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第3章:憧れの上司の滑落。としぴの誕生と死。

トシアキ課長が変わってから、1週間が経った。

ピンクの髪、ハートの瞳、小さな制服。

最初は「新しいプロモーション施策か」と驚き、笑っていた社員たちも、今では特に理由もなく、当然のように受け入れていた。


「トシアキ課長、今日もめっちゃ似合ってます〜! あら、リボンちょっとズレてますよ?」

「ありがとうございますぅ〜♡ これで大丈夫かなっ?」


受付を通るたび、そんなやり取りが耳に入ってくる。

明るい。朗らか。温度がある。

なのに――キヨヒコの首筋には、冷たい汗が流れていた。


 


この1週間、トシアキ課長は、まっすぐに“頑張っていた”。


営業としての基本を忘れていない。

商談の資料は整理されているし、説明のロジックも分かりやすい。

だが、問題は――そのすべてが“キャラ営業”という皮を被せられてしまっているということだった。


「……いやぁ、やっぱトシアキ課長、“営業っていうよりアイドルっすね!”」

若手社員がそう笑い、別の者が「推しが近くにいる会社ってモチベ上がりますよね〜」と続ける。

それを聞いたトシアキ課長は、「ありがとう……でも、営業内容もちゃんと覚えてね?」と微笑む。


冗談めいた口調ではあるが、その声の奥に――ほんのかすかに、にじむ“にがさ”を、キヨヒコは聞き逃さなかった。




例えば、会議室の一角。

社内プレゼンが終わった後、司会の部長が一拍おいて口を開いた。

「トシアキくんの資料、整理されてて良かったよ。あと……ええと……」

「はい……?」

「なんか……その……仕草とかも含めて、印象に残ったというか……ね?」

部屋の空気が微妙に揺れた。

誰もが、“資料”の話をしたかったのに、頭に残っているのは“ツインテールのアイドル課長”だった。



例えば、会議後の廊下。

すれ違った同期の男が、背中越しに言ったのが聞こえた。

「マジで、あれ営業って言えるのか……?」

「もうあれ、“企業マスコット”でしょ……けど、上が許してるなら、俺らがどうこう言えないか」

それを聞いた課長は、何も言わなかった。

ただ、小さく笑って、前を向いて歩いていった。




課長は容姿を自分と瓜二つにされてから、キャラクターしか見られていない状態になっていた。今までのマジメで理路整然とされたプレゼンを全く見てもらえなくなっていた。

キヨヒコはまだ呪いを自覚できているけれども、トシアキ課長は呪いを自覚できていない。

可愛く変わったのは当然であり仕方ない、その思いを抱えながら持ち前の真面目さでもがき続けている課長を見ているのは苦しかった。


その夜、キヨヒコはふと社内の予定表を見て、心がざわついた。

次の社内の定例プレゼンに、課長の名前がふたたび載っていた。


「……また、やるんだ」

キヨヒコは、自分でも気づかないうちに、拳を握りしめていた。

また、課長は部長らの前で聞いてもらえない説明を真剣にプレゼンすることになるのだろうかと思うと胸が痛んだ。


 

