鴻上さん
転校の初日というのは何度向かえても緊張するものであると前嶋則夫は感じていた。今回はそれが中学二年生としての年度始めではなく、春と夏の狭間である梅雨の時期だから、余計にそう感じてしまうようだった。
もうすでに教室の空気感や人間関係が形成されているはずで、その中に部外者が馴染むのには相当の苦労がいることはよく分かっていた。ましてや則夫の制服は前の学校のものだから、よけいに目立つわけである。
則夫は手に汗握りながら先を歩く担任の植田義典先生の後に続いて廊下を歩いていた。窓の外は雨が降っていて、廊下に充満する埃の臭いが則夫の鼻をついた。
教室に着き、自己紹介を終えてもまだ則夫は緊張していた。同級生たちの則夫を見定めるような視線を感じたからだった。
「それじゃあ則夫くんの席はあそこ。鴻上さんの隣にしようか」
先生に促された先にいたのは秀麗な女の子だった。彼女は則夫に対して警戒心をむき出しにした態度も視線も向けなかった。
則夫が軽く挨拶すると、彼女はにこやかな表情で会釈をした。
先ほどまで緊張していたはずの則夫の意識はすでに彼女に奪われていた。
彼女の存在は転校初日の則夫にとって、大きな救いになっていた。
どうすれば仲良くなれるだろうか。則夫はそんなことばかり考えていた。
鴻上さんは教室の高嶺の花であることは間違いないだろうし、転校生がそんな彼女と初日から仲良くなろうとするのは反感を買うかもしれなかった。
朝礼が終わり授業が始まると隣の席が幸いなことに気が付いた。
則夫の席は一番後ろの窓のすぐ側で、教科書を持たない則夫は、毎回のように鴻上さんと机を隣り合わせて授業を受けることになっていた。
彼女に対して授業の妨げになっていないだろうかという申し訳ない気持ちもありながら、悪目立ちせずに仲良くなるきっかけになると思っていた。
ただし、現実は厳しかった。
何日経っても鴻上さんと親しくなるということはなかった。授業中は話しかけられないし、休み時間になると同級生の中村昭夫や嬉野将太といった面々が則夫の席に集まって話しかけてくれる。鴻上さんはというと教室から出ていってしまう。彼女が帰ってくるのは授業が始まる直前だった。
このままでは仲良くなるどころか、教科書が則夫の元に届いて鴻上さんと会話する自然な流れを失うことになるだろう。
則夫は赤川優作に、まず彼女のことを聞いてみることにした。会話の糸口を得るためだった。
「鴻上さんの名前って何て言うの?」
則夫の言葉に一瞬だけ驚いた表情を浮かべた赤川優作は気まずそうな笑みで言った。
「そんなこと誰も知らないよ」
「どういうこと?」
「そのままの意味さ。誰も鴻上さんの名前を知らないんだ。僕なんかは小学校からずっと同じクラスだけど、知る必要がないからね」
則夫は赤川優作が言っていることを理解できなかった。まさか同級生の名前を知らないだなんてあり得るだろうか。自分に教えたくがないために嘘をついているんじゃないかと思うほどだった。
「なんで知る必要がないんだよ」
「だって鴻上さんは鴻上さんだろ。それ以外のなにが必要なのさ」
そう言って会話を打ち切ってしまった。
その他にも上沢結花や恵本幸といった女生徒にも質問したが赤川優作と似たような返事が返ってくるだけだった。
さらには鴻上さんと則夫は不釣り合いだいうことを遠回しに言われる始末だった。
則夫は職員室に向かった。
植田義典先生に名簿を見せてもらえれば解決すると思ったからだった。
「早く同級生の名前を覚えて仲良くなりたいんです」
そう言うとすぐに出席簿を見せてくれた。
しかし驚くことに、鴻上さんの名前だけが欠落していたのである。
「なにか困ったことがあったら先生に相談してくれるといい」
則夫は帰り際にそう言われたが、適当に返事をして逃げるように職員室を飛び出した。
気味が悪かった。
家に帰り夕食の時間になると両親の方から鴻上さんの話が飛び出した。
「帰り道に、この辺の地主だっていうおじいさんに会ったよ」
「知ってるわよ。鴻上創さんでしょう?私も一昨日に挨拶してもらったわ。鴻上さんのところのお嬢さんと則夫、同じクラスなのよ」
「そうだったのか。則夫、失礼のないようにな」
両親の会話を聞いているだけで、則夫はなんだか具合が悪くなってきた。
その日は早々に自室のベッドに潜り込んだ。しかし彼女の顔を思い浮かべれてしまい、寝れなかった。よく考えれば、則夫は鴻上さんの声を聞いたことがなかったし、彼女が誰かと一緒にいるところも見たことがなかった。
次の日、則夫は母親から新品の教科書を持たされて登校していた。
鴻上さんと机を合わせて授業を受けることはなくなってしまったが、則夫にとっては好都合だった。
彼女のことを考えるだけで頭がどうにかなりそうになっていたからだった。
則夫は最後に鴻上さんに教科書のお礼を言って、考えるのを止めようと思った。
予鈴が鳴り、それぞれが席に着く時、鴻上さんが教室に戻ってきた。
「いままで教科書見せてくれてありがとうございました」
鴻上さんはにこやかに会釈するだけだった。
則夫は不意に彼女の机に目をやると、教科書の違和感に気が付いた。
なぜ気が付かなかったのだろうか。
教科書の名前を書く欄には「鴻上」とだけ書かれていた。