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第2章:“可愛い"以外を見てくれる場所。理想の上司。

 桜の咲く季節をとうに過ぎ、湿気を孕んだ初夏の風が、通勤路にまとわりついていた。


“入社から6カ月目”。

リリ社の正社員としての半年間の仮配属期間が終わり、今日から本配属という節目の日だった。

だが、キヨヒコにとっては、制服も、見た目も、周囲の評価も、何ひとつ変わらない。

ピンク髪のツインテールに、企業ロゴ入りの可愛らしい制服。歩くだけで「きよぴだ♡」と振り向かれる日常が、当然のように続いていた。


ただひとつ違ったのは――今日から、自分の直属の上司が変わるということだった。


 


「君が……キヨヒコくん、で合ってるかな?」

課長席の向かいに通されたキヨヒコに、声をかけてきたのは、背筋の伸びた男性社員。

歳納トシアキ。通称トシアキ課長。黒縁メガネに落ち着いたグレージャケット、ネクタイはきちんと締めてある。

資料に目を落とす視線も、姿勢も、ひとつひとつに無駄がなく、それでいてどこか“優しさ”のにじむ所作だった。


「はい♡ あっ……はいっ、よろしくお願いしましゅ……ッ、……しますっ」

最初の語尾が甘く崩れたのを自覚して、慌てて言い直す。

声の調子が勝手に跳ねてしまう。

言葉の甘さが口から出た瞬間、背中がゾワッとする。


だが、課長は何も言わなかった。

顔色を変えるでもなく、聞こえなかったふりをするでもなく、

ただ自然に「よろしく」と言って頷いた。


その瞬間、心が少しだけほぐれた気がした。




デスク周りを案内され、朝礼にも同席した。

営業1課のメンバーは、他部署に比べて落ち着いた雰囲気があった。

「きよぴ〜!」と駆け寄ってきた社員はいなかった。

代わりに、「あ、配属された子ね」と、普通に会釈されただけだった。


それが、こんなにも救われることだとは思わなかった。




午前中の業務は、取引先との過去契約データの整理だった。

紙の請求書をスキャンし、日付・金額・担当者名をExcelに打ち込む。

地味で、単調で、だが正確さが求められる作業だった。


キヨヒコは黙々と取り組んだ。

指先だけが、ぱちぱちと音を立てていた。


ツインテールが肩に揺れるたび、スカートが椅子で折れるたび、羞恥は波のように押し寄せたが、“数字で貢献できる仕事”に没頭している間だけは、少しだけその波が遠のいていた。



