第4章:憧れの上司との百合営業。としぴときよぴ。
「――というわけで、初回の営業先は、都内の私立・白雪女学院になります」
会議室の照明がいつもより少しだけ白く感じられたのは、
この場に置かれた衣装ラックと、ハンガーに吊るされた“制服”のせいだった。
お嬢様風のセーラー服。
白地に淡いブルーのライン、丸襟にはフリルの縁取り。
胸元のリボンは、紅茶のような渋みを帯びたベージュ。
スカートは、膝上――大人が着れば、明らかに“狙った丈”だった。
「学内導入が目的ですので、ターゲットは女子高生と教職員になります」
桐谷係長が冷静に続ける。
「リサーチの結果、“学園百合”“先輩後輩”“二人の秘密”といったシナリオが特に好まれる傾向があるため―― 今回の演出は“生徒会の仲良しペア”路線で進めます」
カチッ。
パワポのスライドが切り替わる。
そこには『営業戦略案:百合シーン台本(案)』の文字が並んでいた。
・登場挨拶:「今日はふたりで来ました♡」
・ふたりで手をつなぐ
・視線を合わせ、頬を赤らめる
・「先輩、今日は……一緒に、がんばりましょうね……っ♡」
・“会場の反応が最高潮に達したら”、軽くおでこを合わせる
キヨヒコは――喉が、乾いていた。
水も飲んでいないのに、胃の奥がざわざわと波打っていた。
制服のサイズは、なぜかぴったりだった。
それどころか、手に取ったとき、“可愛い”と感じてしまった自分がいたことが、何より怖かった。
「きよぴさん、この制服、リボンの左右バランスがずれてます。こちら直してから試着してください」
「……あ、はい……」
桐谷係長は淡々としていた。
まるで戦略ミーティングの一環。戦術指導であり、善意のプロフェッショナリズムに満ちていた。
「トシアキ課長、あまり見下ろす構図が続くと“攻め過ぎ”になります。もう少し首を傾けて“見守る角度”でお願いします」
「お、おう……こうかな?」
「はい、それです。“先輩感”が自然に出てます。さすがです」
キヨヒコは、その横顔を見て、
何も言えなかった。
努力してる。真面目だ。優しい。
だからこそ――痛い。
だからこそ――逃げ場がない。
午後。
会議室の一角に用意された簡易ステージの上で、ふたりは並んで立たされていた。
天井の蛍光灯。
硬いカーペットの上。
なのに、桐谷さんの「はい、ではお互い見つめ合ってください」の声が響くと、空気が一変した。
「……としぴ先輩……っ♡」
キヨヒコの声が、勝手に甘くなる。
言おうとしたのではない。
“こう言わなければいけない気がした”。
ハート型の瞳孔が震えていた。
視線を合わせれば、自然と頬が熱くなる。
「きよぴ……♡ その、今日は……一緒に、がんばろうな……?」
トシアキ課長も、少し声を震わせながら言う。
けれど、それは照れや演技ではなく、素の誠実さがにじんでいた。
桐谷さんは頷く。
「おでこの距離、あと3センチ。接触まではしなくていいので、視覚的に“くっつくかも”という距離感を保ってください」
言われた通りに、ふたりは近づく。
互いの吐息が当たる距離。
キスをする直前の、わずかな空白。
空調の音すら消えたような感覚に、キヨヒコの心臓が、ズクズクと痛み始めた。
(なにしてんだ……俺……)
可愛い制服。
震える声。
赤らむ頬。
それを、“売れるから”という理由で重ねていく毎日が、現実になろうとしていた。
ーーーーー
トシアキ課長との百合営業を決めてからの数日後。いよいよ客先で披露する日が近付いていた。
「はい、OKです。これで初回営業に向けての準備は整いました」
桐谷さんが淡々と告げる。
「衣装は当日朝に現地で着用。入場から最初の百合演出までの導線はマニュアルを配布済みです。プレゼン進行は私が行いますので、お二人は“補助・イメージキャラクター”という認識で結構です」
そう言って配られた紙には――“営業手順:百合演出パートの開始タイミングとアイコンタクトのルール”と記されていた。
“本当にやるんだ”と、キヨヒコは思った。
そして同時に、“誰も疑ってないんだ”という絶望が、胸の奥に静かに沈んでいった。
