第1章:“可愛い”が正解の会社。愛玩社員としての生活。
呪いをかけられたのは高校生の時だった。
俺が悪い。そこは弁明のしようがない事実。俺がイヅミをイジメていたことがキッカケで、イヅミから呪いをかけられてしまった。
ただその呪いが、高校生・大学生・社会人になるまでずっと続いているのが苦しい。
イジメた事は許される訳じゃないし、加害者が謝ったって相手が許すかどうかは別だ。それでも、それでもずっと呪い続けないで欲しかった。呪われたまま生きるのは苦しかった。
ーーーーー
高校生のある日。
目を覚ましたとき、まず感じたのは、布団の中の息苦しさだった。
熱があるわけでもないのに、肌が異様にパジャマを拒んでいた。柔らかいはずの生地が、なぜか触れるたびに気持ち悪くて仕方がない。起きたばかりのぼんやりとした意識の中でも、その不快感だけはくっきりと浮かび上がっていた。
「……なんだよ、これ……」
胸元のボタンをひとつ外す。次いで2つ、3つ。のしかかっていた薄い生地を肩から滑らせると、ようやく少しだけ息がしやすくなった。何かから解放されたような気がした。
けれど、すぐに別の不快が湧き上がる。今度は、裸でいることに対する恥ずかしさが、強烈な形で襲ってきた。
服を脱げば楽になる。だが、着ていないのも耐えられない。
喉の奥がざらつき、額に冷たい汗が浮かぶ。
何か、まとわなければ――
自分のクローゼットは、部屋の隅にある。そこへ向かいながら、なぜか心臓が軽く跳ねた。開ければいつもの制服がある。そう思いながら引き戸に手をかける。
黒いブレザー、ズボン、白いワイシャツ。すべてはそこにあった。けれど、指先はそれに触れなかった。むしろ触れようとした瞬間、手首がびくんと反応した。
“これは違う”と身体が拒んだ。
理由も意味もわからない。けれど、その服を着たくないという感情だけが異常に強かった。
不意に視線が横に向く。少し開いたままの襖の向こう――妹の部屋が見えた。小学5年生。小柄で、おしゃれが大好きな年頃。彼女のクローゼットには、毎日取っ替え引っ替えで着るフリルだらけの服が並んでいるのを知っていた。
体が勝手に、そちらへ足を向けていた。
心では「違う」と叫びながら、喉の奥では「早く、あれを着て楽になりたい」と呟いていた。
部屋の中は、やさしい甘さの柔軟剤の匂いが漂っていた。クローゼットの扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、あまりにも“小さくて可愛すぎる”世界だった。
サイズ感からして、自分が着られるとは思えないはずのワンピース。白地にピンクのリボン、袖の先までレースがあしらわれている。胸元には「LoveBunny」と書かれたワッペン付き。
間違いなく、これは“小学生の女の子”の服だ。
それを、高校生の自分が手に取っている。
しかも、躊躇いもなく――
袖に腕を通した瞬間、肌がすっとなじんだ。サイズは合わないはずだった。が、服はぴったりと体に沿った。背中のジッパーを上げる指が、震えるどころか、むしろスムーズに動いた。
その瞬間、全身が“快”に包まれた。
腰をひねってみる。スカートの裾がふわっと広がる。両手で脇のリボンを結ぶ。
一つひとつの動作が、まるで長年の習慣のように自然だった。
自分で着たはずなのに、どこか“着せられていた”ような感覚があった。
鏡の前に立つ。
次の瞬間、キヨヒコは凍りついた。
ツインテールの髪が、リボンで整えられて揺れている。
大きなハートの形の瞳、うっすらと色づいた頬。身長が――明らかに低くなっている。
肩幅も、手足のラインも、中性的どころか完全に“女の子”そのもの。
それでいて、喉から出る声は、掠れた少年の声だった。
「……うそ、だろ……?」
鏡の中の自分は――にこりと、勝手に笑った。
「お兄ちゃん、何してんの?」
その声に、血の気が引いた。
