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空色眼鏡

作者: 縁・日枝

 僕の親は、どちらも両目の視力が二・〇ある。現代人の三人に一人は近視と言われるこの現代日本においては、非常に珍しいと言えよう。

 そのせいか、ともに徹底したアンチ眼鏡主義者だった。一人息子である僕は小学校高学年の時、視力検査で〇.八になった。両親はひどく心配し、僕が全く悪いことをしていないというのに、ひどく怒った。

 それから、僕の日常は一変した。まず、渋くて嫌だというのに、飲めば舌が紫色になるブルーベリーサプリを朝晩飲まされた。学校から帰れば、待ち構えていた母によってホットタオルが目に乗せられる。

 次に、どこで買ったかは知らないが「~先生の視力回復法」というテープから流れる、猫なで声の男にガイドされ、目を上下左右・遠く近くに動かす視力トレーニングを寝るまでに三セットはした。

 他にも、視力回復に効く耳つぼマッサージやら、玉ねぎの皮茶を飲むやらした。

 目に関することならば、僕はご近所にいるどの健康オタクにも負けなかっただろう。

 親の必死な努力も空しく、僕の目は僕より早い反抗期を迎えた。あれよあれよと坂を転がり落ちるがごとく視力は下がり、高校二年次には〇.二にまで落ちていた。僕は、ぼんやりとした毎日を送ることとなった。


しかし、あまり不都合には感じなかった。人は、見えないことに慣れてしまえば、自分から進んで見ようとはしなくなるものだ。

 この頃には、あれだけ熱していた親も諦め「眼鏡でも買うか?」と聞くようになっていた。

(なんじゃそれ。)

しかし、それまで散々言われていた、

「眼鏡なんてぶさいくや!」「眼鏡をしていると、目が怠けるから、視力がどんどん低くなんねんで!」


という昔の言葉が気になり、いや要らぬ・勉強できてる・大丈夫と断っていた。かくして僕は眼鏡なしのぼやけた目で頑張って黒板をガン見し、そして受験期を迎えた。

 後から考えれば、受験生には最悪なコンディションだった。

 それも関わらず、某国立大に現役合格するほど血眼になれたのは、親に迷惑を掛けたくなかったからである。


 入学式から数日経ったある日、僕は、広い大学の校内を右往左往していた。次の授業の教室場所がどうしても分からない。開始時刻は迫りくる。式後の説明会で渡された校内図をくるくる回し、しきりに首を捻っていると後ろから、おずおずと小さな声がした。


「あの、すみませんが、何かお困りなんですか?」

 振り返ると、僕と同じ年位の、眼鏡をした頭一つ小さな女子が見上げていた。僕の持つのと同じ教材と、校内図を持っていた。黒髪を前髪のみ残しシュシュで一つ結びにして、ジーパンに深緑色の春物のセーターを着た彼女は、とても生真面目そうだった。

「えっとその、これから哲学入門一の講義に出るんですが、場所が分からないんです。」

「そうなんですか?その講義なら、私もこれから受けに行くところですよ。よろしければ一緒に教室まで行かれますか?」

 これはありがたい。僕はお願いした。

「すみません。ありがとうございます。この棟に入るのは初めてだったから、ちょっとよく分からなかったんですよね。」

 女の子が微笑む。僕も笑うと目が合った。薄青いフレームに囲まれたガラス越しに映る瞳の輝きに、思わず見とれてしまった。


 後日、英語学の授業で彼女は「下田智子」という名前だとわかった。僕は、下田さんのことが何故か気になった。いくつか授業が被っていたから、その後も何度か彼女を見かけた。

 下田さんは、いつも教室の机の一番前に座っていた。僕も視力のこともあり、前の方の席にいた。いつの間にかなんとなく、ちょくちょく話す仲になっていた。

「下田さんて、本当真面目だねえ。いつも一番前に座っているよね。」

 ある日、僕は聞いてみた。

 「そんなことないよ。黒木君だって、いつも前の方に座っているじゃない。」「いや、僕はあんまり目が良くなくてね。前の方に座らないと、字が良く見えないんだわ。」「え?眼鏡はかけないの?」