ーーーーー



翌日。昼下がり。

営業部の片隅、使われていない小会議室のブラインドがわずかに揺れていた。


キヨヒコは資料の返却に来たついでに、扉の前で足を止めた。

中から聞こえてくる、かすかな足音。

そして――「にこっ♪」という、甘ったるい声。


静かにドアの隙間から覗くと、そこにはトシアキ課長がいた。


ひとりきりの室内。

壁に立てかけられた姿見の前で、ツインテールを揺らしながら、何度もお辞儀の角度を確かめていた。


「おつかれさまでぇす♡ 本日は〜、リリ社よりまいりました〜♡ ……ふぅ……。はぁ……」

途中で言葉が切れる。

笑顔が崩れ、表情が曇る。


「……だめだ、なんか笑ってる顔、違うな……」

課長は、スマホを取り出して自撮りモードに切り替えた。

カメラに向かってウィンクをして、手を振って、そして、しばらく無言になった。


画面の中の“自分”を見つめる課長の顔に、苦笑が浮かぶ。

「……ほんとに、似合ってるのか……俺……」



その背中は、今にも折れてしまいそうだった。

けれど次の瞬間には、背筋を伸ばし、もう一度ウィンクの練習に戻っていた。


“努力している”。

必死に、“自分が変わった世界”に追いつこうとしている。


キヨヒコは、その場をそっと離れた。

声をかけることが、今は、どうしてもできなかった。




夕方。

課長はいつも通り、軽い声で笑っていた。


「今日は、ちょっとだけ“舌足らずな言い方”を試してみたんだけど、どうだったかな?」

そんな問いに、「可愛かったですよ!」と笑って返す新人社員たち。

だが、課長の笑顔は――ほんの一瞬だけ、曇っていた。


キヨヒコは、無言でスカートの裾を指で握った。

何も変えられないまま、ただ、“努力する地獄”を見せつけられているだけの自分が、たまらなく情けなかった。


 

ーーーーー



別の日の営業。

訪問先は、都内の小さな広告代理店。

リリ社のゲーミフィケーションツール導入に興味を持っているという話だった。


応接ブースには、ナチュラルウッドのテーブルとソファ。

窓からは柔らかな光が差し込み、空間は穏やかだった。


だが、空気は――最初から、少しだけ浮いていた。



「……では、弊社ツールによるユーザーエンゲージメントの維持率について、導入前後の事例をもとにお話させていただきます」

プレゼンを始めたトシアキ課長の声は、落ち着いていた。

いつものように、相手の目を見て、資料に沿って、真剣に話を重ねていく。


けれど、対面する担当者の目線は、明らかに課長の頬のあたりを漂っていた。

まるで、“言葉”ではなく、“可愛さ”の変化を聞いているかのように。



途中、課長は少しだけ喋り方を変えた。

語尾を柔らかく、トーンを甘く――きよぴのように。所作や振る舞いも、可愛いきよぴのように。

「……なので、今後の展開としては〜、よりポップなUI設計に“ゲーム性”を加味することで、御社の商材との親和性も――えっと〜……高まる、かと……思います、っ♪」

言い終えた瞬間、担当者の口元がわずかに緩んだ。


けれどそれは、商談への関心ではなかった。

“頑張って可愛く喋ってみせた姿”への反応だった。



キヨヒコは、隣で資料をめくる手を止められなかった。

プレゼンの内容は正確で、課長は真摯だった。

それなのに――クライアントの興味は、明らかにズレていた。


課長が話し終えた直後だった。

「いやあ……」とクライアントが声を漏らす。

プレゼンへの感想かと思いきや、次に続いた言葉はまったく別の方向だった。


「実は内容もすごくいいんですけど……ずっと気になってて……そちらのお二人、めちゃくちゃ可愛くないですか?」

「えっ……」

課長が一瞬、言葉を失う。


キヨヒコは、とっさに視線を落とし、太ももに置いた手をぎゅっと握りしめた。

喉がひゅっと詰まる感覚。

“内容”ではなく、“見た目”が話題にされる、いつもの空気。


「名刺、いただいても? きよぴちゃんって呼ばれてるんですよね? 実物のオーラ、すごいなあ〜」

担当者の声が楽しげに響く。


“ちゃん付け”。

営業の場で、“アイドル”のように消費される感覚。

キヨヒコの背筋が、ひやりと冷えた。


「うちのデザインチームにも、きよぴちゃんのファン多くて。インスタ、見てますよ。“営業なのにこのビジュアル”って、ずっと話題で……」

いつの間にか、資料も開かれていなかった。

会話は完全に脱線し、きよぴへの称賛ばかりが飛ぶ。

 

