クイズ食堂
大学を卒業して8年。友人の則康から、飲みに誘われた。お互いに30歳の節目ともあり、久々に再会した僕らは昔話をしながら店まで歩いていた。
「あの頃に比べてお互いに時間も合わせづらくなったな」
しんみりと、どこか寂しそうに則康は言った。
大学生の頃は、よく一緒に飲みに行ったり、キャンプに行ったりしていた。
社会人になってからは、そういう時間もすっかり取れなくなって、今ではそのことを寂しいと思うことすらなくなっていた。
「ところで、これから行くお店だけど」
「ああ、そうそう。俺も初めて行く店なんだけどさ。会社の同期から教えてもらったんだけどよ」
則康の話をまとめるとこうだ。
その店は夜の7時からやっている食堂で、一見するとなんてことはないごく普通の店なのだが、店主から出されるクイズに正解すると、その日の食事の代金は払わなくていいそうなのだ。
「同期もチャレンジしたみたいなんだけど、結構難しいみたいでさ。今まで全問正解した人はいないんだと」
「そりゃそうだろ。簡単な問題にしたら商売にならないだろうし」
「だよな」
お互いに笑いながら話しているうちに、その店についた。
民家を改築したような、昭和の雰囲気漂う店構えで、暖簾には「よしの」と書かれていた。
店の引き戸の窓ガラスから、温かい色の灯りが漏れている。
「良い雰囲気だな」
思わず口に出た。則康が暖簾をくぐって店に入り、僕も後に続いた。
「すみません。2人です」
「ああ、いらっしゃい」
店主らしき、黒いエプロン姿の恰幅の良い初老の男性が、吸っていた煙草を灰皿に押しつぶし、笑顔を向けてくる。
開店してすぐの時間だったので、店には僕ら以外誰もいなかった。
「カウンターでもいいかい?」
「はい」
店にはカウンター席が5つと、二人掛けのテーブル席が2つあるだけだった。
「とりあえず、生2つで」
「はいよ。お客さんはこの店は初めて?」
「ええ。俺の会社の同期に教えてもらって」
やがてビールが出され、早速乾杯してから、則康が店主に遠慮がちに聞いてみた。
「そういや、ここってクイズ出すんすよね?」
「ん?ああ、そうだよ。何?お客さんもそれ目当てか?」
いたずらっぽく店主が笑う。
どうやら、則康の話は本当らしい。
「いやー、なんか気になっちゃって」
「だよな。チャレンジするか?」
店主に聞かれると、則康は僕の方を見た。
「そうですね。チャレンジします」
ちょっとした非日常が味わえるなら、やってみてもいいと思った。
僕の答えを聞いて、則康も笑顔を浮かべる。
「よし。ルールは簡単だ。これからいくつか問題を出すから、全部正解したら今日飲み食いした分の代金は一切もらわない。不正解したからって料金を割り増しするってことはないから安心しな。二人で全問正解したら、無料にしてやるよ」
「はい。了解っす」
「もちろんだが、スマホとかで調べるのはなしだ。お互いに知恵を出すのは構わないけどな」
「ええ」
僕も則康も二つ返事で了承した。
なんだか少しドキドキする。まあ、正解できなくてもリスクはないのだから、別に緊張することもないのだけど、どうにも独特の緊張感があった。
「まず最初の問題」
店主が人差し指を立てて、少し間を置いた。こういう間がさらに妙な緊張感を漂わせる。
「これから言う登場人物の名前から、何の本か当ててくれ。ジャック、ドニファン、スルギ」
「へ?」
僕も則康もきょとんとなった。
「制限時間は1分だ」
突然の難問に、呆気に取られてしまった。
登場人物の名前から本のタイトルを当てる。しかも横文字の名前。
「ちょっと難しくないっすか?」
則康は苦笑いを浮かべるが、店主は腕時計を見ながらニヤニヤと笑うだけだ。
「さあ、あと40秒だ」
則康はすでにお手上げのようだった。
僕はもう一度、登場人物の名前を思い出す。
どこかで聞き覚えがある名前だった。
ジャックはありきたりだが、ドニファンとスルギは珍しい。