昼前、ふと横から声がかかった。


「……キヨヒコくん、入力データ、ここまでで確認してみてもいい?」

“くん”と呼ばれた。

それだけで、胸が少し、痛くなった。


課長が横に腰を下ろし、プリントアウトした資料と画面を照合する。

指の動きは静かで、的確だった。


「丁寧だね。数字の区切り方、センスある。これ、自分でフォーマット直したの?」

「あっ、はい……使いにくかったので……」

「なるほど。変えるときは、一応報告してね。でも、いい判断。あとでそのテンプレ、チーム全体に回してもらいたいから、桐谷係長に見てもらっていい?」

その瞬間、キヨヒコの中で、何かがきゅっと締め付けられた。


可愛いからでも、目立ったからでもない。

ただ、自分の判断と作業精度が評価されたという、その事実に。




昼休み。

社内の休憩ラウンジに人がまばらになったころ、課長がトレイを持って隣の席に腰を下ろしてきた。


「この席、いいかな?」

「は、はいっ……あ、どうぞ……!」

反射的に声が高くなりかけたのを抑える。

いつもの“可愛い営業ボイス”が出そうになるのを、喉の奥でぐっと押し殺す。

課長は特に触れもせず、ただ静かに弁当箱のフタを開けた。


会話は、天気の話から始まった。

今日は蒸し暑い、とか、エアコン効きすぎだね、とか。

本当にどうでもいいような、けれど“日常”として成立している会話だった。


「そういえば、キヨヒコくんって……開発職、志望してたって聞いたんだけど」

そう言って、課長が水を飲みながら口元を拭った。


「えっ……あ、はい。最初は……そっちのエントリーしてたんですけど、なんか、途中から変わってて……」

「途中から?」

言いかけて、口を濁す。

履歴書の改ざん。それが“誰によって”なされたかを、ここで言うつもりはなかった。


「まぁ、でもそっちだと競争倍率高いからね。なかなか大変だったんじゃない?」

そうフォローする課長の声は、どこまでも自然だった。



「今でも、ちょっとずつ勉強してるよ。っていう話、耳にしたけど」

「……はい。あの、独学ですけど……Pythonとか、簡単なやつだけ……」

言葉が小さくなる。

“可愛くてピンク髪のツインテールの自分”が、“開発”なんて単語を口にすることが、妙な違和感を持たれてしまうのではという不安が、まだ根強く残っていた。


けれど、課長は頷くだけだった。

「ちゃんとやってるんだ。すごいよ。俺、そこまでは手が回らないもんな」

「いえ……本当に初歩だけで……」

「でも、業務効率化系のスクリプトとか、今後チームで重宝されると思う。向いてるかもね」

“向いてる”。

その言葉が、思っていた以上に重く響いた。


誰からも“可愛い”としか言われない半年だった。

営業としての評価は、いつも外見の“インパクト”に紐づいていた。


でも今、ただの“中身”を見て、評価してくれた人間がいる。

そのことが、なによりも救いだった。



昼休みが終わり、午後の入力作業に戻る。

パチパチと鳴るキーボードの音は、どこか軽くなった気がした。

視線の先にあるのは、ミラー越しのツインテール。ハートの瞳。制服のピンク。どこを切っても“アイドル営業”の姿。


でも今、少しだけ――“人間”として過ごせた時間があった。

キヨヒコは、自分の頬が自然とほころんでいることに気づいて、驚いた。

この笑顔だけは、少しだけ――自分で出したように感じられた。



ーーーーー



「じゃあ、行こうか。名刺と資料、持った?」

「はいっ……!」

今日は、トシアキ課長との初めての外回り。

客先は中小のソフトウェア開発会社。アプリ導入に関する見積りのすり合わせが主目的だが、「アイドル営業部」の看板はそのまま。

もちろん、制服も、髪型も、声も――“きよぴ”の仕様である。


ビルの前で一度深呼吸をする。

自然と足元が内股になっている。

手元の書類を確認しようとすると、リボンの端がひらりと舞って視界に入った。


(……無理だ、また……)