課長は、静かに微笑を浮かべていた。

それは、誰にも気づかれないように作られた“演技の笑顔”だった。

「じゃあ……ご検討のほど、よろしくお願いいたします……っ♡」


仕方なく、最後の一礼にほんの少し“仕草”を添えたキヨヒコに、拍手が起きた。

担当者は満足げに頷きながら、「また来てね、きよぴちゃん」と口にした。




帰りの電車。

ふたりは窓側の席に並んで座っていた。


課長は何も言わなかった。

けれど、膝の上に置かれた手が小さく震えていた。


「……今日のプレゼン、俺、頑張ったつもりだったんだけどな」

ぼそりと漏れた声は、電車の揺れに吸い込まれていった。


キヨヒコは、言葉を返せなかった。

“そこにいただけ”で拍手された自分。

“伝えたかったこと”が届かなかった課長。


どちらも事実で、どちらも逃げられなかった。

静かな沈黙のなかで、電車は、次の駅へと向かっていた。



ーーーーー



「――以上が、今週の訪問企業リストと現時点での商談進捗です。ご確認いただければと思います」

桐谷係長の端的な報告が終わると、会議室には短い沈黙が訪れた。


広告代理店との商談が失敗した後、課内の定例ミーティングに出席していた。先週までの進捗と今週の訪問予定の確認の小規模な打ち合わせ。



長机を挟んで並ぶ数名の課員たちは、皆うっすらと疲れていた。

トシアキ課長の失敗が続いていることを鑑みると、今日あった商談のプレゼンも、上手くいかなかったことは、誰の目にも明らかだった。


トシアキ課長もまた、資料の上に視線を落としたまま、数秒動かなかった。


ただ、その沈黙を破ったのは、課長自身の、明るすぎる声だった。

「ゴメンナサイっ♡ ちょっと急ぎの電話が入っちゃって……」

くるりとツインテールを揺らし、頬に手を添えるようなポーズで、課長は会議室を出ていった。


見慣れてしまったその“可愛い仕草”は、今日に限って、ほんのわずかに無理が滲んでいた。



「……小休憩、取りましょうか」

桐谷係長が淡々と提案した。誰に言うでもなく、誰も反対しなかった。


「あ、自分、お手洗いに行ってきます」

キヨヒコは椅子を引き、立ち上がった。

思考を整える時間がほしかった。あの空気の中に、これ以上いたくなかった。


小さな沈黙とともに、ドアが静かに閉まる。

廊下には、空調の音と、足音がやけに遠く聞こえていた。




男子トイレのドアを開けた瞬間、中にいたふたりの社員がピクリと反応した。

ちら、とこちらに視線が飛んで、すぐに笑いが漏れる。


「うわ、きよぴか。ビビった……女子がトイレ間違えて入ってきたのかと」

「今日のスカート、レース入ってるじゃん。ちょっとマジで女の子より気合い入ってんじゃんか〜」

「しかもニーハイ、黒。今日も殺しにきてんな……」

まるで呼吸をするように、自然に飛び交う“可愛い”の評価。

男子トイレという、最も男として機能すべき空間ですら、“きよぴ”という存在は異物にならないらしい。


キヨヒコは、いつもの笑顔で片手を上げ、小さく会釈する。

そして――何も言わず、個室に入った。



鍵を閉める音が、少しだけ重たく響く。

便座に腰を下ろした瞬間、スカートの裾が太ももにまとわりついて、ひやりとした感触が肌をなぞった。


(……また、ここだ)

個室。スカート。座っての用足し。

何年も、もうこれが当たり前になってしまった。


(俺……立ってトイレしてたの、いつまでだったっけ……。……“可愛い服を着たくなる衝動”なんて、ふざけんなよ……)

選んだわけじゃない。

なのに“選んだように振る舞ってしまう”。

呪いが浸食するのは、思考よりも早い反射だった。



個室の壁の向こう、洗面台のあたりで数人の足音が交差した。

ジャケットの布擦れと、蛇口の水音。

そして、何気ない――けれど鋭利な、会話。


「としぴ課長、最近なんか無理してない?」

「いや、わかる。俺もこの前プレゼンで見たけどさ、なんか笑顔がぎこちなくて……」

「最初は話題性あったけどな〜。“おっさんアイドル爆誕”って社内掲示板でめっちゃ盛り上がったし」

「でもやっぱ、本家のきよぴと並んじゃうと……な。レベル違うっていうか、うん、比べちゃって悪いけどさ」

「てか、あの人、普通にしてたときのほうが説得力あったよな。営業って“可愛い”だけじゃないじゃん」

笑い声が、タイルの壁を伝って足元に落ちる。

キヨヒコは、うつむいたまま息をひそめていた。


“比べて悪いけど”

“普通にしてたときのほうが”

言葉の端々が、心の柔らかいところを的確に突いてくる。


(……課長)

個室の中、視界の隅にある自分のニーハイソックスとフリルのスカートが、現実を突きつけてくる。


スカートを履くたびに、「男らしさ」から遠ざかっていく気がした。

けれど、自分が“褒められる”のは、いつだってその格好だった。


(あの人は、変わった……いや、変えられた。なのに、俺のせいで、比べられてる……)