襖のすき間から、小学生の妹がこちらを覗いていた。
反射的に隠れようとして足がもつれる。スカートの裾がふわっと浮いて、リボンが揺れる。鏡の中に映るのは、明らかに“女児服を着たピンク髪の高校生男子”という、言い訳のしようがない異常だった。
「ま、まって、ちが、っ……!」
声が裏返る。
言い訳を探すよりも先に、背中に汗が滲んだ。
だが、妹はと言えば――口元をぽかんと開けて、一瞬固まったあと。
「……お兄ちゃん、めっちゃ似合ってる!」
満面の笑みを浮かべた。
「えっ、なんか小動物みたい……え、待って、可愛い〜〜♡」
駆け寄ってくるなり、スカートの裾をふわっとつまんで「どこで買ったの? え、私の!? え〜似合いすぎるでしょこれ〜♡」
その瞬間、頭が真っ白になった。
恥ずかしさ、困惑、否定したい感情――全部がぐちゃぐちゃになって脳の奥で爆発するような感覚。
「や、やめろ……っ」
ようやく出た言葉は、声になっていなかった。妹は首を傾げる。
「男の子でも可愛いって、全然変じゃないよ? だって、可愛いんだもん」
何の悪気もない。純粋な賞賛。
けれど、キヨヒコにとっては、それが何よりも残酷だった。
制服に着替えようとしたが、手が震えて動かない。ズボンを見た瞬間、胃がひっくり返りそうになり、結局、逃げるようにして家を出た。
パステルカラーのワンピース。ピンクのカーディガン。髪にはリボン。
小学生の妹が休日に着るような服装を、高校生の男子が、そのまま着ている。
玄関を出た瞬間、近所のおばさんが通りかかる。
「あら〜、今日も可愛いわねぇ♡ どこ行くの? デート?」
キヨヒコは笑えなかった。けれど、口元は勝手にほころんでしまっていた。
「い……いってきまぁす……♡」
甘い声。勝手に膝が曲がり、小さくお辞儀をしてしまう。
登校中。すれ違う中学生、会社員、主婦。
そのすべてが、“キヨヒコを可愛い子として”見ている。
しかも、“男だけど可愛い”という認識で、肯定してくる。
「え、男の子なんだって〜! すご〜い」
「男子なのにピンク似合いすぎじゃない? レベル高すぎ」
「あんなに可愛いと、男だけど彼氏とかいんのかな〜」
耳を塞ぎたかった。けれど、手がスカートの裾を押さえるように動く。
内股で歩き、首を小さく傾けながら、笑顔を作る。
羞恥に濡れながら、“演じてしまう”。
この異常な現実の中で、自分だけが「間違っている」と思っている。
それが、何よりの地獄だった。
午後の校舎裏。日陰のコンクリートに、じんわりと涼しさが滲んでいた。
キヨヒコはその場にうずくまり、スカートの裾を握りしめていた。
「なんで……俺……っ」
頬を撫でる風がやけに優しいのが、むしろ辛かった。
いつもはブレザーで通っている学校に、“女児服”で来てしまった。しかも、周囲の人は何の疑問も持たずに。家を出て、歩き、校門をくぐり――教室では「今日のきよぴも可愛い〜♡」と女子たちに囲まれた。男子は、「マジでレベル高ぇな」「インフルエンサー?」とスマホを向けてくる。教師すら、「学校に華があるっていいよね」と本気で笑っていた。
この世界は、壊れている。
それはわかっていた。けれど、どこがどう壊れたのか、自分でも説明できない。
そして、誰も気づいてくれない。
「ねえ、なに泣いてんの?」
その声は、背後から降ってきた。
聞き慣れた、でも聞きたくなかった声だった。
ゆっくりと振り向く。そこには、淡々と笑うイヅミがいた。
「うっわ、すご。なにその小学生みたいな服。どこで買ったの? あっ、てかそれ妹ちゃんのじゃない?」
笑いながら、ひとつも笑っていない目でこちらを見下ろしてくる。
「イヅミ……っ、おまえ……っ」
「なに?」
「もしかして、おまえかっ!? なにしたんだよ……っ、これ……! 俺、こんな……」
喉が震えて言葉にならない。
イヅミは軽く首をかしげた。
「……ああ、そういえばちゃんと説明してなかったっけ。忘れてたわ」
