも実践的で、航空大学校とは“レベル”が違った。だが健斗は、目を輝かせながらついていった。
「羽石、そんなに前のめりだとコケるぞ」
「コケても進みます!」
熱血すぎて笑われたこともある。だが、訓練生仲間の中には「お前みたいなやつが、いざって時に頼りになるんだろうな」と言う者もいた。
そして──ついにその日が来た。
ANA機整備格納庫。
夜明けの光の中、B777訓練機がゆっくりとタキシングしてくる。白と青の機体。巨大なGE90エンジンが、唸りを上げながら準備を始める。
「デカいな……マジで」
整備士に付き添われて搭乗し、ついに──コクピット。
正面の風防からは、まだうすら明るい滑走路が見える。機体チェックを終え、教官が横から低く告げた。
「今日は、君の“初めての空”だ。ミスは許されないが、恐れも必要ない」
「はい。行かせてください」
「よし──羽石、出してみろ」
チェックリスト完了。ドアクローズ。スロットルを押す。
「ANAテスト102、滑走路34R、離陸許可」
「スロットル全開。いきます──!」
ゴォォォォォッ!!
巨大なエンジンが咆哮し、機体が前へと押し出される。
スピードが上がる。滑走路のセンターラインがビュンビュンと流れていく。
「V1……ローテート……!」
操縦桿を引いた瞬間、鼻先がぐいっと持ち上がる。
地面が遠ざかり、機体は空へ──。
「上がった……上がった!」
その瞬間、言葉が出なかった。
眼下に広がる東京湾、雲を突き抜ける太陽、そして何より、機体を自分が“飛ばしている”という事実。
隣の教官が、ふと笑った。
「落ち着け、羽石。まだ始まったばかりだ」
健斗は、にやっと笑って答えた。
「ええ。本気でぶつかっていきますから、この空に」