ーーーーーーーーーー
車内には、沈黙しかなかった。
営業車のエンジン音は低く、カーナビの電子音も消えていた。
後部座席に並んで座るキヨヒコとトシアキ課長は、制服を着て、無言のまま外を見つめていた。
白雪女学院の門が、目前に迫っていた。
石造りのアーチに、薔薇の模様をあしらった金色の校章。
その奥には、よく手入れされた校庭と、上品に微笑む制服の少女たち。
キヨヒコは、唇を噛んだ。
セーラー服のリボンは結び直したばかりで、ピンと張っている。
でも、足元は冷たくて、手のひらは汗でしっとりと濡れていた。
「……きよぴ」
トシアキ課長の声がした。
さっきまでの“おっとりした上司”の響きではなかった。
「行こう。“としぴ”として、ちゃんとやるから」
車のドアが開く。
日差しが、制服の白を照らす。
ふたりが降り立った瞬間、静かなざわめきが、門の向こうから起きた。
「――えっ、誰……?」
「可愛い……えっ、男の子? いや女の子? ていうか、カップル?」
「やばい、めちゃくちゃ尊い……」
トシアキ課長は、軽やかに手を差し出した。
それはもう、“会社の人間”ではなく、舞台上のプリンシパルのようだった。
キヨヒコの指が、それを掴んだ瞬間、可愛い制服を着た“ふたりの百合”が完成した。
としぴは、微笑む。
何の淀みもない、営業用じゃない、でも確かに計算された微笑み。
「行きましょう、きよぴ」
歩き出すふたり。
ヒールがアスファルトを叩くたびに、校門の内外から少女たちの声が増えていく。
ーーーーー
校門をくぐり、応接室へと向かう途中――
天窓から光が差し込む、学院の中央ホールに差しかかる。
白いタイルの床に、シャンデリアの影が柔らかく落ち、空気に少しだけ香水の甘さが混ざっていた。
ここだ。
事前に決められていた、“第一百合営業ポイント”。
今は昼休みの終わり際。
白雪女学院の生徒たちがちらほら戻りはじめている。
揺れるセーラー服の群れ。整然とした足取り。囁くような声の飛び交う中――
彼女たちの視線が、すうっとこちらへ引き寄せられていく。
その中心で、キヨヒコは一歩、足を止めた。
「……としぴ、先輩……♡」
声はごく小さく、けれど、誰よりも切実に震えていた。
まるで、演技ではなく“心の奥からの迷い”がそのまま口をついて出たようだった。
キヨヒコは、としぴの袖を掴む。
繊細な指先が、くしゃりと薄布を握る音さえも、静寂のなかで際立っていた。
「……としぴ先輩、不安です……♡ ……今日の営業……うまく、できるかな……っ♡」
潤んだ瞳で、としぴを見上げる。
伏し目がちのまま揺れるまつげ。
ピンクのツインテールが肩越しに揺れて、首筋に影を落とす。
としぴは、ゆっくりと笑った。
微笑みに、わずかな哀しみの色を含ませながら――そのまま、静かに腕を広げる。
まるで花びらが触れるような、やわらかな抱擁だった。
スカートの縁と縁が触れ合い、絹のような布がこすれる。
包み込む動作の中に、母性と恋情が絶妙に交じり合っていた。
「……大丈夫。安心なさい、きよぴ。……としぴが、あなたのそばにいますわ」
声は、甘やかで、低く、ゆるやかだった。香水ではない、衣服の洗い立ての香りが微かに漂う。
ふたりの額が、そっと触れ合う。
おでことおでこ――柔らかな熱が直に伝わり、互いの呼吸がひとつに混ざる。
制服の裾がふわりと揺れて、春の光が輪郭を金に縁取る。
その一瞬、広間の空気が、まるで聖域になったかのようだった。
「……としぴ、先輩……♡」
囁くような声に重ねて、キヨヒコがそっと目を細める。
ふたりの間にあるわずかな隙間は、恋人たちが“触れる前”にとどまるその距離。
静かな熱の渦が、ふたりの足元から立ち昇るようだった。
キヨヒコは指を伸ばし、としぴの細く整った指へと、静かに絡める。
肌と肌が触れるその瞬間――
としぴは、何も言わずに、しっかりと握り返した。
手のひらの接触が、演技を越えて、静かな誓いのようにも思えた。
そのまま、指を重ねたまま、ふたりは歩き出す。