ポケットからスマホを取り出すと、画面を見せてきた。そこには、テキストのリストが並んでいた。
ーーーーー
《呪い対象:早乙女キヨヒコ》
1.瞳孔の形状が常にハートに変化する
2.身体的外見が“可愛さ優先”で自動調整される(身長140cm固定・髪型は常にピンクのツインテール)
3.声色・仕草・一人称が“可愛い”ものへと勝手に変化する
4.可愛い服を求める欲求が自動発生し、行動を強制される
5.周囲の人間は“キヨヒコ=可愛い存在”と認識し、違和感を抱かない
6.呪い対象本人にのみ羞恥心が継続的に発生し、緩和されない
《備考:解除不可♡》
ーーーーー
画面をスクロールするイヅミの親指が、なぜかやけにゆっくりに感じられた。
目に映る文字が、どれも、“今朝の自分”そのままだった。
「……嘘、だろ……」
「ううん、ほんと。あんたにかけたの、これ全部」
さらっと言うその口元に、笑みが浮かぶ。
「ほら、“いじめの加害者に相応しい罰”って、あるでしょ? でもさ、ただ苦しむだけじゃつまんないじゃん。だから、“可愛いのに恥ずかしい”っていう地獄、選んでみたの。」
言葉が、頭に入ってこない。
「安心して。みんな、あんたのこと“昔からそうだった”って思ってるから。それがこの呪いの仕様なんだよね〜。記憶改変っていうか、世界改変っていうか? ま、便利だよね。私もビックリしてる」
その場に座り込んだまま、キヨヒコは全身の血が引いていくのを感じていた。
これが、夢ではないと確信した瞬間だった。
「じゃ、がんばってね、きよぴ♡」
最後の一言を残して、イヅミは日陰を抜けて去っていった。
その背中が太陽に照らされて、やけに眩しく見えた。
……気づけば、夕暮れだった。
校門を出ると、周囲の視線がまたこちらを撫でてくる。
“可愛い”という空気が、まるで道を開けるように押し寄せてくる。
まっすぐ帰って、風呂にも入らず洗面所へ向かった。
鏡の前で立ち止まる。リボンが揺れて、ふわりとスカートの裾が広がった。
「……もう、いやだ……」
呟いた瞬間、鏡の中の自分が――にこりと、笑った。
反射ではない。
自分の顔ではない。
笑ったのは、“呪いに染まった可愛い自分”だった。
その場で崩れ落ちた。
嗚咽も、涙も、声も出ない。
ただ、鏡の中の笑顔だけが、ずっとこちらを見ていた。
ーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーー
入社から2カ月目。
駅までの道を歩くたび、全身の筋肉が微かに緊張していく。
スカートの裾が揺れる感触。ツインテールが肩でふわふわ跳ねる重さ。
全部、慣れた。慣れてしまった。それが一番、嫌だった。
「あの男の子、今日も朝から可愛い〜」
すれ違うOLが、スマホ越しに手を振ってくる。
写真を撮られる。笑顔を向けなきゃと思った瞬間、口元が勝手に緩んで、手がほっぺに触れる。
「……ぅ、にゃ……♡」
小声で出た擬音に、背筋が冷たくなる。
自分で出したくせに、自分の言葉じゃない。
誰もそれを疑問に思わない。社会がもう、“こういう存在”として自分を受け入れている。
「男の子なのに、ほんっと可愛い〜」「可愛い服着せ変えて遊びたい〜!」
女子高生たちがキャッキャと騒ぐ中を、ピンク髪のスーツ女子――いや、地雷系女子みたいな制服風の営業服を着た“自分”が、駅へと歩いていく。
電車に乗り込む。
すぐに周囲の人たちの目線が自分に集まるのがわかる。カメラを向ける人間はいない。だが、“目が笑っている”。賞賛としての視線。羨望としての視線。奇異としての好意。
男だと、バレている。
でもそれを、誰も“問題”だと思っていない。それが“魅力”として扱われている。それが、世界の正しさになっている。
ドアの窓ガラスに映った自分の姿――
ピンク髪。ツインテール。地雷系の制服。リボン。ハートの瞳。