そうこうしていくうちに、タイムリミットは20秒を切っていた。
「・・・さあ、あと10秒。9、8、7・・・」
「あっ」
あと僅かというところで、僕は思い出した。
店主も則康も僕の方を同時に見る。
「・・・それ、十五少年漂流記ですよね?」
一瞬沈黙が流れる。
「正解だ」
店主がニカっと笑顔を浮かべた。
「えっ?何それ?」
則康は僕を不思議そうに見ていた。僕は簡単に説明する。
「ジュール・ベルヌの小説だよ。15人の少年たちが無人島に流れ着いて、サバイバルする話だ。ジャックはリーダー格の男の子の弟の名前で、ドニファンはそのライバル。スルギは正確には船の名前だ」
「そう。そこまでわかってたか」
店主は感心したように言った。
テーマがサバイバルだったので、雰囲気だけでも楽しみたくて、キャンプをする際はよく持って行っていた本だったから、なんとなく覚えていた。
「じゃあ、2問目」
則康を見ると、へらへらした表情で、降参したように手を上げた。どうやら、賽は僕に投げられたらしい。
「星座の問題だ。秋に見える大四辺形のアルフェラッツは何の星座を構成している?」
「うへー、またむずい」
則康はオーバーに頭を抱えた。
また記憶を探ってみる。秋の大四辺形。これは大きなヒントだ。
「アンドロメダ座、です」
「また正解」
さらに店主は嬉しそうに笑った。
「マジかよ。お前すごいな」
則康が感嘆しながら僕の肩を叩いた。
「高校の時、天文学部にいたので」
今日、僕は初めて天文学部にいたことを誇りに思った。
それにしてもこの店主、なかなかハードな問題を仕掛けてくる。
よほどクイズ好きなのか、無料飯を食わせたくないのか。人柄的に前者だと信じたい。
「じゃあ、最後の問題だ。『ショーシャンクの空』って映画に出てくる、囚人たちが賭け事や取引に使っていた報酬は何だった?」
則康は僕を期待の眼差しで見てくる。
これに正解すれば、今日の食事は無料。気合いが入るが、そろそろお腹が減ってきた。
「たしか煙草ですよね?」
「その煙草の銘柄は?」
店主の最後の抵抗か、さらに質問を重ねてくる。しかし、その質問は答えやすかった。
「ラッキーストライクです。僕も昔吸っていたので」
「・・・正解だ。おめでとさん」
店主は大げさに拍手をした。
「うおー!マジかよ!」
則康もガッツポーズを決めた。
「いやー。俺のクイズに全問正解したのはお客さんが初めてだよ」
「たまたま、運がよかっただけですよ」
未だに信じられなかったが、僕は妙に冷静な気持ちでいた。
そう、僕が答えられる内容にたまたま当たっただけ。でも、初の快挙を達成したというのは、やっぱり嬉しかった。無料飯が食えることよりも。こっちの方が嬉しい。
「じゃあ、約束通り、お客さんらの食事は今日は無料だ。たんと食べてくれ」
「ありがとうございます!」
変なテンションになった則康を他所に、僕は一礼した。
変に頭を使った所為で、腹が猛烈に空いている。
その日飲んだ酒と食事は、一生の想い出になりそうだった。
次の週、僕はまた「よしの」の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい。ああ、また来てくれたんだね」
店主は僕を見て朗らかに笑った。また開店直後に来たから、お客さんはまだいなかった。
「こんばんは。この間はありがとうございました」
「いやいや、俺の方こそ。今日は何飲む?」
「じゃあ、今日もビールで」
「はいよ。お連れさんはいないのかい?」
「はい。今日は一人できました」
「そうかい。今日もクイズ、やってくかい?」
「そうですね」
店主が挑戦的な笑顔を浮かべてくる。純粋にこのやり取りを楽しんでいる顔だった。
「よし。じゃあ、今日は趣向を変えてみよう」
そう言うと店主はカウンターの奥から黒いタオルを持ち出してきた。
「これで目隠しして、これから作る料理を当ててみてくれ」
前回と違い、記憶に頼らないタイプのクイズだった。