制服のレースとリボンが揺れるたび、柔らかな色彩が空気に溶けていく。
周囲の女学生たちは、完全に足を止めていた。
誰もが見ていた。
誰もが息を呑んでいた。
誰もが――そこに“本物の百合”を見たと思った。
「……うわあああああ……!!」
どこからともなく、悲鳴にも似た歓声が上がる。
その刹那、抑えていた興奮が一気に弾けたように、叫びが広がる。
「やばい! 本物だ! 生としぴときよぴ!!」
「尊すぎて泣きそう……百合って実在したんだ……!」
「リリ社って営業まで芸術なの!?」
次々と携帯が掲げられ、連写音が鳴り響く。
シャッターに照らされた二人の姿は、まるでステージの光を浴びる主役だった。
少女たちの頬が赤く染まる。
目を潤ませる者。
手を握りしめている者。
呟くように「好き」と漏らす声。
――そのすべてが、“商品”としてのふたりに、向けられていた。
キヨヒコは、照れるように顔を赤らめて笑っていた。
可愛い声で返事をしながら、手を振っていた。
演技だった。
けれど――身体が、もう勝手にそう動くようになっていた。
胸に刺さった羞恥の棘が、抜けないまま、
“観られる快感”と、“役割を果たしてしまう自分”に、静かに蝕まれていく。
桐谷係長に連れられて、ふたりの足取りは、ゆっくりと応接室へと向かっていく。
リボンが揺れ、視線を集め、そして――
その背に向けられた拍手と歓声は、まるで祝福の鐘のようだった。
だが、その音は、キヨヒコにとって呪いの鐘にしか聞こえなかった。
ーーーー
白雪女学院の応接室は、まるでサロンだった。
淡い紅茶色のカーペット。白いカーテンが風に揺れ、壁には古い肖像画。
革張りのソファに腰かけた教頭と担当教員が、にこやかにプレゼンを待っている。
「本日はお時間いただき、ありがとうございます」
桐谷係長が一歩前に出て、静かにお辞儀をした。
「本日は、“共感と感情の接続”をテーマに、リリ社が開発した教育支援型コミュニケーションツールのご案内に参りました。 生徒同士の対話、教師との感情の共有を促す設計です。特に非言語的反応を可視化する機能に――」
理路整然としたプレゼンが始まった。
桐谷係長は、手元の資料を端的に示しながら、視線を揺らさずに語る。
その声は、冷たくはないが、無駄がない。
その隣。
としぴときよぴは、並んで腰かけていた。
桐谷係長から見れば“雰囲気作りの演出要員”。
ソファの上で、姿勢を正して座っていた……はずだった。
「……としぴ先輩……」
小さな声が、ふと空気を震わせた。
キヨヒコが、肩をすぼめて俯く。
スカートの裾を指でつまんで、落ち着きなくもじもじと動いている。
その仕草に、教頭の視線が注がれる。
注目を浴びたキヨヒコは、ますますそわそわと動きを止められなくなる。
「……不安で……」
そのとき――
トシアキ課長が、そっと顔を近づけた。
キヨヒコの頬に触れそうな距離まで、ゆっくりと前屈みになる。
指先が、そっとキヨヒコの膝に置かれた。
「……安心なさい、きよぴ。
わたくしが、そばにおりますわ」
その声音は、まるで劇中の“理想のお姉様”。
気品があり、甘やかで、深い慈しみに満ちていた。
教頭が小さく「ほう……」と息を呑むのが、はっきりと聞こえた。
キヨヒコが顔を上げる。
潤んだ目で、としぴを見つめる。
「……としぴ、先輩……♡」
ふたりの距離は5cm。
どちらからともなく、傾きそうな角度。
無言の見つめ合いが続く。
時間が引き延ばされ、空気が溶けるように変質していく。
「――きよぴさん、資料を回してもらえますか」
桐谷係長の淡々とした指示が、ふたりの間の空気を裂いた。
まるで張り詰めたフィルムを鋭利な刃が切り裂いたように、現実が割り込む。
「えっ……あ、はい……!」
キヨヒコの肩がびくりと跳ねた。
至近距離でトシアキ課長を見つめていた目が、慌てて逸らされる。
膝の上で握っていた資料を、うまく掴めない。指が震えて、紙がカサカサと音を立てる。
(ダメだ、落ち着かない……)
“演技”のはずなのに、体が引きずられたまま、現実の“作業”へと切り替えられない。
