AZビルでの毎日
少しずつAZのメンバーの個性が分かってきます。
その日、配達から帰ったとき、会議室のドアが少し開いているのに気が付いた。
何気なく通り過ぎようとすると、中から、ささやき声やあえぎ声とともに淫靡な音がする。
明らかにキス、しかも本格的でディープなキスをしている気配だ。
若い男女が集団で生活しているのだ。そういうこともあるのだろう。
無理矢理納得したとき、事務室から出て来た遠山と鉢合わせした。
遠山は、工藤の様子に気が付いて、会議室に向かって声をかけた。
「おい。そんなことするなら、きちんとドアを閉めるんだ。工藤にバレバレだぞ」
そうして、工藤を振り返ると、ニヤリと笑った。
「ドクターの卵は、純情なんだな。
だけど、恋愛って、こういう過程を経て育つんだ。
ドクターには、育った恋愛の果実の面倒をみてもらう予定だけど、ドクターの心が純粋だってのは良いな」
相手の心を見通すような鋭い目が工藤の目をとらえた。
場合が場合だ。こいつは、絶対、俺がキスシーンを覗き見したと思っている。
「言い訳するようだけど、見てないから。
何か様子が変だなって思ったら、あれが聞こえたから、遠慮したんだ」
「そうか?別に見られて困るなら、こんな所でしなけりゃ良いんだ。
でも、お前がウブで謙虚だってことは、よく分かった。謙虚なことは、良いことだ」
確かに、AZ全員が束になっても、かなう相手じゃない。
ここは無難に、話題を変えた方が良いだろう。
「珍しいんだな。今日は、もう仕事が終わったのか?」
「ああ、岩崎さんとこと内々に契約が成立したんだ。
後は、Dが事務的に処理してくれることになってる。
ワタシは、先遣隊みたいなものだ。あいつが契約をする前に、先に地ならしするのが仕事なんだ」
「でも、CEOなんだろ?」
「そういうことにしておかないと、向こうが相手にしてくれないだろ?
ただの事前調査員だっていったら、まとまる話もまとまらないじゃないか」
工藤は、この言い方に騙された。
遠山は、どんなに難しい案件でもまとめてしまうのだ。
AZの事業、特に会社の事業が成功しているのは、遠山の力によることが大きいのだ。
「Dじゃなく、君が、AZのリーダーだって、どういう意味だ?」
「そのままだ。AZの言い出しっぺがワタシだってことだ」
「じゃあ、この壮大(心の中で、『かつ、荒唐無稽な』と付け加えた)な計画を立てたのは、君なのか?」
「壮大かどうかは別として、最初にそういう計画を立てたのは、ワタシだ。
ただ、言い出したのはワタシでも、今の形に練り上げたのは、全員だ。
三人よれば文殊の知恵って言うだろう?」
工藤が遠山のすごさを知るのは、ズッと後のことだった。
専門課程の講義が始まって、工藤は小林にレクチャーするようになった。
毎晩顔を合わせると、少し気が強い感じがするものの好感の持てる娘だということが分かった。
工藤の説明を真剣に聞いて、分からないことを積極的に尋ねる。
これまで会ったことのないタイプだ。
工藤は、少なからず小林に惹かれる自分に気が付いた。
食事係の渡瀬も、辰巳を女にしたような穏やかで繊細な少女だ。
小作りな顔立ちは、派手ではないが、それぞれのパーツが美しくバランスも好ましい。
世間で言うとおり、AZはレベルが高かった。
夏中、農園へ研修に出かけていた浮遊薬販売要員の中村未来や吉本佐織もそれぞれ異なった魅力があった。
このあたりで手を打てば、楽しい恋愛ができるのだろう。
だが、朝食のテーブルで、森が遠山と話をしているのを見ると、もうダメだった。
あの二人、特に森以外目に入らないのだ。
森の心が、遠山にあるというのに。
あるとき、三階の談話室で、女子がこそこそとささやきあっているのに、出くわした。
何をしているのか訊いてもも教えてくれない。
工藤の弟子として、全幅の信頼を置いてくれている小林でさえ教えてくれないのだ。
一同がクスクス笑いながら席を立つと、辰巳が工藤の袖を引いた。
「大輔、女子のお楽しみの邪魔しちゃダメだよ。
ここは、知らんぷりして通りすぎるところなんだ」
「どうして、知らんぷりしなくちゃならないんだ?」
「彼女たちは、僕たちの誰と誰があやしいって、妄想して遊んでるんだ」
「誰と誰って?」
「例えば、君と僕があやしいとか、CとF――つまり、藤本のことだ――ができてるとか、DとGがどこまでの関係かってこととか、そういうことだ」
「男同士だぞ」
「だから、妄想なんだ。近頃じゃ、それがトレンディらしいよ。男と男による無償の恋。愛と信頼を確かめるためだけの不毛なエッチ。そういうのが、流行らしいんだ」
あきれて、ものも言えない。