駅の揺れでふらついたとき、自然に両手を前に合わせ、ちょこんと内股になった。
「……」
無意識だった。可愛い立ち方。バランスのとり方まで、身についてしまっている。周囲の誰かが、「あ、可愛い……」と小さく呟く。笑いじゃない。嘲りでもない。純粋な感嘆。
死にたい、と思う。
でも笑顔を崩せなかった。
苦しいのに、“微笑んでいる自分”がもう、崩せない。
車窓の向こうに、オフィス街のビルが見えてきた。
その中のひとつに、自分が望んで就活した“リリ社”がある。
エントランスの鏡に映った自分が、今日も可愛いまま、出社していく。
「きよぴちゃん、おはよ〜♡」
玄関を入った瞬間、受付の女性社員がにこやかに声をかけてくる。ピンクの制服に白いタイツ姿の“営業アイドル”が、何の違和感もなくオフィスビルに溶け込んでいた。
エレベーターでは、先に乗っていた男性社員がドアを開けて待ってくれていあ。
「今日もリボン、キマってるね! いいねぇ〜営業アイドル。朝から癒されるわ」
「え、えと……あ、ありがとうございましゅ……♡」
語尾が丸くなる。声が一段高くなってしまう。
自分の意思じゃない。それでも、笑顔を崩せない。
エレベーターの鏡に並んだ3人のうち、キヨヒコだけが140cmでツインテ。制服は、白とピンクのフリル付きベスト。背中には、ハートのロゴと《リリ社アイドル営業部》の刺繍入り。
降りた先のフロアでも、笑顔の嵐が待っていた。
「おっ、きよぴ来た! 今日もキマってんね〜」
「今日も推してるぞ〜!」
「うちの部署にも一人ほしいわ、マジで」
声をかけてくる社員たちの多くは、普通のスーツ姿。
その中に混じって、アイドルのコスプレみたいな姿の自分だけが、自然に受け入れられている。名札には《きよぴ♡》と手書きで書かれている。しかもラメ入り。
自席のロッカーを開けると、今日も“マニュアル”が1枚追加されていた。
《本日の営業ワンポイント♡》
・笑顔で手を振るときは、肩をすくめて可愛さUP
・お客様に呼ばれたら「はーいっ♡」と元気よく!
手書きのハートマーク。筆跡が、微妙に日替わりなのが怖い。
今日も、会社全体がこの状況を“善意で”肯定してくる。誰も壊れていると思っていない。自分の中だけが、ずっと壊れっぱなしだった。
「きよぴちゃん、準備できた? 今日、同行営業いくからね〜!」
声をかけてきたのは、30代半ばの女性社員。いかにも「仕事できる系」な黒スーツにショートボブの先輩営業。
「実はね、今日のお客さん、きよぴに会えるの楽しみにしてるんだって」
背筋が冷たくなる。けれど、首は自然に縦に動く。
「う、うれしいでしゅ……♡ いっしょに、がんばりましょ〜っ♡」
勝手に弾む声。両手をグーにして胸の前で小さく握る仕草まで出た。恥ずかしい。でも、やめられない。
「かわいい〜っ、さすが! よっ、うちのアイドル!」
先輩が笑う。
周囲の社員も「今日も見れた!」と盛り上がっている。
これから、客先で“可愛いを演じる仕事”が待っている。
それが、給料をもらってする“営業”なのだと思うと――
キヨヒコは、自分の足音が地獄に向かっているようにしか思えなかった。
ーーーーー
先輩社員に連れられて向かったのは、区内のとある私立学園。
中高一貫校で、相手の気持ちを理解し合うアプリ、リリ社の“アサーティブコミュニケーションアプリ”を導入予定の候補先だった。
「ちょっと堅めの学校だけど、校内改革に積極的でね〜。あんたみたいな新風、欲しかったんだって」
校門をくぐる瞬間から、キヨヒコの呼吸が浅くなっていくのがわかった。校舎の窓に、自分と同じくらいの年齢の女子生徒たちが見える。
ピンク髪。地雷制服風の営業衣装。ミニスカート。レース。そんな格好で堂々と入っていく自分に、彼女たちが違和感を示すことはなかった。
むしろ――目を輝かせて見てきた。
「ほんとに来た……!」「ネットで見た子だ……!」