 僕は、ぎくりとした。

 「いや、だって・・・眼鏡したら、余計視力が低くなるっていうから、なんとなくしてないんだよね・・・。」

 下田さんは、少し眉をひそめたようだ。だが、僕は視力が低いため細やかな表情が分からない。もっと、彼女の顔がよく見えたら良いのにと、初めて思った。

 こんな僕でも、眼鏡を作らざるを得ない時が来た。運転免許を取るのに、視力の数値が足りない。怯えながら眼科に行き、眼鏡の処方箋を書いてもらうため、検査を受けた。

「え!今まで眼鏡なしで過ごしてたんですか!視力〇・〇八しかないですよ。乱視も少しありますし、眼鏡をかけることをお勧めします。」

 女性の眼科医にびっくりされた。やっぱりそうか。僕も、検査結果を見て渋々現実と向き合った。

 眼科からの帰り道、駅近くのよくCMで見る某眼鏡屋に寄った。出来た眼鏡の度が、これまたきつい。かけるとまぶたがきゅっとなり、目の奥がぐわんぐわんした。まあ、遠くまでよく見えるようになったから、ありがたいと思うことにした。


 眼鏡に慣れるため、僕は教室の後ろで授業を受けるようになった。黒板に目を向けるたび、熱心にノートを取る彼女が目に入る。なんとなく気後れがして、僕は彼女に声をかけられずにいた。自分の眼鏡姿が恥ずかしかった。彼女は今の僕を見たらどう思うだろう。

 後ろの方に座って授業を受けるようになってから一月が経った。ある日授業が終わり、これ幸いと眼鏡を外して、目頭を思い切り押さえていた時だ。

「大丈夫?気分悪いの?最近見ないと思ったら、後ろの方に座ってたんだね。」

 横から、久々に聞きたかった声がした。かすむ目で見ると、下田さんだった。

「うん。この間、眼鏡買ってね。慣れようと思って授業中つけているんだけど、度がきつくて・・・長くかけていられないんだ。」

「えっ、大丈夫?しんどいの?その眼鏡。ちょっと見てもいい?」

 僕が、安物の眼鏡を手渡すと、下田さんはすごく大切なものを持つように、そっと手に取りしげしげと眺めた。レンズの汚れが見えて、かなり恥ずかしい。彼女は、ちょっとためらうように言った。

「あのー、もし良かったらだけど、うちの祖父が眼鏡職人なんだ。黒木君の眼鏡を見せたりしたら、気に障るかな?」

「そうなの?眼鏡職人?へえ・・・やっぱり職人だから、そこらのとは違うの?それじゃあ、ちょっと見てもらおうかなあ・・・。」

 聞けば、眼鏡だけ店に送るのではなく、直接僕の目も見てもらわないとだめらしい。またか。正直、眼鏡なんてどれも同じだと思っていたから、余り興味は無かった。

 だが、彼女が案内すると言ったから喜んでほいほいついていった。大学から電車で一時間位の場所にその店はあった。


 下田眼鏡店は、シャッター通りの一角にあった。すすけた猫が道の隅を歩いている。辺りには、特に観光名所も無さそうだ。彼女といなければ、僕は生涯ここに足を踏み入れることはなかったろう。下田さんが、古めかしく重そうなガラス戸をぎいと押し開ける。

「智子ちゃん、久しぶり。」

 人気の無い店の奥から、七十過ぎのかっちりとスーツを着た男性が声をかけてきた。下田さんの顔が、ぱっと明るくなる。普段滅多に見ない顔だった。僕の胸がちくりとした。

 「おじいちゃん、久しぶり。電話でも言ったんだけど、今日は、眼鏡の検査をお願いしに来たの。大学の知り合いの、黒木君の眼鏡を見てもらいたいの。」

 僕が、おずおずと挨拶しながら眼鏡を差し出すと職人は唸った。

「こりゃあ、素人が作った眼鏡だねえ。こんなもん自分が作ったら、師匠だったらトンカチでぶっ壊してますよ。黒木君、検査する話は孫から聞かれていますか?」

「いや、詳しくは聞いてないです。」

「黒木君が希望するなら、黒木君にとって最適な眼鏡の型を調べるために検査します。検査だけでも結構です。興味が無ければ、それでも構いません。知り合いに連れてこられたからって、無理にここで眼鏡を買う必要もないですから。」


 職人のきっぱりとした物言いが、僕の胸を刺す。それでも何故か、検査を依頼した。店の奥に進み、端にある椅子に座った。次に、いくつものレンズが重なった不思議な眼鏡をかけた。僕は、向かいの端に置かれた器具が映す文字を眺めていた。職人はレンズをいくつも変えながら、丹念に僕の目を測っていく。