だが、課長がふと横で微笑む。


「緊張してる? 大丈夫、俺が話すから。キヨヒコくんは、普通にしてくれてればいいよ」

“普通に”。

それが、この身体で、この声で、どれだけ難しいことか。

でも、課長が悪気なくそう言っているのは分かった。


エレベーターを降り、応接室に通される。

「おお……うわ、本物だ……」

応接の相手は、開発部長と人事課の社員2名。

その全員が、資料ではなく“キヨヒコ”を見ていた。


視線が刺さる。

だが、身体は自然に動いてしまう。


「ご挨拶させていただきましゅ……♡ 本日はぁ、リリ社よりまいりまちた、きよぴ……でしゅ……♡」

声が跳ねる。

語尾が伸びる。

スカートの裾が、自然に揺れる角度で座る。


部長が「いや〜やっぱ可愛いな!」と笑い、人事課の女性が「ほんとに男の子なんですか?」と驚いている。

キヨヒコは、何も返せなかった。

勝手に、にっこりと笑顔を浮かべた。



でも隣では、課長がまるで当然のように振る舞っていた。

「そうなんですよ、可愛いでしょ? けど見た目だけじゃないんですよ、こいつ。やるときゃやるんです」


“こいつ”。

その呼び方が、変に心に刺さった。

「きよぴちゃん」でも、「営業アイドル」でもなく。

単なる「部下としての呼称」。


課長は、そのまま資料を広げて淡々と説明に入る。

いつものように、商談は真面目に、まっすぐに進んでいった。




キヨヒコはその隣で、視線を浴びながらも、補足資料をタイミングよく出し、価格説明の表を提示し、担当の名刺と共に最新の導入事例を手渡した。


可愛い声が、いくつかのセリフを飾った。

けれどその奥には――商談を成立させるための、冷静な気配りと、構成された段取りがあった。




帰り道の電車の中。

車内の中吊り広告に、リリ社の“アイドル営業紹介記事”が貼られているのを見て、キヨヒコはそっと視線を逸らした。


「さっきの商談、助かったよ」

ふいに、隣の席の課長がそう言った。


「タイミングよく事例出してくれたの、かなり効果あった。向こう、あれで乗った感じだったね」

「……い、いえ、あの……」

キヨヒコは、素直に受け止められなかった。

口元が震える。

思わずスカートの端を指先で握る。

「それに、プレゼン中の笑顔。自然に出てたでしょ。無理してなかったっていうか、場に合ってた」

「えっ……」

「いや、これ褒めてるんだよ。俺、ああいうの狙ってやれって言うつもりはないし、できる人間が、自然にそう振る舞えるってのは、才能だと思う」

キヨヒコは、うつむいた。

照れでも感謝でもなく、耐えていた。


“自然”なんかじゃなかった。

体が勝手に動いて、声が甘くなることに、どれだけの苦痛があったか。

けれど課長の声は、穏やかで、真っ直ぐだった。



「もし、開発側で空き出たら、君の志望も一度話してみるよ。とはいえ、営業でも充分やれてると思うけどね。数字にも、内容にも、真面目さが出てる」

“内容にも”。

その言葉だけが、深く胸に刺さった。


今まで、“可愛いから”“目を引くから”としか言われなかった。

それが武器だと言われるたび、心が削れていった。

でも今――


「ありがとう……ございます」

キヨヒコは、ほんの小さく、それだけを返した。


電車の窓に映った自分の顔は、ツインテールで、ハートの目をしていた。

それでもその頬には、少しだけ、照れたような色が差していた。

“今だけは”、自分のままでいられる気がした。



ーーーーー


配属から数日。

トシアキ課長の元で働く日々は、奇跡のように穏やかだった。


朝、課長は「おはよう」と言い、キヨヒコは「おはようございます」と返す。