それを見て、
としぴ――トシアキ課長が、そっと身を寄せた。
「――きよぴ」
耳元で囁かれる声は、やわらかく、落ち着いていた。
けれど、近すぎる。
肌が触れ合いそうな距離で、制服の布同士が擦れる音すら聞こえた。
次の瞬間、腰と肩を、両手でやさしく包まれた。
ふいに体の軸が安定する。
「落ち着くのよ、大丈夫。としぴが、ちゃんと支えてるわ」
その囁きは甘く、
けれど支配的な安心感を与えてくる。
“守られている”と思ってしまうような、優しい支配だった。
キヨヒコは、口を開けないまま、
顔を真っ赤に染めて、ゆっくりと頷いた。
資料を手渡し、肩をすくめてソファに座り直す。
視線は落ちたまま、指だけが不器用にスカートの裾を握っていた。
目の端で――教員の頬が、にこやかに緩んでいるのが見えた。
“完璧な百合”。
そう評価されていることが、皮膚の上から感じ取れた。
「――では、改めてよろしくお願いいたします」
桐谷係長の低く落ち着いた一礼とともに、商談は幕を閉じた。
担当教員は興奮気味に立ち上がり、資料を抱えて頷く。
「ええ、ええ、もちろんです。これほど生徒たちの関心を引けるのなら、導入を前向きに検討します。……というか、もうこのまま追加でもう一枠お願いできますか? 放課後にもプレゼン、見せたい先生がいるんです」
としぴときよぴ、ふたりの“演出”に、職員室からも感嘆の声が上がったと聞かされた。
すでに学院の校内SNSでは写真が出回り、“白雪に現れた百合の精霊”とまで呼ばれていた。
ーーーー
「いやあ、俺たち、やったな……な、きよぴ?」
トシアキ課長は、やわらかく、誇らしげに微笑んでいる。
汗ばむ手のひらで、そっとキヨヒコの肩に触れようとして――ふと手を止めた。
キヨヒコの表情が、硬かったからだ。
「……すごかったな、今日の反応。ほんと、夢みたいだった」
そう言いながら笑うトシアキ課長の背中が、キヨヒコには、ひどく小さく見えた。
制服の背中、腰に添えられたリボン、襟元のフリル。
なぜか、あの姿が“もう元には戻れない”ような気がして、恐ろしくなった。
トシアキ課長は、まっすぐ前を向いていた。
会社のため、部下のため、期待に応えるため――
全てを“受け入れる”ために、自分を塗り替えている。
(……笑顔で塗り重ねた分だけ、“戻れない”のかもしれない)
キヨヒコは、制服の袖を握った。
その白が、皮膚に馴染んでいる気がしてならなかった。
「きよぴ?」
声をかけられても、笑顔が出せなかった。
心のどこかで、誰かが小さく囁いていた。
――今日も“契約”が取れた。
――今日も、“可愛い”が売れた。
――じゃあ、明日も“やらなきゃ”ね?
その声が、“自分の声”だったことに気付いたのは、
応接室を出て、ふたりで廊下を歩き始めたときだった。
ーーーー
「初回営業、想定以上の反応でした。お疲れさまでした」
帰社後すぐの会議室。
応接椅子に腰かける間もなく、桐谷係長が淡々と報告を始める。
壁際のホワイトボードには、すでに“今後の営業先候補”が箇条書きで貼られていた。
「SNS反応件数1,043件、直結するフォロワー増加:約420名。 該当スレッドの拡散数は社内過去最高です」
「す、すげぇな……」
トシアキ課長がやや呆けたような声で漏らした。
「生徒たちの好意的な書き込みはもちろん、職員側からも“安心感”“感情の距離の近さ”“柔らかい雰囲気”という評価が寄せられています。商談としては理想的な着地かと」
「……ありがとうな、桐谷さん。君がいなかったら、ここまで形にはならなかった」
トシアキ課長は、やわらかく笑って言う。
だが――キヨヒコは、その会話の外にいるような感覚だった。
静かすぎる会議室の空気のなか、自分だけが呼吸のリズムを失っているような、妙な浮遊感。
「次回以降は“季節感を盛り込んだ演出”と、“キャラ設定の変化”を導入する方向で進めます」
桐谷係長が淡々と資料を配る。
《桐谷案・百合営業シーズン施策》
・春:新学期の初々しさ(お互いに距離を測り合う関係性)