名前も名乗っていないのに、廊下で通りすがる教師が「あっ、うちの娘がファンなんですよ〜!」と笑いかけてくる。
キヨヒコは、何も言わず、ただ笑顔を返すしかなかった。
口元が自然とほころび、手をふんわりと振ってしまう。
脚は内股、ステップは軽やか。
可愛い営業スマイル。仕草。全自動。
会議室に通され、挨拶を済ませる。
学園側の担当は、教頭・教務主任・広報担当の3名。全員が和やかな表情で座っていた。
「実は、今日お越しいただいたのって……教材の話だけじゃないんですよ」
教頭がにこやかに口を開く。
「生徒たちの間で“アイドル営業部”の存在が話題になってまして。ぜひ、お姿を拝見したいと」
「い、いえ、あの、わたしは……えと……」
キヨヒコの声が裏返った。
だが、主任が続ける。
「実際の導入にあたって、“生徒の関心を引ける”という点は重要ですから。よろしければ、軽く自己紹介など……」
無理だ、と叫びたかった。
逃げたかった。
でも――体はすでに、立ち上がっていた。
「は、はじめましてぇ……♡ リリ社の、あの、ア、アイドル営業部でぇ……お、おしごとしてましゅ、き、きよぴともうしましゅぅ……♡」
言いたくない。でも、口が勝手に言葉を飴玉みたいに丸めて吐き出す。
胸の前で手を合わせて小さくお辞儀。スカートをひらりと揺らして、語尾にハートが乗る。
主任の「うわぁ……可愛い……」という声。
教頭の「これは……うちの生徒、大喜びだわ」という声。
広報の「写真、撮っても……?」という声。
三者三様の褒め言葉が投げつけられる。
カメラのシャッター音が、羞恥心を刃物のように切り刻んでいく。
でも、営業としては成功だった。
説明資料を出し、導入例を提示。
その間も、「きよぴちゃんが来るなら間違いないわね♡」と盛り上がる。
アプリの詳細よりも、キヨヒコの存在そのものが“説得力”になってしまっていた。
最終的に、契約書にサインがされた瞬間。
先輩が背中を叩いた。
「ほら、言ったでしょ? あんた、才能あるよ!」
才能。
それは営業の? 契約の? 可愛さの?
キヨヒコは笑った。
営業スマイルのまま、心の奥で何かがまた一つ、静かに崩れていった。
ーーーーー
帰社後のフロアは、キヨヒコを見るなり拍手が起きた。
それは冗談でも冷やかしでもなく、“成果を出したアイドルへの、本気の称賛”だった。
「うちの誇りだわ〜!」「いやマジで今日の仕草、決まってたって!」「ハートポーズのとこ、見てた!? すげぇ笑顔だった!」
誰も契約内容に触れない。誰も資料やシステムの説明に感心しない。
褒められるのは、声のトーン。手の振り方。語尾の甘さ。
「マジでうちの営業、未来感じるわ」
先輩社員の一人が、缶コーヒーを差し出してきた。
「これ飲みな。今日の“可愛さ”、100点満点だったよ」
キヨヒコは、笑顔のまま頭を下げる。
喉の奥に缶の金属の冷たさを感じながら、自分が何を褒められているのか分からないまま、でも“笑ってしまえる身体”に、心が負けていく音がした。
ーーーーー
その夜。
布団に入った瞬間、視界が暗転した。
――この前の定例会は3月頃。
本来なら“夢の定例会”はまだ先のはずだった。
でも、今日は来た。
「よぉ、売れっ子。調子どう?」
声の主は、いつものテーブルに腰かけたイヅミ。
今日は黒いカフェ店員のような服を着ていた。何の意味もない演出。ただの遊び。
「……なんで……今……」
キヨヒコは、布団の中でもう何度も呟いていた言葉を、そのまま口に出した。
「ん〜、ちょっと気になっちゃってさ。“社会人になって可愛く営業してるキヨヒコ”って、どんな地獄かと思って♡」
足を組みながら、スマホをひらひらと揺らす。
「今日のお客さんのSNS、すっごい盛り上がってたよ? “ほんものの営業アイドル”って! すごいよねぇ、君、今や会社の看板だよ?」
静かに、舌を噛みたくなるほどの羞恥。
でも、夢の中ではそれすらも封じられている。