「皆さん、近視のことを悪く言いますけどね。本当は近視の目は努力家の目なんです。近視の人の目は、本来近くを見続けるのがしんどい作りになっています。それでも見ようとするから脳がわざわざ作り替えたんです。物を見るのは目ではなく、脳ですから。脳が進んで快適に物が見えるようにしたんです。乱視という言葉もあるけどね、あれも表現が良くない。乱視は、目のスパイスです。決して悪いことじゃない。」

 僕は、ずっと抱いていた疑問をぶつけた。

「親がね、眼鏡をすれば目が怠けるからもっと視力が低くなるっていうんですよ。本当なんですか。」

 職人が顔をしかめた。

「あなたそりゃあ、逆ですよ。」

 何故だか緊張してきた。眼鏡に対する固定観念が、壊れようとしている。

「あのね、確かに目を凝らしていた時よりも、眼鏡をすれば見えなくなります。でもそれが、その人の本来の視力です。目が、無理していたことに気づいてすっと緩むんです。元々遠近両方良く見える人もいるけどね。脚を骨折している人に、あなた、脚が折れていますよって気付かせたら、もう歩けないでしょ。それと同じです。むしろ適切な眼鏡は、目を楽にさせるから、視力を落としません。」

 視力の落ちた自分を、どこか責める気持ちがあった。何だか、救われた気がした。

 職人は話す間でも、ひと時も手を休めなかった。検査はゆうに一時間半はかかった。

「はい。ではこれをかけてみてください。」

 微調整に微調整を重ねたレンズが、そっと僕の目にかかる。世界が、優しく迎えてくれている感じがした。すごい。小さい頃の裸眼みたいに自然に見える。こんなに爽やかな気分は、本当に久しぶりだ。

 感想を伝えようと彼女の方を向いた。彼女は、窓越しに外を見ていた。いつの間にか、また雨が降りだしていたようだ。どこか近くで、騒がしく鳥が鳴くのが聞こえる。

 僕は、自分から進んで眼鏡の作成を依頼した。眼鏡は、元のフレームをそのままに、レンズだけ取り替えることも可能だった。せっかくだから、フレームも見ることにした。中には、僕が最初に買ったのと、そう変わらない値段のものもあった。

 一つ、手に取ってみた。羽のごとく軽い。試しにかけるとつけている感覚がしない。しかも、顔に吸い付くようにずれない。僕ははしゃぎながら首を思い切り左右に振った。

「全く落ちませんよこれ。すごいなあ!」

さっきまで真剣に僕の目を視ていた職人がふっと微笑んだ。

「勿論ですよ。全部、鯖江産ですからね。」「さばえ?どこですかそれ。どこかの外国ですか。」

「福井県にある市ですよ。うちはこれしか扱っていません。中国とかの外国産は、どうしても外国人向けに幅は狭く縦長に作られていますから。顔の骨格のレベルで、日本人が使うにはまず合わないんですよ。」

「えっ。そんなこと、最初に眼鏡買ったところは、教えてくれませんでしたよ。」

「国産は高いイメージがあるから、敢えて説明しなかったのかもしれません。でもね、値段を抑えているものも多いんですよ。安くないと、若い子が手を出しづらくなるから。」

「それじゃあ儲からないじゃないですか。」

「そりゃどこも厳しいですけど何とかやってますよ。世の中ね、儲けだけじゃないんです。鯖江市は、昔から眼鏡のフレーム作りで有名でね。国産の九割は作ってますよ。高いものはsabaeとか書いてあるけど、この書いてないやつだって鯖江産です。どれも、かける人のことを、真剣に思って作られていますから。」


 僕は、こっそり下田さんと同じ色のフレームを選んだ。眼鏡は、一週間位で出来上がるとのことだった。帰り道、僕は下田さんに礼を言った。

「紹介してくれてありがとう。おかげで助かったよ。同じ眼鏡でも、全然違うんだね。」下田さんは、恥ずかしそうに笑った。


 翌日、僕は大学図書館にいた。以前気になった本が返却されているか確認したかったのだ。古書と専門書の香りの中を散策していると、見慣れた後ろ姿がちらりと目に入った。

 並べられた机の一つで、彼女がうつぶせで眠っていた。とても、しんどそうだった。僕はそっとかがむと、彼女の額に手を当てようとし、躊躇した。傍らに、眼鏡が開かれたまま置かれていた。閉じておこうと、手を近づける。瞬間、彼女がふっと目を覚ました。急にやめてと叫び、僕の手を思い切り払った。