・夏:日差しの下での小競り合い(ツンデレ+濡れ髪演出)
・秋:文化祭の準備中に距離が縮まるパターン
・冬:風邪で寝込み、もう一方が看病し“おでこを触れる”系演出
「それぞれの営業先に合わせて、設定を微調整し、装飾や会場構成も検討中です」
「……これ、本当に営業なんだよな?」
課長が、少し笑う。
苦笑のようで、でもどこか誇らしげだった。
「ええ、営業です。そして、営業として――“勝っている”のです、トシアキ課長」
その言葉に、会議室が静かに頷いた。
桐谷係長の“事実だけを語る”淡々とした口調が、
奇妙な安心感を与えていた。
“これは異常じゃない。理性的で、正しい。勝っている”。
キヨヒコは――
その言葉に、どうしても呼吸が合わせられなかった。
ーーーー
百合営業は、想像以上に、売れた。
──女学院での成功からわずか一週間。
リリ社は“感情特化型提案営業”として、“としぴ&きよぴ”を前面に押し出す営業戦略を加速させていった。
・演劇部の顧問に対して「稽古中に支え合う百合」演出
・小学校向けには「仲良し姉妹設定での朗読会」
・地方の商店街支援には「同棲百合カップルが地域活性を語る」設定
あらゆる商談に、あらゆる百合の“役割”が与えられた。
キヨヒコとトシアキ課長は、もはや営業ではなく“百合の俳優”だった。
社内の空気感が変わり、会社からは百合営業の役割を期待されていることをひしひしと感じた。
商談が終わる都度、桐谷係長は冷静に観察し、効果を数値化し、次なる戦略を打ち出した。
「顧客が最も反応したのは“触れそうで触れない距離感”です。次は“腕を掴んで引き寄せる”系の動作が効果的かと」
「としぴ課長、“雨の日に傘をさしながら見つめ合う演出”はいかがでしょう?視線の交錯と濡れ髪の表現が抜群です」
その度、トシアキ課長は真面目に頷いた。
「なるほどな、なるほど……! ありがとう、桐谷さん!」
――としぴがノっている。
もはや止められない勢いだった。
としぴは、かつての真面目でダンディな課長の面影を残したまま、ひたすら健気に“可愛く”なろうとしていた。
鏡の前で笑顔の練習をする姿を見かけたとき、
キヨヒコは思わず背を向けた。
(……なんで俺が、恥ずかしくなるんだ……)
自分が始めたわけでもない。
自分も望んだわけではない。
だけど、“もう一人の自分”が努力して、可愛くなろうとするたびに、
自分がどんどん空っぽになっていく気がした。
トシアキ課長が笑うたびに、
桐谷係長が頷くたびに、
社内の拍手が増えるたびに、
(これが正しいんだよな? これが“正解”なんだよな?)
と、自分に言い聞かせていた。
でも、喉の奥に詰まった何かだけは、ずっと溶けなかった。
ーーーー
「ふふっ……見てよこれ、可愛いだろ?」
ランチタイムの屋上で、トシアキ課長がスマホを差し出してきた。
そこには、制服姿で頬を染める“としぴ”が映っていた。
カメラ目線でピースをして、レースのカチューシャをつけている。
「……これ、家で……?」
「そうそう! フタバがさ、最近すごく仲良くしてくれててな。この前、コスメ買いに行ってついでにメイクしてくれたんだよ。チーク濃すぎて笑っちゃったけど」
としぴ課長は、誇らしげだった。
以前に見せてくれた娘のフタバさんの写真よりも、一段と二人の距離が近付いていた気がした。
画面をスライドさせると、もう一枚、もう一枚と連続で写る“幸せな記録”たち。
・娘と一緒に、鏡の前でツーショット自撮り。
・娘の中学時代の制服をとしぴが着て、後ろからハグされている写真。
・リビングで、フリフリのエプロン姿のとしぴが、ケーキを持ってポーズを取っている。
・“としぴ”と書かれたネーム入りのマグカップを持つ写真。
「この前なんて、“としぴ、世界でいちばん可愛い”って言ってくれてさあ……! 娘からだぞ? ふふっ、ちょっと泣きそうになったよ、俺」
キヨヒコは、笑顔を返すことができなかった。
喉がつまった。
笑ってはいけないような気がした。