そのやり取りだけで、心がふっと軽くなった。

半年ぶりの、“普通の言葉”を交わせる場所。

それが、たまらなく嬉しかった。



課の中では誰も、「きよぴ♡」などと軽々しくは呼ばない。

呼ばれるのは、“早乙女くん”か、“キヨヒコくん”。

ただ名前を、当たり前のイントネーションで呼ばれるだけ。

それだけのことなのに――息がしやすくなる。



作業中、トシアキ課長が席を回ってきた。

「この資料、まとめ方うまいね」

「数字の並べ方、癖はあるけど……これは“読みやすい癖”だ。見た人の目線で作ってるな」

そんなふうに、キヨヒコの仕事を“性格”として見てくれる。

誰も、“可愛いからよし”とは言わなかった。



「グラフの色、揃えた?」

「はい。プロジェクタ越しで見やすいように、青系に統一しました」

「……なるほど。地味だけど、見やすいね。気づいてもらいにくい工夫って、結構偉いことだよ」

頷いてくれたのは、課のベテラン男性社員。

いつも冗談ばかり言っている人なのに、その言葉は真面目だった。


「ただ、ここの余白、甘い。詰めすぎて読みにくい」

別の席から、すっと入ってきた声。桐谷係長だった。

視線は資料の上から動かず、表情も変わらない。だが、続く言葉には――確かに“見ていた”重みがあった。


「……でも、全体としては整理されてる。手順通りじゃなく、自分なりに考えたんだね」



一瞬、キヨヒコの指先が震えた。

“可愛い”じゃない部分で、

“目立つ”以外の価値で、

誰かの視線が自分に向いている。


「フォント、本文と注釈でサイズ変えてるの、わざと?」

声をかけてきたのは、三年目の女性社員だった。

プリントアウトした資料をパラパラとめくりながら、首をかしげる。


「あっ、はい……。注釈は小さく、でも視認性は保てる範囲にしてます。主文との区別をつけたくて……」

「へぇ、いいね。読みやすかったよ。でも、それなら注釈番号も、もっと控えめなトーンにしてみたら?」

「……なるほど、試してみます」

「うん、次回バージョン、楽しみにしてる」


その声には軽さもあったけれど、どこか“本気で期待している”温度もあった。

会話に混じるその何気ない視線のひとつひとつが、心を撫でていく。



「ていうか早乙女くん、Excelの関数、独学?」

「……いえ、少しだけ、独学で……」

「わぁ、マジか。ピボット使ってこの仕上がりは、なかなかやるな〜」

隣の席の男性社員が、感心したように唸る。

「でもさ、式のコメントアウトしといてくれると、後の人助かるかも。自分の式、自信あるやつほど、残しといた方がいいよ」

それは、まるで“技術屋”の会話だった。


可愛さも、キャラも、そこにはなかった。

ただ、ひとりの新人として、仕事を語り合っていた。



“こんな空気、あったんだ”

そんな思いが、キヨヒコの中に、ふと湧いた。


ずっと、“外の社会”では、自分の存在そのものが“可愛い”という記号に飲み込まれていた。

なにをしても、“見た目に付随したキャラクター”で処理されていた。


でも――この課だけは違った。



昼休み、コーヒーを淹れに行った帰り。

席に戻ると、デスクの端に資料が一枚だけ置かれていた。

表紙の右下に、小さな付箋。

『ここの比較表、整理の視点が良かった。

 今後、汎用テンプレにする案が出ています。桐谷』

整った手書き文字ではなく、機械のように無機質な字体だった。


けれど、胸の奥がぽっ、と温かくなった。

“仕事”を“道具”として見てくれている。

自分の工夫が、誰かの中で“参考”になる――その可能性に、救われるような思いがした。


 