「触らないでよ!」

 悲痛な声がこだました。僕は熱湯に触れたように、びくりと手をひっこめる。下田さんははっとすると、目の前で僕が固まっていることに気づき、早口で何度も謝った。

「ごめんね。ごめん。ごめんなさい。」

 彼女は、なぜか涙目になり、ぐっと噛みしめながら俯いた。何だか僕までつらくなる。

「気にしないよ。こちらこそごめん。とりあえず、外に出ようよ。」

 図書館近くにあるイチョウ並木の、青々とした葉陰の下を歩きながら、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。

「私は、小さい頃から眼鏡をかけていて、小学校の頃はよく、それでいじめられたの。ある日、眼鏡を無理やり取り上げられて、目の前で、踏み壊されたことがあって。あまりに悲しいから、ずっと忘れていたのに。なんでまた思い出しちゃったんだろう・・・。」

 ああ、そうだ。僕のいたクラスにも、眼鏡をかけたやつはいた。そいつは、メガネザルと呼ばれていてやっぱりいじめられていた。僕はそれを、見て見ぬふりをしていた。見えないふりをしていたから、本当に見えなくなってしまったのだろうか。お互い、気まずそうに黙りこくる。湿った風の中、早鳴きのセミだけが、いつまでも激しくその身を震わし続けていた。


 眼鏡が出来上がったという連絡が入った。僕は、一人で店に向かっていた。真昼の陽光が、店に暗い影を落としている。職人は、出来上がった眼鏡をすぐに僕に渡さず、フィッティングという最後の調整をしてくれた。

「合わない眼鏡をしている人は、いっぱいいます。今は、安い眼鏡がたくさん出回っているから。でもね、合わないのをつけていると、鬱になったり、精神が病んだりするんですよ。本当の話です。眼鏡は大事ですよ。要はね、その人が快適に見えるようになるのが大事なんです。眼鏡はそれを、お手伝いするだけなんです。」

「眼鏡職人ってすごいですね。そもそも僕は、職人というのにあこがれを感じます。」

 僕がそういうと、職人はしばし逡巡した。

「眼鏡職人になんて、なるもんじゃないですよ。昔は、有り難がられたけどねえ。今は皆、安くて質の悪い店に行っちゃう。儲からないから、職人の数は減る一方です。この県で眼鏡職人は、もう、私一人だけかもしれない。」

 調整が終わり、職人は僕にそっと眼鏡をかけた。世界が急に明るくなり、色がより鮮やかに見える。代金を支払った。最初に買ったものより、二万円高かった。学生には、一万円でも大金である。だが、全く後悔はしない。物だけじゃなく、日本の伝統と、職人の誇りにもお金を払っている気がした。

 その時、部屋の上から物音がした。職人が首をかしげる。

 「さっきまでね、ここに孫がいたんです。店の前に巣食った燕のヒナが落ちちゃって、巣に返したことがあってね。そろそろ巣立つ時期ですから、気になったんでしょう。さっきまで、脚立用意して覗いてみようとしていたのに、黒木さんが来る話したら、急にひっこんじゃったんですよ。」

 そろそろと、階段から下田さんが降りてくる音がした。僕は脚立を借りて、巣を覗いてみた。ややあって、下田さんが後ろでそっと脚立をささえる感覚があった。

「巣立ったみたいだよ。」

「良かった。ちょっと、心配してたんだ。」

 見上げてくる下田さんの強張った顔が、ほっとしたように綻んだ。


 帰りの電車で僕らは、隣同士で座った。僕は、濃くなりゆく山々の緑と、稲田で生き生きと育つ苗が広がるのを見ていた。車両には僕ら以外、誰もいなかった。

「この間は、本当にごめんなさい。」突然、下田さんが呟いた。電車が、小さく震えて揺れる。

「気にしてないよ。・・・それよりも、ちょっとお願いがあるんだけど。」

 下田さんが、こちらを見たのを感じた。

「いつになるか分からないけど、もし、僕が、いつか下田さんに、僕が作った眼鏡をプレゼントするとしたらもらってくれる?」自分の顔が赤らんでゆく。しばらくして、彼女が、微かにうなずく気配がした。

 下田さんは前を向き、ためらいがちにゆっくりと、僕に肩を寄せた。


 僕らはそのまま、ずっと同じ景色を、鮮やかに流れゆく空に淡く光る飛行機雲を眺め続けていた。



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