罪悪感と羞恥が混ざって、胸の奥で泡立っていた。

もうとっくに泣くことすら癖になっていて、それでも涙は落ちてこなかった。


ただ、ひとつだけ確かなのは――

(俺は、こうして個室にこもって、他人の噂話から逃げることしかできない)


静かなフロアの中。

誰にも見られない場所で、キヨヒコは膝の上で拳を握った。

 


そして数分後。

扉の向こうの音が遠のいて、静寂が戻る。


深呼吸をひとつ、息を整えて。

彼はそっと立ち上がり、制服のスカートを整えた。

“可愛い”という呪いの装いを纏って、また“外”へ戻るために。


課内の定例ミーティングに戻ろうと足を進めた。



ーーーーー




別の日の午後の14時半。

外回りの営業から戻ったトシアキ課長が、無言でフロアに入ってきた。


社内に挨拶の声はなかった。

いつものように「ただいま〜♡」と軽く言うでもなく、靴音だけを控えめに響かせて、席に向かう。



その日の衣装は、地雷系アイドルの制服だった。

黒地にレースのフリル、赤いリボンとチョーカー、ぷっくりしたチーク。厚底の靴。

見る者を選ぶ、どこか病的な“可愛さ”の意匠。

制服というより、“甘くて尖った鎧”のような可愛い服装。


でも、その“可愛い”は、

今日の商談先では、一言も触れられなかったらしい。




「お疲れさまでした」と小声で声をかけると、課長は少し驚いたようにキヨヒコを見たあと、小さく笑って、頷いた。


けれどその笑みは、どこか“虚無”に近かった。

目の奥の光が、まるで消えかけたロウソクのようだった。



(……変だった)

ふだんなら、“どうだった?”と軽口を返してくる。

あるいは“今日は反応薄かったけど、次だな”と自分を鼓舞していた。


でもこの日は違った。



キーボードにも手を伸ばさず、ただデスクの前に座ったまま、何かを諦めるように視線を落としている。


「……あー……ちょっとごめん。お手洗い、行ってくる」

それだけ呟いて、立ち上がる。

手にしていたのは、小さな黒いポーチ。

アイドル営業用のコスメが入っているやつだ。


誰も引き止めなかった。

声もかけなかった。



キヨヒコは、その背中を見送りながら、拳を握っていた。


(どうして……)

あれほど真面目で、実績もあった営業のプロが、

“ただ、見た目が変わっただけ”で、誰にも耳を傾けてもらえないなんて。


あんなに準備していたプレゼン資料。

社内で何度も練習していた説明のトーン。

変わってしまった自分を活かそうと、鏡の前でリップの色を変えて試していた朝の姿――全部が、何の効果もなかった。



十分ほどして、課長が戻ってくる。

「……戻りました〜♡ ちょっとお手洗い長引いちゃって……」

声色は甘く、語尾にハートすら添えられていた。


でも――目元が赤かった。

地雷系の赤系メイクに紛れて、まぶたの腫れが、明らかにそこにあった。



(泣いてたんだ……)

キヨヒコは、椅子に座ったまま、動けなくなった。


周囲の誰も、課長の変化には触れなかった。

無視しているのではない。見えていないのだ。


“課長が可愛い”ことが当然すぎて、

“課長が苦しんでいる”という前提を持てない。


(俺が……変えたんだ。こんなふうに)

呪いの渦のなか、誰にも気づかれずに“壊れていく”その姿を、キヨヒコは黙って見ていることしかできなかった。



ーーーーー

 