そんな空気に包まれていたからこそ、

キヨヒコは、課の外に出るたびに感じる“異物感”に、強く気づくようになっていた。


廊下ですれ違った、他部署の社員。

「今日のリボン、でかくなってない? マジ映えしてる」

「笑顔の角度、神がかってたわ〜。アイドルかよ、マジで」

そう言って笑いながら去っていった人たちは、

誰ひとり、“資料作ってたキヨヒコ”を見ていなかった。



給湯室では、若手社員にこう言われた。

「……ほんとに男なんすよね? それであの感じ……最強っすよ」

“何が?”と聞き返す勇気は、もう持ち合わせていなかった。

ただ、スカートの裾を握りしめたくなる衝動を――

キヨヒコは、なんとか押し殺した。



“あたりまえの笑顔”を作れるようになっている自分が、一番怖かった。

作業中は平静を保っていても、そういう時、心の底に黒いものが渦巻くのがわかる。


でも――それを抱えても、前に進める気がした。

この課だけは、まだ、自分を“人”として見てくれる。





その日の午後。

課長がふいに、キヨヒコの隣で立ち止まった。


「来週の会議資料、次回はキヨヒコくんに一部任せてみようか。この前のまとめ方、チーム全体からも評判良かったし」

「えっ……!」

一瞬、心臓が跳ねた。

椅子の背もたれに寄りかかることさえ忘れて、思わず背筋が伸びた。

“可愛い”でも“癒し”でもない。

“会議資料の構成力”として、自分が見られている。


「初めてだと大変かもしれないけど、サポートは俺がつくから。遠慮せず言っていい」

「……あ、はいっ……ぜひ……やってみたいです」


言った瞬間、自分の声がほんの少しだけ震えていた。

でもそれは、怖さじゃなかった。

“やってみたい”と思える仕事に、今、出会えた。


それは、呪いによる強制じゃなかった。

自分の“欲”が、生きていることに――気づいてしまった。




その晩。

久々に“自分のために働いた”という手応えを胸に、キヨヒコはベッドに倒れ込んだ。

制服のまま、まだメイクすら落としていない。

なのに、体が少しだけ軽かった。



課長の言葉。

「やってみたいです」と口に出せたこと。

桐谷係長の無表情な“認知”。

課のメンバーの、まっすぐな視線と助言。


“可愛い”じゃない自分が、

誰かの役に立てるかもしれないという感覚が――こんなにも救いだったなんて。




目を閉じる。


そのまま、深く眠りに落ち――

次に目を開けたときには、あのテーブルの前だった。


ーーーーー

 


「ひっさびさ〜!」


聞きたくなかった声。

見たくなかった顔。


だが、それは容赦なく目の前にいた。

ソファの向こうで足を組む少女。飴を転がすような喋り方、そして、心底楽しそうな笑み。


「ねえねえ、“キヨヒコくん”って呼ばれて嬉しかった? “仕事”で褒められて、役に立ってる感じしちゃった?」

「…………なんの、用だよ……」


口の中が乾く。

さっきまで灯っていた希望が、声帯を通るたびにひび割れていくのがわかった。


「“アイドル営業部”の活動が可愛かったから、会いたくなっちゃた〜」

テーブルの上に広げられたのは、SNSのスクリーンショット。

「今日のきよぴ、資料出すときの手つき可愛すぎ」

「横にいたオジサン、たぶん上司? きよぴと並ぶと影だな」

「マジで男? ヤバ……推せる」


全部――直近の出来事だった。


「君が“仕事できてる”って思ってる間にもね、社会はちゃんと、“きよぴの可愛さ”を楽しんでるよ? 安心して♡」



キヨヒコは、怒鳴れなかった。

睨みつけることもできなかった。


ただ、そこに座っていた。

今の自分が、“何によって生かされているのか”を、あらためて見せつけられていた。



「……あ、そうそう。半年も、アイドル営業部を頑張ったご褒美、あげるよ」

何気なく、そう言ったイヅミの口元が、ぐにゃりと歪む。


「“特別ボーナス”、あげるね♡ 君の周囲、もっと楽しくしてあげるから♡ あの課長さん、いい人そうだったし、見てて面白くなりそうだし♡」

呪いを表すかのような紫色の煙が現れる。その煙は空高く飛び上がって霧散した。

 


その言葉の意味を理解する前に――

夢の中で、キヨヒコは立ち上がって叫びそうになった。


けれど、視界がノイズで満ちて、

床が崩れ、

全身が落ちるような感覚に包まれた。


ーーーーー





「“特別ボーナス”、あげるね♡」

夢の中でイヅミが言ったその言葉は、目覚めてもなお、耳にこびりついていた。

起き上がった瞬間、嫌な汗が首筋に張りついている。


(……なんだ、あれ……あいつ……何を……)


いつもなら、寝起き一番の“おはよぉ〜♡”という甘い言葉が自分の口から勝手に出てしまう。

だが今日は、その前に、胃の奥から突き上げる不快感が先に来た。


着替える手が震える。

スカートが揺れるのが不快だ。揺れるツインテールが不快だ。鏡の中の自分のハート型の瞳孔が嫌いだ。日常的に感じる自身への不快感が今日はことさらに強調されている気がした。


嫌な予感がした。

何かが、もう戻らない予感がした。



駅までの道すがら、見慣れた視線がいつも以上に多い気がした。

カフェの窓際でモーニングを取っていたOLの視線。

すれ違うサラリーマンのささやき声。

何かが、いつも以上に“注目されている”感覚。


スマホでニュースをチェックするフリをしながら、電車の窓に映る自分を盗み見る。髪はピンク、ツインテール。目はハート。スカートは短く、笑顔は――貼りついている。


(……気のせい、だよな)