どうやら店主を本気にさせてしまったらしい。
「隠すのは目だけ。耳と匂い、味で何を作ったかを当てるんだ。どうだい?」
「わかりました」
不正解でも、食べた分を普通に払えばいいだけの話だ。失うものは大きくない。
タオルを受け取り、目を隠して頭の後ろできつく縛った。
手もカウンターの上に置いたままにする。
「よし。じゃあ始めよう」
嬉しそうな声と共に、調理が始まった。
まず、金属がこすれる音と何かを洗う音がした。
しばらくして、目の前で火が付く音がする。
さらに沸騰する音がして、それから30分以上経った頃、僕の目の前に皿が置かれる。
「はい。お待たせ」
店主が見えない僕に箸を持たせる。まず、匂いを嗅いだ。ご飯だと思うが、なんだか強く香ばしい香りがしてくる。
箸で一口掬って食べてみた。
ご飯と共に細かい肉の感触、そして濃厚な味わいが口に広がった。
これは、食べたことがある。
「コンビーフご飯ですか?」
「正解だ」
タオルを取ると、目の前にコンビーフを混ぜ込んだご飯が盛られている。
濃厚な味はバターだった。
「懐かしい味だったのでわかりました。よくキャンプで作って食べてたんです」
「そうかい」
店主は腕を組んで、自慢げに笑っている。
「なんか、本当に懐かしいです」
僕は思わず呟いた。
「ここに来ると、昔のことを色々思い出すんです。今まで忘れていたことも、すっと蘇ってくる感じがして」
すると店主が一瞬だけ、真剣な表情を浮かべた。だが、またすぐに笑顔に戻ってこう言った。
「じゃあ、次のクイズは、宿題形式でいこう」
そして、日本酒の一升瓶を指差す。
「また店に来る時までに、俺の晩酌に合うアテを作ってきてくれ。俺が満足出来たら、次の飯は無料でいいよ」
また趣向の異なる問題だった。
でも、ここまで来たら、なんだか面白そうだし、止める気にはなれなかった。
「わかりました。次回までに作ってきます」
「ああ。楽しみにしている」
店主は嬉しそうに笑う。しかし、その目はどこか真剣なものを感じた。
また次の週。
店主に言われた通り、僕は家で作った酒のアテをタッパーに入れて、「よしの」に向かった。
食堂をやっている店主を満足させるなら、半端なものではだめだ。真剣に考えた結果、これだという一品を作った。
「さて、何を作ったんだ?」
店主が僕を試すように笑っている。表情は笑っているが、目は笑っていない。
やはり、本気で試されている。
僕は少し緊張しながら、鞄からタッパーを取り出した。
「これです」
店主はタッパーを受け取ると、ゆっくりと蓋を開けた。
そして、みるみる目を見開いていき、呆然となった。
作ったのは長芋のソテーだった。小学生の頃、父と初めてキャンプに行ったときに、父が作り方を教えてくれた。
焦げ目が付くまで輪切りにした長芋の両面をフライパンで焼き、醤油とバターを加えて味付けをする。
シンプルだけど、結構うまい。
簡単に作れるから、大人になった今でも、たまに家で飲むときに作っていた。
店主は恐る恐るタッパーに箸を入れ、一つ摘まんで齧った。
そのまま、黙々と齧っていく。
やがて、店主の瞳からさめざめと涙が伝っていった。
やがて嗚咽を漏らし始め、袖口で涙を拭いながら、店主は夢中で僕の長芋のソテーを食べていった。
「ごちそうさん」
全て食べ終えると、震える声で僕に言った。
「やっぱり、あなただったか。ずっと、お会いしたかった」
何のことか、何が起こったのかさっぱり分からない僕だったが、店主は涙を浮かべながら嬉しそうに笑って言った。
「覚えていませんか?10年前、秩父のキャンプ場で、由梨に会ったことを」
「・・・あっ」
それを聞いて、僕は思い出す。
これまでこの店で起こったこと全て。それがあの頃のことを連想させるものだったことに、僕はようやく気付いた。
大学生だった僕は秋の紅葉を見に秩父の山間のキャンプ場に行った。
その日、珍しくキャンプサイトには他の利用者はおらず、僕だけがその空間を独占していた。
