恋する真由子
最初、真由子の方から、工藤に声をかけて、二人の時間を持つようにした。
礼儀正しいのか、恋愛に奥手なのか、工藤の方からは何のアクションもない。
今までないことで、真由子は新鮮な感動を味わった。
工藤のシフトをチェックして、空き時間に食事に誘ったり、カラオケやパーティーに付き合わせたりした。
そんなときの工藤は、苦笑いしながらも、真由子の我が儘に付き合ってくれた。
優しい青年だった。
この場合、どちらが釣った側で、どちらが釣られた側になるのだろう。
真由子は気付かなかったが、工藤にも、真由子をものにしたいという野心があった。
何しろ、工藤にすれば、真由子と結婚すると、漏れなく田所病院が付いてくるのだ。
他方、真由子にすれば、優秀な医師を余所の病院へ引き抜かれたくない、しかも、将来、田所病院の跡継ぎとしたいという、田所院長(父親)の計略を実現しなければならない使命を帯びていた。
真由子にとって、予想外だったのは、工藤がAZとの約束に縛られていたことだ。
工藤には、将来、AZとともに移住に同行するという約束がある。
この約束がある以上、工藤から真由子にアプローチするのは、信義に反するのだ。
リーダーの遠山は自由恋愛主義者だ。だから、真由子との恋を理由に移住を拒めば、病院の跡継ぎという立場を勘案して、やむを得ないと認めてくれるかもしれない。
だが、メンバーの反感を買うだろう。
工藤は、AZと円満に別れる方策を模索した。
そのためには、真由子の動きが鍵となる。
真由子を掌の上で踊らせて、AZと別れるのだ。
真由子が工藤を釣り上げる作戦を立てた頃、工藤は真由子を操る作戦に出た。
AZたちに気付かれないよう、田所病院に引き留めてもらわなければならないのだ。
当然、作戦はデリケートなものになった。
工藤と真由子は、どちらも、嫌味じゃない程度に相手を意識し、相手に自分を意識させた。
時間と距離を測って、互いに観察し合う。
あまり時間を置きすぎると忘れられてしまうし、急ぎすぎると失敗する。
少しずつ警戒心を解かせて、恋に落とすのだ。
二人の恋のハンターは、水面下で静かに戦った。
夏になる頃には、二人は、休みの日にまで付き合うほど親しくなっていた。
真由子は、ますます工藤が好きになった。
それほど、工藤は、紳士的で洗練されていた。
だが、秋頃、真由子は気が付いた。
休みの日、工藤にはAZの用事が入るのだ。
そのせいで、真由子の誘いを断ることが続いた。
面白くなかった。
始めは、他の娘とのデートだろうか、と疑った。
きれいな女性と並んで歩いているのを見かけたからだ。
だから、あえて、正攻法で訊いてみた。
「工藤先生、私、見ちゃったの。
この前の日曜日。そう、私とのデートを断った日のことよ。
あなたがきれいな女の人と歩いているところ、見てしまったの。
あの人、一体誰なの?
私とのデートを断って、あの人と何してたの?」
ここは、工藤の不実を糾弾するのじゃなく、少し上目遣いで、甘えるような口調で、説明を求めるのだ。
他の女と付き合うなんて許さない、と言うのは、工藤の説明を聞いてからだ。
許すも許さないもない。まだ、ステディな関係じゃないのだ。
工藤に恋人がいても真由子が文句を言う筋合いじゃない。
だが、真由子は、工藤と自分の関係をはっきりさせる良い機会だと判断した。
そして、いつもの女王様な気分で、さりげなく工藤を批判したのだ。
頭の良い工藤のことだ。これだけで、真由子の意図を分かるはずだ。
結果は、あっけないものだった。
「あれは、AZの小林さんだよ。
土曜からAZのみんなでキャンプに行ったんだ。
みんなは、月曜までいたんだけど、僕と小林さんは仕事があったから、日曜の昼頃こっちへ帰って来たんだ」
説明を聞けば、何のことはないことだった。
でも、AZは、キャンプなんかするのだ。興味が湧いた。
「AZって、キャンプなんかするの?」
「するよ。春頃から秋頃まで、何回も行ってる。あの連中の仕事みたいなものだ」
「仕事って?」
「浮遊薬を菱田商事が売ってくれるようになったから、キャンプに行くようになったんだ」
「何のために、そんなことするのかしら?」
「知らない。
でも、楽しいから良いんじゃないか」
「そういうものなの?」
「そういうものなんだ」
それから、キャンプの話を聞いた。
結構たびたび出かけているようで、場所も、ほぼ決まっているらしい。
ただ、興味深いことには、出かける先が、普通のキャンプ場じゃないという。
変わった集団だと思った。
あのとき、小林のことをはっきりさせたのは、成功だった。
その後、婦長から小林の名前を聞いたからだ。
工藤の説明を聞いていなかったら、嫉妬に狂うところだった。
真由子は、婦長の口から、小林が青山医院の看護師をしていて、田所病院の看護師と親しいことを知った。
青山医院は、規模の小さな医院で、外科の看板を揚げてはいるが、実際は、内科、小児科、皮膚科、何でもござれの昔ながらの町医だ。
工藤の下へ、時折、AZのメンバーと思しき男女が出入りするが、小林もその一人だった。
婦長は、たまたま小林に会って、いたく気に入ったらしい。
小林を田所病院に引き抜きたいと、真由子に漏らした。
AZは、見てくれだけじゃなく、仕事面でも優秀だから。
婦長はそう言った。
確かに、工藤は優秀だ。しかも、男前だ。
AZのメンバーがみな、優秀で容姿が良いなら、真由子を相手にしてくれるだろうか。
真由子は、ふと、恐ろしい事実に気が付いた。
デートに誘うのも、電話するのも、真由子の方からだ。
工藤の方からのアクションはない。
工藤は真由子に優しい。
だが、それは礼儀であって、恋愛じゃないのだろうか。
突然浮かんだ疑惑は真由子を苦しめた。
真由子は、こんな経験をしたことがない。
周りは、いつも真由子の機嫌をとった。
自分から行動を起こさなくても、向こうから真由子の意を汲んでくれた。
それが、工藤には通じないのだ。
工藤が自分から行動を起こさないのは、真由子が院長の娘だからだ。
礼儀を守っているのだ。
そう思おうとした。
雇い主の娘に手を出すのは、リスクが大きい。
上手く行けば良いが、下手すると職場に居辛くなるし、クビにだってなりかねない。
社会人としては、当然の配慮なのだ。
だが、それは、満足できる答えではなかった。
現に他の医者は、真由子にデートに誘ってくれるのだ。
真由子は、背中に嫌な汗をかいた。
これまで経験したことのない切迫感に耐えきれず、工藤の勤務時間が終わる頃、外科の診察室を覗いた。
恋愛に翻弄されるのは、真由子にとって初めての経験です。




