待ち焦がれた音
小学二年生まで、俺は絵に描いたようなサッカー少年だった。
いつ始めたのか、しっかり覚えてないが、物心ついた時にはもう、サッカーボールに夢中だった。
毎日、毎日、朝早くから、日が暮れるまで、近所の公園でボールと戯れた。
たまにサッカーに興味を示す友達が出来ても、あまりの本気度に離れて行くほど。
そのくらい俺は、ボールしか見えてないやつだった。
俺が五歳になると、両親は地元のフットボールクラブに入れてくれた。人数を揃えてサッカーをするのはとても新鮮で、チームならではのプレーがある事を知った。
それでも、必要を感じなければ、基本的にはワンマンプレーをするような子どもだ。
最初のうちは、それで周りの子ども達に疎まれることもあったが、実力を示しているうちにエースと言われるようになる。
チームは、年齢や学年で分けられていたが、幼稚園児の俺は一人、小学生と一緒に練習していた。
コーチは俺の事を「将来有望な選手」として熱心に指導してくれた。
小学校に入学した年、俺は初めて大会に出た。一年生にしては大きい方だったが、周りは高学年ばかり、どうしても体格では劣っていた。
初めての大きな大会に、俺は高揚して、とても楽しくて、無我夢中で走り回った。
結果は準優勝。一番じゃなかったことが、悔しくてたまらず、大泣きしたのを覚えている。普段、どんなに転んでも、怪我をしても泣かない子どもだったので、地団駄を踏んで泣きわめく俺の姿に、周りはドン引きしていたと思う。
それからというもの、俺は二回目の大会に向けて、更に練習に打ち込んだ。
そして、小学二年生、俺を乗せ、二度目の大会に向かう両親の車は、交通事故にあった。
居眠り運転をしていたトラックに、後ろから突っ込まれたのだ。
幸い、両親はほとんど無傷で、兄も乗っていなかっった。
しかし、後部座席にいた俺だけは、救急車で運ばれるほどの重体だった。
あちこちの骨が折れて、血まみれボロボロの俺は、死んでもおかしくないくらいの酷い状態だったという。
再び目覚めることが出来たのは、サッカーで一番になりたいという強い気持ちがあったからかもしれない。
俺の回復力はめざましく、医師には、ほとんど後遺症も残らないだろうと言われた。
「左膝以外は」
それから、医師が怪我の状態について色々説明していた気がするが、あまり覚えていない。聞きたくなかったんだと思う。
我武者羅にリハビリに励んで、絶対にもう一度試合に出るんだと自分に言い聞かせた。
しかし、いつまでたっても、膝が思うように動くことは無かった。走れるけど、遅い。伸びきらないし、しっかり曲がらない。おかしな形で固まっている。
あんなに仲が良かったボールも、まるで他人みたいだ。
「...無理なんだな」
涙は出なかった。ただ、酷い喪失感に襲われて、しばらく動けなかっただけで。
四年生になる頃まで、俺は虚ろに生きていたと思う。
「蒔沙樹、出かけよう」
そんな俺を元気づけたかったのだろう。母はある日、自分の好きなアーティストのコンサートに連れて行ってくれた。
何をする気も起きない俺は、手を引かれるままに辿り着いたコンサート会場で、運命の出会いを果たす。
「あの楽器うちにもある...」
母の趣味のようで、たまに弾いていた。
しかし、ステージの上で男性が弾いているそれは、母が弾いているものとは別物のようにかっこよく見えた。
形が違うから...?違う、もっと別の理由。
楽器じゃなくて、彼が、かっこいいんだ。
生き生きと踊るように、身体全体でリズムを取りながら、十本の指を、右へ左へと走らせる。
座っているのに、彼はなんて自由なんだろう。
汗を流して、楽しそうに演奏する彼が、あまりにも羨ましく、憧れた。
「母さん、あれ、やりたい」
「え...?」
「俺もあんなにふうに弾きたい!」
グレーにくすんでいた世界が、鮮やかに染まっていく。
母の潤んだ目には、生き生きとした自分の顔が映っていた。
サッカーの亡霊だった俺は、この日、生き返らせてもらったんだ。
そして現在、異世界の海底都市で、俺は再び相見えることになる。
つるりとして、緩やかな曲線を描く、屋根。ずらりとならんだ白と黒の鍵盤。
足元に伸びる、三つのペダル。
「ピアノだ...」
祭壇に中に入った途端、流れていた演奏が止んだ。
部屋の中に、海水が入ってくることはなく、空気が満ちていた。
静まり返った白い部屋には、同じく真っ白な美しいグランドピアノが置いてあった。
俺は、我慢できないとばかりに、ピアノの前に置かれている椅子に座った。
軽くストレッチをして、手の赴くままに弾いてみる。
「いい音だ」
チューニングも狂っていない。響きも美しい。
準備運動を終えたら。一度手を膝の上に戻して、すう、と息を吸って心を落ち着かせる。
そっと鍵盤に指を乗せて、静かに弾き始める。
曲は、ドビュッシーの月の光。
どこか寂しげで、幻想的なこの曲は、海底の都にピッタリだと思った。
月光など届かない、暗い海の底で、白く光るこの都は、まるで夜空に浮かぶ月のようだ。
アサヒは、椅子の近くに座って、うっとりと演奏を聞いている。
サッカーが出来なくなって、失意の底にいた俺はこの楽器に救われた。
好きな物には、とことんのめり込むタイプの俺は、今度は家に閉じこもってピアノを弾き続けた。手が大きく、関節が柔らかかったのは、幸いだったと思う。
最初は簡単な童謡しか弾けなかったが、次第に複雑で難しい曲にも挑戦できるようになった。
今世も手がある程度大きくて助かった。一オクターブも難なく押せる。
久しぶりに引いた割に、指も思ったより回る。
自分自身に、リズムや抑揚を指揮するみたいに、体を揺らす。
自分の思い通りに動く指。思い描いた以上に美しい音色を奏でるピアノ。
楽しい!
感情は音に反映される。まるで、焦がれた相手との再会を喜ぶような、ロマンチックな演奏。
「ふぅ...」
弾き終えた俺は、必要も無いのに、思わず息を吐いた。
はぁ...、いい音だった。久しぶりにちゃんと弾けど、意外と覚えてるもんだな...。
よし、次は何を弾こうか。
「うーむ...」
「素晴らしい演奏だったぞ」
「いやあ、どうも......えっ!?」
誰の声だ、と辺りを見渡すが、言葉を話しそうな生き物は見当たらない。
「え、まさか、アサヒじゃないよね...?」
「ばかもの。こっちだ」
じっとアサヒを見ていると、ピアノの方から声が聞こえた。しかし、誰もいない。
え...まさか、喋るピアノ......?
「...ん?なんだこれ?」
目をこらすと、ピアノの上にうっすらと人影が見える。
白い部屋に、白っぽい半透明の姿で気づきにくかったが、これは...人間の女の子...?
「お前を待っていたぞ」
薄らとしか見えない顔で、少女が笑った気がした。
誤字脱字、教えていただければありがたいです。
素人文ですので、意味違いや不適切な表現等あるかもしれません。
その際もこっそり教えていただければ^^
できる限り対応致します!