翌日のお昼。

昨日の課長の落ち込みはなく、いつも通りの明るさを保っていた。


外回りから戻ったキヨヒコとトシアキ課長は、少し遅めのランチを取ることになった。

場所は、駅前の静かな喫茶店。ジャズのピアノが流れ、低い話し声と食器の音がほどよく混じっている。


課長は、ミルクティーに角砂糖を一粒落としながら、くすりと笑った。


「こうして落ち着いた店に来るの、久しぶりだな。キヨヒコ君は、こういうの好き?」


「……はい。静かで、ありがたいです」


最近はふとした時に落ち込んでいる様に見えるトシアキ課長がランチ時に少し気が緩んでいるのは嬉しかった。


会話がふと途切れたとき、課長はスマホを取り出し、画面を見てまた笑った。

「……あ、ちょっと見てくれる?」

差し出されたスマホの画面には――課長と、高校生くらいの女の子が並んだ写真が表示されていた。

ピンクのパーカーに、おそろいの猫耳カチューシャ。

メイクまでばっちり決まっていて、ふたりとも笑っている。


「あれ……娘さん……、ですか?」

「うん。高校2年の娘のフタバ。最近、“としぴ”って呼んでくるんだよ」

言葉の軽さとは裏腹に、トシアキ課長の笑顔には、どこか照れのような、誇らしさのような混じり合った光があった。


「この前なんて、“ママよりとしぴの方が可愛い”って言われてさ。どう返していいかわからなかったけど、すげー嬉しかったんだ」



課長は、娘のフタバと以前はあまり会話もしなかったらしい。

「反抗期かなって思ってたけど、ただ俺が距離を取ってただけかもな」

とぽつりと漏らして、またスマホの画面を見つめる。


「この頃は毎晩、服を選んでくれたり、リップ塗ってくれたりして……。 “としぴ、今日はラベンダーのチークね”って。……前の俺じゃ、想像できなかった」


キヨヒコは、ミルクティーを口に運ぶこともできなかった。

そこに写っていたのは、あまりにも自然で、楽しそうな“親子の写真”だった。

父親が、可愛くなっていく過程を――家族全員が無邪気に受け入れている現実が、静かに胸に突き刺さる。


「……よかった、ですね」

ようやく絞り出した言葉は、舌の上に苦く残ったままだった。



ーーーーーーーーー



喫茶店で写真を見せてもらった翌日。

その日も、営業から戻ってきたトシアキ課長の背中は、どこか疲れて見えた。

地雷系風のフリル制服、編み上げの靴、甘い色のチーク。

でもその“可愛い”が、もう“武器”にはならないのだという雰囲気が漂っていた。


キヨヒコは、別件でコピー室に書類を取りに向かう途中、

開きかけた小会議室の前で、思わず足を止めた。



「……やっぱり、全然駄目だったよ。ちゃんと資料も整えてたし、言い回しも変えたのにさ。なんか、空気に負けてる感じがするんだよね……」

中から、課長の声が聞こえる。


ガラス越しに覗けば、向かいに座っていたのは桐谷係長だった。

黒縁眼鏡に、整えられたシニヨン。営業一課の係長で、資料精度にうるさいことで有名な人だ。いつも冷静で、感情を表に出さない。だが数字の裏付けがあれば、相手が誰であれ納得する。それが桐谷係長のスタンスだった。



「……最近、きよぴの所作をちょっと真似てるんだけどね」

課長が、笑うように呟く。

「営業のとき、少しだけ首を傾けてみたり、声のトーンを上げてみたり……。正直、恥ずかしくて仕方ないけど、あいつはそれをずっとやってるんだよなって思うと、何かしないとって思って……」

その声は苦笑のようで、どこか寂しかった。


桐谷係長はしばらく無言で画面を見つめていたが、やがて低い声で返した。

「成約率を見れば、キヨヒコさんと同行した案件は、他の三倍を記録しています。課長の“言葉”が通じていないわけではありません。ただ、“どう見せているか”が変わっただけです」


「……どう、見せてるか」

課長が繰り返す。


「“営業”とは、信頼の演出です。内容ではなく空気の支配です。今の社会は、関係性と印象で反応する。特に、あなたの“今の外見”は――話す内容より先に、期待値を生む」

課長はしばらく黙って、うつむいた。

ツインテールの影が、肩に触れる。


そして、静かに口を開いた。

「……それでも俺、キヨヒコ君と一緒のときだけは、“営業してる”って感じがするんだ。伝わってるかは分からないけど、あいつの隣で、せめて俺も“役に立てたら”って思ってる。……たぶん、それしかできないから」



その言葉に、桐谷係長は視線を上げた。

「“できること”を正しく定義すれば、それは武器になります」

「……うん、そうだな」



扉の外、キヨヒコは息を詰めて、じっと立ち尽くしていた。

課長の苦悩と努力が、自分の知らないところで積み重ねられていたこと。

それを、誰かがちゃんと見てくれていたこと。


そのふたつの事実が、交差するように胸に刺さった。



ーーーーーーーーー

ーーーーーーーーー



盗み聞きをしてから数日後。

 