「……お願いだ……やめてくれ……っ」
「やめるって? 何を? みんな君のこと、大好きだよ? 笑顔が素敵で、声が甘くて、仕草が可愛くて。なにより、営業成績がいい!」
イヅミの口元が笑っていた。目がまったく笑っていなかった。
「……これ以上、なにを……する気なんだよ……」
「さあ? でもさ。“君だけが異常だと思ってる世界”って、めっちゃコスパいい地獄だよね♡」
言葉が終わる前に、視界がブラックアウトした。
キヨヒコは汗びっしょりで目を覚ました。
夜明け前の部屋、真っ暗な天井。
なのに、胸の前では両手が小さく合わせられていて――
「おはよぉ……♡」と、口が勝手に言いかけていた。
息を止めた。喉が、舌が、喋ろうとしていた。
甘い声。アイドルボイス。寝起きの第一声として、完璧に仕上がっていた。
ーーーーー
「きよぴちゃん、今日撮影あるからメイクルーム入っててね〜♡」
出社して最初に言われた言葉が、それだった。
メイクルーム――そう呼ばれているが、実質ただの物置部屋だったと思われる場所。壁一面に姿見が貼られ、リングライト、猫耳カチューシャ、ミニハット、ハート型のサングラスが並べられている。
そしてその中央に、ピンクの小道具セットが敷かれていた。
「え、あの……今日って営業は……?」
「午後からでいいって。午前中は社内報用の撮影優先でって、部長から!」
営業の準備じゃなくて、“可愛い写真を撮る”のが業務命令扱い。
自分にだけ課せられる、“ビジュアルで空気を作る義務”。
制服のリボンを整えながら、キヨヒコは鏡の中の自分に向かって微笑む。今日の自分のテーマは“春っぽくてウキウキ”。朝のデイリーメールで書かれていた。
「は〜い!きよぴちゃん、そのポーズいいねぇ! 次、こっち向いてピース、お願い!」
カメラマン役の社内広報が、パシャパシャとシャッターを切る。
キヨヒコは“条件反射”で、左手を頬に添えて目を細めた。
「ふぇぇ〜っ、がんばりましゅ〜……♡」
勝手に出たセリフに、背中が冷たくなる。
それでも、周囲は拍手していた。
「今日のきよぴ、仕上がってるね〜!」
「いや、こういうポーズ教わらなくてもできるって才能よ!」
まるで褒められているように聞こえる。
でも、キヨヒコの中ではどんどん“自分”が削られていく音しかしていなかった。
撮影の合間、女性社員の一人が近づいてくる。
「ねえ、“笑顔のバリエーション”、増やしたいんだけど、練習付き合ってくれる?」
笑顔のバリエーション。それはもう、「商品化」だった。
カメラが光る。
口角をあげて、手をほっぺに添えて、ウィンク。
勝手に笑ってる。止まらない。羞恥は波のように襲ってきたが、波打ち際に留まる余地はない。
キヨヒコは知っていた。
この“仕事”は、これからどんどんエスカレートする。
でもまだ、“本番”は終わっていなかった。
午後――営業同行が待っていた。
ーーーーー
午後一番の商談先は、都内に本社を置く老舗の教材制作会社だった。
同行するのは営業3課の先輩――30代前半の落ち着いた女性で、メガネをかけ、資料に丁寧な付箋をつけて準備を欠かさないタイプ。
「本日はあくまで同行だから、新人のきよぴちゃんは黙ってて大丈夫。笑顔だけお願いね」と、最初に軽く言われた。
笑顔だけ。
でも、それが一番地獄だ。
応接室に入った瞬間、空気が変わった。
リリ社側の2人に対し、教材会社の担当者は5人。
その全員が、資料に目を通すよりも早く、キヨヒコの姿に反応した。
「あ、ネットでお見かけしてました……」
「ほんとにいたんですね……!」
「うわ、動いてる……」
「……え、男の子なんですか?」
ざわめきは好奇心そのものだった。
驚きでも非難でもなく、“実物に会えてラッキー”というテンション。
名刺交換も、プレゼン資料の配布も、すべて先輩が手際よく行っていく。
キヨヒコは、その隣で座っているだけだった。