なぜならそこには、自分が“壊したかったものじゃない”ものの破片が、幸せそうに転がっていたから。
(課長の家庭は、確かに壊れてはいない。
むしろ――“新しく結び直されてる”)
でも、それは“課長”ではなく、“としぴ”の家庭だった。
(俺が尊敬してたのは、あのダンディな後ろ姿で、厳しいけど信頼できる……)
「ありがとな、きよぴ。お前が頑張ってくれたおかげだよ」
としぴが言う。
笑顔だった。無垢で、温かく、そして――とても遠い。
ーーーー
「本日より、“百合営業戦略”を正式にプロジェクトとして推進します」
課内ミーティング室。
ホワイトボードには仰々しく貼られたタイトル。
《感情型PR推進施策・百合営業ユニット化案》
その下には、チーム体制図。
中心には「営業担当:トシアキ課長」「営業補佐:キヨヒコ(きよぴ)」その隣に「演出・進行:桐谷係長」の名があった。
「……現在、営業成約率は旧来比およそ187%。顧客の初回応答率は220%。SNSでの接触数は週平均3,000件超。これはもはや、偶発的成功ではなく――明確な“営業モデル”です」
桐谷係長の冷静なプレゼンに、社内の空気は完全に納得の色に染まっていた。
にこやかに頷く部長。
「すごいなあ……本当に数字が跳ねたんだな」とつぶやく若手。
その中で――
トシアキ課長は、ひときわ深く、頭を下げた。
「……皆さん、改めて、ありがとうございます。俺は、最初は戸惑ってた。だけど、これで契約が取れて、会社の力になれるなら、どこまでもやろうと思っています」
顔を上げたとしぴは、いつものように優しく笑っていた。
いつものように、制服のリボンを揺らして。
ハート型の瞳孔を揺らして。
「今後とも、ご指導ご協力、よろしくお願いします♡」
その瞬間、拍手が起きた。
パチ、パチパチ、パチパチパチ――
部屋全体が沸いた。
まるで新規プロジェクトの成功者を讃えるような熱。
キヨヒコは、その輪の中にいた。
でも、その拍手のリズムに合わせることができなかった。
自分が誰に感謝されているのかも、
自分が今、何をしているのかも、
一瞬、霧の中に溶けて消えたようにわからなくなった。
ーーーー
「次の案件、ターゲットは“映像制作・メディア系”です」
桐谷係長が、タブレットを軽くタップすると、壁面のスクリーンにプロジェクト候補企業のロゴが並ぶ。
「特に“ウィッチ社”は、魔法少女×百合アニメをメインIPとして展開しており、感情型プロモーションに強い親和性があります」
数人の若手がざわつく。「あそこってオタク向けの大手じゃないですか?」「本社ビルの上に魔法少女の像あるとこでしょ?」
「はい。ゆえに、戦略として“魔法少女設定での百合営業”を提案します」
“魔法少女設定”という言葉に、一瞬だけ空気が止まる。
だが、すぐに誰かが「面白いかも」と言い出し、笑いが広がっていった。
「としぴ課長には、“変身後の先輩魔法少女”ポジションを。きよぴさんは“新人魔法少女見習い”。関係性は、守られたいけど、時々背中を支えたい距離感です」
「なるほど……」
「攻守逆転系か、映えるな……」
誰も、疑わなかった。
誰も、止まらなかった。
その場にいたのは――“感情としての百合”ではない。
“売れるからやる百合”だった。
キヨヒコは、席を立つことも、声を出すこともできなかった。
ただ、静かに頷いた。
可愛い制服のスカートを、膝の上で整える仕草は、
もはや“無意識”のレベルで自動化されていた。
桐谷係長が淡々と話を続ける。
「次の打ち合わせでは、魔法少女衣装の試着と、バリエーション別セリフ演技を収録します。社内共有用のサンプル映像としても利用する予定です」
(こんなの、おかしい)
そう思った。確かに思った。
でも、誰にも、言えなかった。
だって今、自分たちは――
“売れている”のだから。
ーーーーーーーー
深夜。
目を閉じたはずのキヨヒコの視界に、蛍光灯のような白い光が差し込む。
気づけば、あの空間だった。
何もない、ただ白い床と空だけが続く虚無の部屋。
そこで待っていたのは――
白いパーカーに短パン姿の、イヅミだった。