応接スペースに広がるのは、柔らかな午後の日差しと、観葉植物の影が揺れる静寂。

木製のローテーブル。シンプルな商談資料。コーヒーの香り。

完璧に整った、いつも通りの訪問先。久々の課長との営業同行。


……いつもの商談となるはずだった。

この時の営業が自分の生活の歯車をまた一段と壊れていく原因となった。




「はい、それがこちらのデータになります。もしご不明な点があれば――」

トシアキ課長が、慣れた調子で説明を進めていた。

キヨヒコは、その隣でにこやかに微笑みながら、相槌を打つ係。


そんな中、机の上の資料が、風に煽られてふわりと床に滑った。


「あ、すみません……。拾います」

キヨヒコがすぐに腰を浮かせ、手を伸ばす。


そのときだった。

テーブルの角に足をひっかけ、バランスを崩す。


「――っ」

咄嗟に身体が倒れ、床に手をつくよりも早く、

誰かの腕が、背中にまわった。




「……っ、大丈夫っ……?」

優しくて、甘くて、けれど、まっすぐな声。

聞き慣れたはずの課長の声が、今だけやけに近い。


気づいたときには、ソファのクッションに押し倒されるようにして、キヨヒコの上にトシアキ課長が覆いかぶさっていた。


制服の胸元が、触れている。

腕と腕が交差し、トシアキ課長の頬が、キヨヒコの額すれすれの距離にある。まるで恋人と恋人が愛を確かめ合うような距離感。


(……ち、か……)

呼吸が、ふたりの間で溶け合っている。

少しでも動けば唇が触れてしまいそうな距離。

心臓の音が、互いに聞こえてしまうくらいの、密着。




何秒が経ったかもわからなかった。



その瞬間、

「……はっ……ひぃ~~~~~~~~~ん!!!」という奇声のような絶叫が、商談相手から飛んだ。


バンッと机を叩き、相手が立ち上がる。


「今の……今の何!? 最高だったんですけど!? えっ、何あの構図……キス寸前!? ふたりってそういう……!? 百合!? 百合なの!?」

「えっ、い、いやっ……ちが……っ」

「違わないで! あれはもう百合です! 百合ですよね!? わたし、今この目で見たんですよ……としぴが、きよぴのこと……!」

「ま、待ってくださ……っ、ち、違……ッ!」


商談相手の興奮は止まらない。

資料をかき集めながら、まくし立てるように言葉を継ぐ。


「すみません、今日の打ち合わせ、もうこれ以上ないです! としぴさん! 契約書、持ってきてください。……あと、追加発注もします!」


 


トシアキ課長とキヨヒコは、押し倒しの構図のまま、顔を真っ赤にしたまま固まっていた。


見つめあえば赤面し、目を逸らせばその頬の熱が伝わる。

可愛い仕草なんて、しようとしてないのに、“羞恥”が勝手に空間を甘く、熱く、彩っていた。




「……失礼しましたッ……!」

ガタン、と音を立てて立ち上がったトシアキ課長は、キヨヒコの肩を軽く支えながら、慌てて姿勢を正した。


けれど、すでに遅かった。


商談相手――IT事業部の若手女性マネージャーは、目を爛々と輝かせていた。

頬は上気し、手帳に「百合の瞬間を目撃」とメモしているのが見える。


「いやあ……素晴らしい。尊い。しかも制服おそろい。先輩後輩? いや、違う……これはもっと深い。“距離感を詰めすぎた、業務上の信頼関係から生まれる感情”……ですよね? わかります!」