焚火にあたりながら、日暮れの時間を読書しながら過ごしていると、林の方から物音がした。
この辺りは猪が多いから、僕は本を閉じて食料をテントに入れようとした。
ガサゴソと雑木林をかき分ける音がして、やがて砂利を踏む足音が聞こえる。
人の足音だった。
ランプをかざすと、一人の若い女の子が立っていた。
「うわっ」
思わず驚いて声を上げた。
「あっ、すみません!人がいるなんて思ってなくて・・・」
女の子は申し訳なさそうに頭を下げた。
やがて顔を上げると、疲れ切った表情で顔を歪ませていた。
「一人なの?」
「はい」
勇気を出して声を掛けると、女の子は細い声で答える。
よく見ると、パーカーにジーンズ、スニーカーとバックパックという出で立ちだった。
登山をするにはあまりにも軽装備だった。
「もしかして、遭難?」
「いえ、そういうわけでは・・・」
女の子は不安げに否定し、顔を俯かせた。
何か訳ありだと直感的に思った。
すると、ぐうっと間の抜けた音が静かなキャンプサイトに響く。
「お腹、空いてるの?」
「あっ」
女の子は恥ずかしそうに顔を背けた。
「よかったら、何か食べてく?これからご飯作るところだったから」
そう言って、僕は警戒されないよう、優しい声で女の子に言った。
女の子は静かに頷き、適当に地面に座った。
しばらく沈黙が続く中、僕はコンビーフご飯を作り、女の子に振舞った。
「美味しい」
一口食べて、女の子の表情が柔らかくなる。
「まだあるよ。これ、おすすめのツマミ」
そして、同時に作っていた長芋のソテーも分けてあげた。
最初はそれも嬉しそうに食べていたが、次第に女の子はまた暗い表情を浮かべる。
そんな彼女をそっとしておこうと、食事を済ませた僕は煙草を取り出し、読書を再開しようとした。
「煙草、吸ってもいい?」
「あっ、はい。大丈夫です」
女の子に断ってから、僕は煙草に火を付けた。
「よく、父も本を読みながら煙草を吸うんです」
目を細めながら女の子は言った。
「これ、お気に入りの煙草なんだ」
僕は煙草の箱を見せつける。
「ラッキーストライク。今はこれしか吸ってない」
「本は、何を読んでるんですか?」
「十五少年漂流記だよ。知ってる?」
「はい。小学校の頃に読んだことあります」
それから、僕は女の子と軽く本や映画の話をした。
他愛もない会話の中で、女の子がユリという名前だということを聞きだした。
「ユリちゃんは、なんで一人でこんなところに?」
「それは・・・」
少し突っ込んだ話をすると、ユリは言いづらそうにまた顔を俯かせた。
「いや、言いたくないならいいよ」
僕はしまったと思い、顔をしかめる。
「・・・なんかどうでも良くなりました」
しばらくして、ユリはぽつぽつと話し出す。
「このまま、ここで人生を終えようかなって思ってました」
なんとなく、想像はしていた。けれど、それが的中してしまって、心臓が急に締め付けられる。
「最後の最後に、誰にも知られずに、ひっそりと幕を引こうって思って。そしたらお兄さんがいて、温かい食事をもらって、こうしてお話しているうちに、もうちょっとだけ生きることを頑張ってみようかなって」
そしてユリは僕に頼りないけどふっきれたような笑顔を浮かべる。
「タクシー、呼べるけど、どうする?」
「はい。お願いします」
さすがにここで一泊させるわけにもいかないので、僕は電話でタクシーを呼び、ユリは両親に連絡を入れた。
しばらくして、タクシーが麓に来てくれることになって、僕はユリを送り届けた。
麓までの道中、夜空に輝く星々をユリが見上げたので、高校時代の部活で天文学部にいたことを話し、頭上に光る秋の大四辺形のことも教えてあげた。
「物知りなんですね。あっ、お名前・・・」
「ヒデだよ。皆からはそう呼ばれてる」
「じゃあ、ヒデさん」
ユリは嬉しそうに笑った後、僕に深々とお辞儀をした。
「本当に、ありがとうございました」