相変わらず、退屈そうな顔で、退屈そうに片足を揺らしていた。
「やっほー、きよぴ。お仕事順調そうで何より♪」
にやりと笑うその口元が、“優しさの仮面をかぶった悪意”に満ちているのを、キヨヒコはもうよく知っている。
「……なんで今、出てきた」
「だって報告の日でしょ。ほら、3ヶ月ぶり?ちょっと遅れたけど。で、“今のとしぴ”と“きよぴ”がどんなふうに堕ちてるか、ちゃんと教えて?」
言いたくなかった。
でも、身体が勝手に話し始める。
制服。
営業プラン。
演出指導。
魔法少女の衣装案。
としぴ課長の家庭の写真。
……全部、全部、口から出ていく。
話している間ずっと、イヅミはくすくすと笑い続けていた。
「そっかあ……としぴ、娘に可愛がられてるんだぁ? ママより可愛いとか言われて、嬉しそうにしてるんだぁ。うーん、キモ可哀想」
キヨヒコの顔が、ぎゅっと歪む。
「……やめろ……っ」
「やめないよ。だってこれ、“呪い”だもん。あんたがいじめた結果で、あたしが用意した“舞台”だもん。きよぴが、こんなに上手に“可愛い”やってくれるなんて、思ってなかったなあ」
イヅミは、懐からスマホを取り出す。
そこには、としぴと娘が写った写真。
キヨヒコが昼に見せられた、あの画像だった。
「ふふっ……ねえこれさ、どっちが“娘”だと思う?」
人差し指で画面をなぞりながら、
イヅミは小さく、優しく囁いた。
「としぴさんのほうが、可愛くて華奢で幼く見えるよね。娘さんより娘みたいだね。ふふっ、家でも愛されてて可哀想。」
笑顔のまま、イヅミが呟いた言葉が、
夢の中なのに、キヨヒコの胃の奥をぎゅっと締めつける。
「……もっと、可愛くなろうね」
イヅミの体から禍々しい紫色の煙が溢れ出す。キヨヒコの周囲を染めるかのように辺りへ散らばっていく。
その言葉とともに、夢が――強制的に、終わった。
目が覚めたキヨヒコの瞳孔は、
無意識にハート型に震えていた。
そして、枕元には――
昨日持ち帰った“魔法少女衣装の仮縫いセット”があった。
ーーーーーーーー
朝。
社内の更衣スペースで、鏡の前に立つキヨヒコは、
自分の姿に、もはや何も言葉を出せなかった。
スカートのフリル。
肩のリボン。
胸元には、金の星をかたどったエンブレム。
色合いはミントとラベンダー――まさに“魔法少女”そのものの制服。
しかも、“見習い魔法少女”という設定なので、
スカート丈は短く、袖にはふにゃふにゃと揺れる羽飾りがついていた。
(……笑ってしまう。なのに……)
鏡に映った自分の笑顔が、“あざとく完成された笑顔”だった。
笑いたくなんてなかった。
でも、顔の筋肉は勝手に“顧客ウケする”形で動いていた。
「きよぴ、準備できた?」
振り返ると、としぴ課長――トシアキ課長が、
“上級魔法少女・お姉様ポジション”の姿で立っていた。
深い赤のケープ。
腰まである巻き髪ウィッグ。
胸元には、宝石のようにきらめく魔法の鍵のブローチ。
そして何より、“堂々と”していた。
「……うん。大丈夫、です♡」
口が、勝手に“演技モード”に入る。
それを聞いたとしぴ課長は、嬉しそうに微笑んで言った。
「よし、今日はウィッチ社。大事な営業だ。としぴときよぴで、バッチリきめような!」
ふたりで社用車に乗り込む。
運転席に座る桐谷係長は、ノートPCを叩いていた。
「営業先は14時から。30分前入りで現場入り。挨拶から入って、2分後に“照れ顔の見つめ合い演出”です。今回は“変身してきたふたり”という前提ですので、導入台詞はこうなります」
紙が1枚、配られる。
>としぴ「“この力を授かったのも、きよぴがいたから……感謝してるわ”」
>きよぴ「“わたし……としぴ先輩の隣にいられて、しあわせですっ……♡”」
桐谷係長は言う。
「シナリオ変更の余地はありますが、“恋愛未満の切なさ”と“信頼の厚さ”を同時に感じさせる構図が顧客に好まれます。 特に今回の相手は、“魔法少女×姉妹百合”に強い親和性を示していました」
「……了解です♡」
キヨヒコの声は、微かに震えていた。