ただ、椅子に座っているだけなのに、スカートの膝下から覗く脚が自然と内股になっていた。
教材会社の5人は先輩の話を聞いていない。目が、明らかに自分を見ている。話をしていないキヨヒコへ、笑みを浮かべながら視線を向けている。
先輩が淡々と製品の導入実績やライセンス契約のモデルを説明していく間、対面の女性社員の一人が、スマホを手元に構えた。資料について後で調べたいからだとは言っていた。でも、資料の写真を写すというよりも、どうみてもキヨヒコを盗撮するための画角だった。
「……商談ですよね?」
思わず出かけた言葉を飲み込む。
「じゃあ、新人のきよぴちゃんからひとこと、どうぞ?」
――え。
先輩のその一言が、全てを崩した。
「は、はいっ……♡ あのっ……リリ社、ア、アイドル営業部の……きよぴと申しましゅ……♡ 当社をよろしくお願いしましゅ♡」
自然と出る挨拶。
ツインテが揺れる。声が甘く響く。舌足らずな発音が室内に広がった。
言ってる自分が一番聞きたくない。
けれど誰も違和感を覚えない。
むしろ、名刺の肩書き“アイドル営業部”に、客先が納得して頷いている。
「名刺、いいですか? 記念に……」
「今後、うちの会社でも営業スタイルを見直す参考に……!」
冗談ではなかった。
キヨヒコは“営業スタイルのサンプル”として扱われていた。
帰り道。
電車の中、吊革に手をかけたキヨヒコの指が、震えていた。
「ねえ、今日の反応、すごく良かったよね〜!」
先輩は明るい口調で言った。
「導入も前向きだったし、あの女性社員さんなんて、名刺眺めてにこにこしてたし」
違う。
見ていたのは資料じゃない。
話していたのは契約じゃない。
「やっぱ、きよぴちゃんの可愛さって、会社の武器だよ。すごいと思うよ、ほんと」
先輩は、善意で言っていた。
皮肉でも、冷笑でもない。ただの“前向きな実感”。
キヨヒコは何も言えなかった。
何も否定できなかった。
電車の窓に映る自分――
営業制服。ツインテール。ハートの目。笑顔の形が、貼りついて消えなかった。
ーーーーー
「きよぴちゃん、今日、外部の高校から企業見学くるから、エントランス側の応対お願いできる?」
その言葉を聞いた瞬間、吐き気がこみ上げた。
企業見学――進路指導の一環として、学生たちが会社見学に訪れる。
リリ社は近年“未来志向の働き方”として高校からの注目度も高く、「アイドル営業部」の存在も含めて、“個性の尊重”という建前で見学コースに組み込まれている。
「学生たち、きよぴに会いたがってたみたいよ〜。楽しみにしてるって!」
なぜ知ってる。なぜそれを、伝える。
キヨヒコの“見られる職業”としての人生は、どんどん周囲に肯定され、本人だけが羞恥にまみれていた。
時間になり、ロビーのソファ席に誘導された学生たちが、ざわざわとした笑いを漏らす。
「うわ、本当にいる」「うっわ、可愛いっていうか、マジでヤバ……」「でもこれ、男なんだよね?」「男でこれとかもう勝ち確じゃん」
その全てが、聞こえていた。
否、聞こえさせるように、わざとらしく発されていた。
先導役の若手社員が「きよぴちゃん、ひとこと挨拶お願い」と促す。逃げ場など、あるはずがない。
「は、はじめましてぇ〜……♡ リリ社アイドル営業部のぉ、きよぴでしゅ〜♡」
声が、裏返っていた。
でも舌が、喉が、勝手に柔らかく音を作ってしまう。
内股で両手を胸元に寄せ、小さくお辞儀する。
「みなしゃんの進路が、すてきになりますよぉにぃ〜……。祈ってます、にゃ♡」
空気がどよめく。
ざわざわ、くすくす、カシャ。スマホのシャッター音。誰も止めない。
先生すら、「素敵なお辞儀だったね〜」と本気で褒めてきた。
キヨヒコはうっすらと笑ったまま、心の中で「俺は何をしてる?」と叫んでいた。
見学が終わったあと、広報が寄ってくる。
「今日のリアクションすごかったよ〜! “推しになった”って言ってた子もいたし!」