 


会社のビルに入った瞬間、いつもと違う、ざわついた空気を感じた。


エレベーターホールからフロア全体まで、異様に騒がしい。

社員たちが集まって何かを話している。


「えっマジ?」「ほんとに?」「信じられない……でも、似合ってる」

その言葉を追いかけるように、廊下の向こうから聞こえる、妙に甘く、高い声。



「おはようございま〜すっ♡」

キヨヒコの足が、止まった。


聞き間違えじゃない。

間違えようがない。

その声は、間違いなく“自分と同じトーン”で発されていた。


歩いてくる足音。

小刻みで、軽いステップのようなテンポ。

制服の生地が擦れる音。リボンの揺れる気配。


角を曲がったその先で、キヨヒコは“自分”と鉢合わせた。



白とピンクの制服。企業ロゴ入りのフリルブラウス。

ふわっとカールされたピンク髪のツインテール。

身長140cm。ハートの瞳。アニメキャラのような小刻みな身振り。


だけど、その雰囲気は――確かに、“トシアキ課長”だった。

「おはよう、キヨヒコくん♡ 今日から一緒にがんばろうねっ♡」



「……か、課長……?」

キヨヒコの声は、喉の奥で震えていた。

そしてその問いかけに、目の前の“小さな女の子”のような姿をした課長が、屈託なく頷く。


「うん。トシアキだよ、キヨヒコくん! なんかね〜、今日からこの制服で来てって言われてさ。最初ビックリしたけど……でもほら、意外と動きやすいなって思って!」

笑っている。

変わったのは身体だけで、声色も、口調も、“いつもの課長”のまま。

なのに、声は高く甘く、手元の所作は小さく、首をかしげて微笑む仕草はキヨヒコそっくりだった。鏡写しのようだった。


制服は、キヨヒコが配属当初に着ていた“旧デザイン”。

胸元のリボンはやや控えめで、スカートの裾もわずかに長い。

そう、まさに“入社当初の自分”のコスプレを見せられているような――そんな錯覚。


「……変じゃないかな? いや、ちょっと恥ずかしいとは思うけど……これ、今のうちの“戦略”なんでしょ?」

恥ずかしいと“自覚”はある。

でも、“だからやらない”とは言わない。

ちゃんと会社の方針として、受け入れて、理解して、努力しようとしている。


「キヨヒコくん、今までこの姿で営業やってたんだよね。……本当に、尊敬するよ。俺も……これからは、頑張らないとね!」

拳を握って、にこっと笑う。

ツインテールが揺れた。


周囲から声が上がった。


「トシアキ課長、可愛すぎる〜!」「としぴ、制服似合ってる!」「もう完全に、うちの二代目アイドルだわ!」


同じ課の社員までもが、「課長、写真撮ってもいいですか〜」とスマホを向けてくる。

かつて“真面目で堅物”だった彼らの口から、「課長が今日もキラキラしてて尊敬します!」という言葉が飛び出す。


キヨヒコの中で、胃の奥から冷たい泥が逆流する感覚。


誰も止めない。

誰も疑問を持たない。

みんなが、「これが正しい」と思っている。


 