「ち、違……あの、業務上の……!」

「違わないで! きよぴが照れた顔してたの、わたし、見てましたから!」



課長は慌てて資料を整えようとしたが、手元が震えているのがキヨヒコにはわかった。

そして――自分自身も、頬が熱くて、トシアキ課長と視線を合わせられなかった。


顔を赤らめ、身を縮こめ、うつむいた自分に対して、

「……あ、やっぱり可愛いですね、その照れ顔……」と褒められてしまったとき――

体の奥から、さぶいぼのような震えが這い上がってきた。




商談終了後、エントランス前のビル風が、やけに冷たく感じられた。


「……さっきの……本当に、すまなかったな」

課長が少し背を丸めて謝る。

「いえ……ぼくの不注意でしたし……」

「でも、驚いたな。あれで契約、しかも追加発注まで……」


課長の声が、乾いた笑いを帯びる。

けれど、そこに“安堵”の色は薄く、むしろ何かを見てしまったような困惑の静けさが混じっていた。


ふたりは、しばらく無言で歩いた。

まるで、恋人同士が事故的なキス未遂をしてしまったあとの、沈黙のような時間。


だがその沈黙は、ビジネスの皮をかぶった地獄の始まりの音だった。



ーーーーー



「――俺から、お願いがあります」


営業1課の小さな会議室。

ホワイトボードには「週次営業報告」とだけ書かれた、いつもの定例ミーティング。

けれど今日は、いつもと空気が違った。


トシアキ課長が、頭を深々と下げていた。

「……先週からの営業成績、俺の数字が足を引っ張ってるのはわかってます。誠に申し訳ございません。でも……起死回生の手が、あるかもしれません」


ざわり、と室内の空気が揺れる。


キヨヒコは、会議机の端で小さく息を飲んでいた。

トシアキ課長のその姿を、見たくなかった。

見たくなかったのに、目が離せなかった。



「先日、ある商談で“偶然”が重なって、契約と追加発注をいただきました。……そのときの構図が、“百合営業”と呼ばれるものに近かった、と……」

社員の数人が、意味を理解していないような顔をした。

だが、1課の一員の桐谷係長は静かにモニターのスライドを切り替える。


「商談のボイスレコーダーを分析しました。こちらがその瞬間の反応曲線と、CV発生タイミングのグラフです。“ふたりの至近距離・照れ・見つめ合い”が発生した数十秒後に、契約成立に直結しています」

パチン、とリモコンの音が響く。


「過去の営業記録からも、似たような構図が成果に結びついている例が複数あります。仮説として、“視覚的な物語性”によって顧客の関心が深まり、商談内容の吸収率も上がる――ということが考えられます」

「物語性って……つまり?」

「“百合”です」


桐谷係長の声に、冗談めいたニュアンスは一切なかった。

数字と理論が整えられた、“正当な営業戦略”としての発表だった。



「俺も……最初は戸惑ったけど、現実を見て、そう感じたんです。 だからお願いがあります。キヨヒコくん、桐谷係長――」

課長は、もう一度、腰を折った。

「――この、“百合営業プラン”に、協力してほしい」



課長の頭が深く下がったまま、数秒の沈黙が流れる。

重い――はずの空気は、なぜかあっさりと破られた。


「百合……営業……?」

若手社員がぽつりと口にする。


桐谷係長が即座に補足を入れる。

「先輩後輩、同僚、上司部下といった立場を横断する“感情的距離の近さ”を示す演出です。“相手を想っている”という暗示によって、商品やサービスへの信頼性が高まる傾向があります」

パチン、と次のスライドが表示される。


そこには、“微笑みながら指を絡めている”ふたりの写真。

課長と――キヨヒコだった。

あの“押し倒し事故”の直前、わずかに撮られていた一瞬を、営業先がSNSにアップしていたものだった。


コメント欄は、バズっていた。

《この二人可愛すぎる!》《営業じゃなくてカップルじゃん》《新時代の営業戦略》《リリ社って最高》



「……で、でも、それって……ぼくたち、そもそも……!」

キヨヒコの抗議を遮るように、課長が資料を差し出してきた。

A4の紙に、ピンク色のペンで手書きの文字。


《としぴ特製☆きよぴとの百合えいぎょうぷらん♡》

表紙には、ハートのシール。

星とリボンで囲まれた文字が、ふるふると揺れる。


「俺なりに、考えてみたんだ。例えば、出会い編、すれ違い編、再会して抱き合う編……最後は、“一緒に頑張ろっ”って言い合うんだ」

「課長……」

「いや、冗談っぽく見えるかもしれないけど、本気でやろうと思ってる。これで成果が出るなら、俺、いくらでもやるよ。今さら、格好悪いとか、どうでもいいからさ」


誰も笑っていなかった。

誰も責めてもいなかった。

全員が、“納得していた”。


“この姿”のトシアキ課長が、“可愛いまま努力している”姿に、

誰も違和感を覚えなくなっていた。


キヨヒコだけが、動けなかった。

声も出せず、紙も受け取れず、

椅子の上で、ただ手を握って俯いていた。


――これは、決定なのだ。


自分が嫌悪した“可愛さ”が、

尊敬する人の“努力”として受け入れられていく。


しかも、“売れる”という理由とともに。


としぴは笑っていた。

「ありがとう、きよぴ。これから一緒に、頑張ろうな」


その言葉が、甘く響いた分だけ――

キヨヒコの耳の奥で、何かが軋んだ音がした。



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