だけど――その声色は、
“魔法少女きよぴ”として、完璧なイントネーションで響いていた。
ーーーー
「おまたせしましたぁっ、魔法少女営業部ですっ☆」
ガチャリと会議室のドアが開いた瞬間、
としぴ課長が“完璧すぎる笑顔”で元気に挨拶した。
ウィッチ社の役員たちは、その瞬間、反応に困ったように息を呑み、次の瞬間には口元を抑えて――明らかに“嬉しそうに困惑していた”。
「え……えぇっと……まさか本当に、その、魔法少女で来られるとは……」
「はいっ。今日はお時間ありがとうございますっ」
としぴが一歩前に進む。
「こちら、私のパートナー、“きよぴ”です」
指を絡めるように、そっと差し出される手。
自分で動いたわけじゃない。
けれどキヨヒコの指が、それに応えて絡んだ。
スカートが揺れる。
唇が、勝手に開く。
「としぴ先輩……わたし、初変身で……。 魔法が暴走しちゃわないか、すごく不安で……っ」
潤んだ目で見上げる自分――それが、恥ずかしさよりも先に、
“あ、完璧にできちゃった”という虚無の感覚をもたらした。
「……安心なさい、きよぴ。あなたの手は、わたくしがずっと、離しませんわ」
としぴが、台本通りの台詞を優しく囁く。
会議室の空気が甘く溶ける。
役員たちの中の1人が、小さく「……これ、普通にアニメ化できるな……」と呟いたのが聞こえた。
そこからの数分は、夢の中のようだった。
桐谷係長が淡々とプレゼンを進める横で、
ふたりは“見つめ合い”、“袖を掴み”、“おでこを寄せ”、
そして――“変身アイテム”を交換する小道具演出まで入れた。
営業とは思えない。
でも、契約は進んだ。
質問は出なかった。
ただただ、満足そうな頷きと、拍手と、追加の提案。
会議室を出たあと、
担当者が笑いながら言った。
「すごいですね……ほんとに魔法少女が来たみたいで。追加のプレゼン、来週もお願いできますか? できれば、今度は“別れと再会”の流れで……泣けるやつ、お願いします」
としぴの笑顔で応える背中を、
キヨヒコはただ、遠くに感じていた。
営業のあと、近くの貸し会議室で行われた簡易的な“振り返り”は、映像記録を確認していた課員からの拍手と称賛でいっぱいだった。
「いやあ、よかったよ今日! 本当によかった! プレゼンどころか、劇を見てるみたいだった!」
「百合の演技に感情乗せながら、資料の受け渡しもちゃんとしててすごいです。プロかと思いました」
「としぴ課長、あの“鍵を手渡すシーン”、泣きそうになりました……」
笑い声と拍手のなか。
としぴ課長は、頬を赤らめながらも満面の笑みだった。
「いやぁ、もう、俺なんかまだまだなんだけどな……。でも、きよぴが横にいてくれたから、できたんだよ」
その言葉に、みんながまた微笑む。
隣の席では桐谷係長が、すでに次のシナリオ案をノートに描いていた。
>・記憶喪失設定→“あなたが誰か思い出せないけど、涙が出る”展開
>・敵対→“一時は敵同士だったふたりが再び手を取る”構図
>・病室→“弱っていく中で交わす約束”
「次回は“エモ重視”ですね。視聴覚素材を泣かせに寄せれば、契約締結後の拡散率も上がるはずです」
「なるほど! ありがとう、桐谷さん!」
としぴは、自然に言った。
この数ヶ月で“女の子として可愛い努力”を重ねたトシアキ課長は、もはや何も迷っていなかった。
帰り道。
夜風のなか、制服のまま社に戻る車中。
薄暗い車内で、ふとトシアキ課長が笑った。
「なあ、きよぴ。今日の営業……楽しかったな」
キヨヒコは、答えられなかった。
ただ、制服のスカートの裾をそっと握って、目を伏せる。
「……うん♡」
出た声は、自分の声じゃない気がした。
それは、“営業用魔法少女きよぴ”が返した声だった。
帰宅後、制服のまま玄関に立ち尽くした。
鏡の中。
魔法少女の服を着た、自分が、笑っていた。
目が、笑っていた。
唇が、“笑顔”になっていた。
でも、心の奥は、真っ白だった。
(いつから、“戻れない”って思ってたんだっけ)
そんな思考が、脳の奥をかすめて消えた。