ユリは震えていた。
やがてタクシーが到着し、運転手にお金だけ渡して、ユリを乗せた。
「この御恩はいつか・・・」
「いや、今日のことは忘れた方がいい」
切なそうに僕を見るユリに、敢えてそう言った。
「このことは忘れて、これからは楽しい毎日を送るんだよ」
そう言って、僕はタクシーから離れた。
ユリは後ろの窓ガラスから、最後まで僕を見ていた。
僕はタクシーが見えなくなるまで、しばらくその場で見送っていた。
「由梨は、私とは血の繋がらない娘なんです。今の妻の、前の夫との間にできた子で」
店主の吉野さんは、僕にぽつぽつと話をしてくれた。
「前の夫は、借金を残して蒸発したようで、食品会社で役員をしていた私が妻を見染めて、借金を肩代わりするから結婚してくれと頼みました。でも、母親が借金返済のために再婚したという噂が一人歩きして、由梨は学校でいじめられるようになって、それがあまりにも辛くて高校1年生の時に、自殺しようと家出をしたんです」
「あなた方にはいじめのことは話さなかったんですか?」
「ええ。私たちに心配を掛けたくなくて、ずっと黙っていたんです。いつも帰宅する時間に帰ってこなくて、そしたら電話で秩父の山にいると言われて、もう大騒ぎでした。あの子が家に帰ってきて、いじめのことを初めて聞いて、それに気づいてやれなかったことが、親として悔しくて。なによりあの子をそこまで追い詰めてしまったことが、申し訳なくて」
吉野さんは涙を堪えながら、さらに僕に話を続けた。
「娘から、ヒデさんという人にお世話になったと聞いて、いつか恩返しがしたいと思っていました。でも連絡先も聞けずじまいだったので、探すのに苦労しました。そしたら5年前に私の親父が倒れて、親父の店を継ぐことになって、その時に思いついたんです。あの時、由梨から聞いた話をクイズにして、全て答えられる人がいたら、その人がヒデさんだと証明できると」
吉野さんは涙目で僕を見て、ニカっと笑った。
「長い月日が経ってしまいましたが、こうして娘の恩人に会うことができました。本当に、ありがとうございます」
そして、僕に深々と頭を下げる。
体を震わせて、唇を噛みしめながら。
「いえ、僕は大したことは・・・」
そこまで言ってから、僕は思い直した。
あの時、由梨さんにとっては、その大したことないあのやり取りが、命を繋いだ蜘蛛の糸のようなものだったのだ。
「こちらこそ、お会いできて光栄です」
僕は立ち上がって、吉野さんに深々と頭を下げた。
「由梨さんは、その後は?」
そしてお互いに顔を上げてから、僕は気になったことを伝えた。
「今は外資系で働いています。アメリカにいますが、近々日本に戻ってくるそうなので、よかったら、ぜひ会ってあげてください。あの子がどんなにあなたと会いたがっていたか」
「はい。わかりました」
僕が頷くと、吉野さんはそっと手を差し出してきた。
僕はその手を優しく握り返す。その手は少しずつ強くなり、温かい肌の温度が伝わってきた。
「由梨さんはあの時、あなたの話をよくしていました。本当に尊敬していたんだなって」
僕がそう言うと、吉野さんは握手をしながら、顔をくしゃくしゃにして嗚咽を漏らして泣きだした。
店を出た後、駅までの道をゆっくり歩きながら、ここまでの3週間を振り返ってみる。
偶然、僕は友人がたまたま気になった店に連れていかれ、そこで10年越しの運命の出会いを経験した。
でも、僕が何気なく良いことをやって、それが巡り巡って実った結果が、今日のことだったのだろう。
人生は何が起こるかわからない。
ただ良し悪しに限らず、自分がやったことは、時間がかかってもこうして自分に返ってくる。
だとしたら、これからの人生は、もっと何気ないことを大事にしようと思う。
それが、人生を豊かで幸せにする秘訣なのだと、僕はこの日、しっかりと胸に刻んだ。
それから僕が由梨さんと再会して、数日後にデートに誘われたのは、また別の機会にでも話したい。