ああ、もうこの社会では、“推されること”が成功の証なんだ。
そして俺は、“推される存在”として作られてしまった。
その夜。
1日の疲れを癒すためにお風呂に入る。体を洗う。浴室の中の鏡の中に精神が疲れ切った自分が映っているはず。
でも、鏡の中の自分が――
歯を見せて笑っていた。ハートの瞳で、無言で、
「やったね♡」と語りかけていた。
ーーーーー
「きよぴちゃん、すごいよ〜! この前の教材会社、正式に契約決まったって!」
朝イチのフロアに、声が響いた。
自席に着こうとしていたキヨヒコは、反射的に姿勢を正す。
「……おれ、は……」
「きよぴのおかげだよ! あの可愛い自己紹介、完璧だったって〜」
言葉を返すより早く、社員の一人が笑顔で書類を差し出してくる。
“契約完了”のハンコが押された、前日の商談先からの連絡報告。
契約内容の横には、「ご対応いただいた“アイドル営業部”の方の印象が非常に良く」と書かれていた。
担当は、先輩だった。
資料も説明も契約書作成も、すべて先輩がやった。
キヨヒコは隣で笑っていただけだった。
でも、褒められているのは――“その笑顔”だった。
「おかげで営業部全体の目標、ぐっと前倒しできそうよ〜!」
部長が声をかけてくる。
すでに会議室のホワイトボードには《今月の笑顔パフォーマンス上位3名♡》という項目が追加されていた。
その一位に、名前が書かれている。《きよぴ♡》。
「すごいね〜」「アイドルの力だよほんと!」
「“ただの営業”より、ずっとインパクトあるし!」
先輩たちの努力が、
企画や準備、交渉という積み重ねが、
全部、“アイドルの存在感”という曖昧な要素に回収されていく。
笑うしかない。
笑わなきゃいけない。
でも、笑えば笑うほど、何かが削れていく。
「きよぴちゃん、これ……部長から。契約決定のご褒美だって〜」
渡されたのは、特注の制服だった。
ピンクと白のツートン。リボンが従来の2倍以上のボリュームで、スカートの裏地には“Thankyou♡”の刺繍入り。
「どう? 可愛さレベル、爆上がりじゃない?」
部屋のあちこちから歓声が上がる。
拍手すら起きた。
自分で契約を取ったわけじゃない。
頑張ったのは、自分じゃない。
なのに――笑顔でそれを受け取ってしまう自分がいる。
「似合う〜! やば、まじで天使!」
「え、なんか光ってない?ご褒美オーラ出てるんじゃない?」
フロアのあちこちから歓声が上がった。
新しい制服――ピンクと白の配色に、胸元のリボンが大きくなっただけで、こんなにも騒がれる。
鏡に映る自分は、たしかに“以前よりも可愛かった”。
肩のラインも、スカートのドレープも、“見る側が気持ちよくなる可愛さ”に最適化されていた。
なのに、胸の奥には冷たい泥水みたいなものが溜まり続けていた。
「せっかくだし、今日の午後はこの制服で営業行こうか。きっと話題になるよ〜!」
広報が自然に言う。
営業部長も「話題性、大事だもんな。さすが、うちのアイドル!」と笑っていた。
誰も、ふざけていない。
誰も、間違っていないと思っている。
自分が“着せ替え可能なアイドル営業商品”であることを、真顔で肯定してくる。
先輩が、隣でそっと声をかけてくる。
「似合ってるよ、きよぴちゃん。この前の契約、本当に助かった。ありがとう」
その声に、また心がちくりと刺された。
「……俺、別に、なにも……してない、です……」
小さく漏れたその声は、誰にも届かなかった。
なぜなら、その言葉をかき消すほど、リボンが揺れて、笑顔が光っていたから。
休憩室に戻り、誰もいない隙に、鏡の前に立った。
ふわっと揺れるスカート。にこりと笑う顔。
今日も、勝手にポーズを取っていた。
「ありがとう♡ がんばるねっ♡」
語尾が跳ねる。
言ってもいない言葉が、笑顔とともに浮かんでくる。
その瞬間、鏡の中の自分が、
ほんの少しだけ――ほんの、少しだけ。
口の端を、歪めて笑ったように見えた。