AZの男どもは、女たちのそういう仕打ちを甘受しているのだ。
「お前、肴にされて腹が立たないのか?」
「始めは驚いたよ。でも、すぐ慣れた。
ハルなんか、連中からその手のCDを聞かされて往生してた。
朝っぱらから、男同士の喘ぎ声なんか聞いても疲れるだけだって」
お気の毒に。
工藤は、心の底から同情した。
「今、気が付いたんだけど、遠山は、そういう遊びには出て来ないのか?」
「ハルは、神聖不可侵なんだ」
何となく説得力がある説明だった。
だが、このとき工藤は、辰巳が遠山の性別を明確にしていないことに気が付かなかった。
いや、むしろ、辰巳は、あえてそういう説明をしたのだ。
工藤は忘れていた。
ときどき、辰巳はタヌキになるということを。
AZ一同にとって、遠山は天使だ。
天使は世俗のアカにまみれてはならない。
超然と天空に留まり、気象予測のシミュレーションをして、一同に道を示すのだ。
そのカリスマ性を合わせて考えると、まるで新興宗教の教祖さまのようだ。
そう言えば、気が付いたことがある。
あれほどの美しさなのに、女たちは、誰も遠山を恋愛対象として見ないのだ。
女たちだけじゃない。男たちだって、遠山を恋愛対象として見ないのだ。
一同は、遠山をリーダーとして崇拝していた。
AZビルでの生活にも慣れた頃、工藤は、遠山の私室が五階のどこにもないことに気が付いた。
男だと思っていたが、本当は女だったのだろうか。
だから、私室が五階にないのだろうか。
執務室も社長室や事務室はあるのに、CEOの部屋はない。
事務室にデスクがあるのかといえば、そうでもないらしい。
一体どこで寝て、どこで仕事をしているのだろう。
小林に訊いたら簡単に教えてくれた。
「仕事は、一階の研究スペースに専用のパソコンを置いてるの。
もともと、CやナツやGと一緒に仕事してたから、あの三人と一緒の方が落ち着くんですって。
で、そうなると、あそこで寝てしまったり、三階の道場や射撃室で寝てしまったりするから、三階の隅にあの人の部屋を作ったの。
その方が便利でしょ?」
そう言えば、三階に畳敷きの道場や射撃室があったことを思い出した。
メンバーがみんなで利用すると聞いた。
工藤にも稽古の誘いがあった。
まるで、住人にだけ開放された会員制スポーツクラブのようだ。
共用スペースにそんなものを作る趣味が分からない。
百歩譲って、道場は利用するにしても、射撃室なんか、銃弾の費用だって馬鹿にならないだろうに。
「つかぬことをお尋ねするが?」
「何でしょう?」
とってつけた訊き方をすると、とってつけた返事が返って来る。
この辺は、小林もAZのメンバーだ。
「あの道場とか、射撃室って、何のためにあるんだ?」
「護身術を身につけるために決まってるでしょ。
将来、食料難になったら、食料を持ってる人間は襲われるの。
特に、AZは食料を持っているから、格好の標的にされるわ。
だから、自分たちの身は自分たちで守れるようにならなきゃならないの。
ほら、『七人の侍』って映画でも農民は自衛してたでしょ。それと同じこと。
ウチの場合、侍を雇うことができないから、自分たちが侍になる必要があるの」
「誰がそんなことを考えたんだ?」
「考えたんじゃなくて、事実なの。実際、浮遊薬の売上げ金を奪われそうになったことだってあるんだから。
これが食料危機になったらどうなるか、火を見るより明らかよ」
工藤はそれまで、三階の端から端までを使った細長い射撃室の存在を不思議に思っていた。
だが、今の説明で、その存在理由に納得できた。
ったく。何考えてるんだ?この集団は。
頭が痛い。
でも、遠山が道場や射撃室での練習に一番熱心だと聞いて、何となく頷けた。
あの体だ。
誰かに襲われたら、一発でアウトだ。
足手まといになりたくないのだろう。
今まで、仰ぎ見ていた存在が、何となく近しく感じた。
そう口にすると、小林が言下に否定した。
「違うの。ハルは、保安官になるつもりなの。
だから、何かあったら、自分がみんなを守るって言ってるの。
そのために頑張ってるんだから。
実際、メンバーの中で一番強いのよ。
藤本くんなんか少林寺拳法四段だし、神崎くんなんか射撃部からオファーがくるほどの腕前なのに、あの人たちよりハルの方が強いのよ」
数日後、偶然、神崎が遠山を肩に担いで運んでいるのを見かけた。
浮遊薬をスプレーしたのだろう。毛布を運ぶより軽々と持ち上げている。
きっと、仕事に夢中になっていて、そのまま寝入ってしまったのだろう。
とんでもないヤツだが、自転車の曲乗りといい、ガキみたいなところがある。
純情な工藤には、AZでの生活は刺激が強すぎるようです。
負けるな工藤。