「さ、じゃあ今日もよろしくねっ!」

手を振る動作が、完全にアイドルの振る舞いだった。

体が勝手にそう“可愛く動く”ように、作り替えられているのだと、キヨヒコにはわかっていた。


そして――

それにまったく違和感を抱かない“トシアキ課長”自身の無垢さこそが、最大の地獄だった。





午前10時。

今日は営業1課による定例社内プレゼンの時間だった。


会議室には他部署の社員や新入社員が集まっていた。

いつもなら、きよぴの存在を「華」として、周囲が適度に騒ぐ程度。

だが今日は――視線の熱が、明らかに二分されていた。


「え、あの子、誰?」「新しいアイドル営業?」「え、課長なの……?」

キヨヒコの隣で、トシアキ課長が資料を操作しながら、やや緊張した様子で立っていた。

いや、緊張というよりも、“頑張ろう”という気持ちが空回っているように見えた。


プレゼンが始まる。

資料の構成は完璧。話の筋も論理的。

だが――


「えっと、こちらがぁ……導入実績の一覧になってまぁす♡」

小首をかしげ、指先をぴんと立ててスライドを示す課長の仕草。

声が上ずり、語尾が自然と伸び、時折手を胸元に添えるような動き。

それはまるで、“どこかで見たアイドル営業のロールプレイ”だった。


“きよぴ”の。

キヨヒコの、それだった。


観客席に座る新入社員たちがざわつき始める。

「かわい〜」「なんか練習してきた感ある」「トシキア課長も、としぴって呼んだらレスくれるかな?」


「課長〜! ウィンクくださーい!」

「ツーショ撮ってくださーい!」

プレゼンの途中にも関わらず、まるでファンミーティングのような騒ぎが広がる。


トシアキ課長は一瞬困惑したように眉を下げるが、

そのあと、素直に――ほんの少し照れたようにウィンクをした。


可愛い声。笑顔。小さな仕草。


それは、キヨヒコがこの半年間、営業の場で求められ続けた所作そのものだった。


(……俺、こんなこと……)

横目で見る。

自分と同じ容姿の課長が、まじめに、頑張って、可愛いを演じている。

演じるというより、体が勝手にそうなっているので、それを“真剣にやっている”のだ。


胸が苦しくなる。

喉の奥が焼けるように熱い。



プレゼンが終わる。

だが質疑応答もほとんどなかった。

誰も内容を聞いていなかったのだ。


そして会議室を出たあと、課長がぽつりと言う。

「……すごいね。あんなにカメラ向けられたの、人生で初めてだよ」

「………………」

「緊張したけど……楽しかったな。けど、君はこれ、ずっとやってたんだよね。本当に……すごいよ、キヨヒコくん」 


褒めてくれている。

本気で労ってくれている。

なのに――その言葉すら、滑稽に感じてしまう自分がいた。




その日の午後は、何をしたのか、あまり覚えていない。


デスクに戻ったキヨヒコの周囲には、「今日のプレゼン、可愛さすごかったですね〜」「課長とキヨヒコくん、推しペア確定です!」という言葉が、冗談とも本気ともつかない温度で飛び交っていた。


課内の空気も、確かに明るかった。

トシアキ課長は、からかわれても笑い飛ばし、

「でも内容は見てほしいよ〜。ちゃんと構成も考えたから」と冗談交じりに返していた。


その“前向きさ”が、

キヨヒコには刺さった。


“努力してしまっている”。

“そこに希望を見出してしまっている”。


その姿が――あまりにも、痛々しかった。



終業時間。

片付けをしていたキヨヒコのもとに、課長がふらりと立ち寄る。


「今日は……ちょっと変な1日だったね」

苦笑しながら、リボンを緩める手つきも、どこか“慣れてきた”ように見えた。


「けど、まあ……明日も、よろしくな」

そう言って、右手をひょいと挙げて笑う課長の顔は、変わってしまった“キヨヒコの顔”そのものだった。



帰り道、何人の視線を浴びたのか、数えていない。

スマホに来たメッセージの通知も、読む気になれなかった。


家に着き、脱力したようにリビングの鏡の前に立つ。

制服のまま、リボンも外さず、ツインテールも崩れていない。


でも――鏡の中の自分は、明らかに疲れていた。


ハートの目は、どこか濁っていて。

笑顔は、いつの間にか張り付いた仮面になっていて。

頬のピンクは、チークなのか火照りなのか分からなかった。




「……明日も、トシアキ課長は“これ”をやるのか」

声に出してみた。

けれど、聞こえたのは甘く震える“可愛いボイス”だった。

目の前の鏡が、きらきらと笑った。

でもそこに映るのは――疲れ果てた、早乙女キヨヒコだった。

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