岩崎和巳
AZは、浮遊薬を大々的に売るため大手企業と交渉します。
岩崎和巳は、旧財閥系の菱田商事の会長の孫です。
小さい頃から、帝王学を仕込まれて育ちました。将来、菱田グループの総帥となるためです。
旧財閥の御曹司という出自のほかに、頭脳明晰、しかも容姿にも恵まれています。
おかげで、その場限りのお付き合いは数知れませんし、正式に付き合った女性の数だって軽く十指を越えています。
彼は、東京大学法学部を優秀な成績で卒業すると、お約束どおり菱田グループの中枢である菱田商事に入社して、様々なセクションで経験を積みました。
そうして、入社六年目の二十八の年に、新商品の開発を命じられました。
新商品の開発といっても、自分で発明する必要はありません。埋もれている商品を見つけ出して販売することが、求められた仕事なのです。
岩崎がその商品を見つけたのは、全くの偶然でした。
大学時代の後輩が試合に出るというので、応援に出向いて出会ったのです。
彼は、剣道と茶道をたしなんでいます。
人生において、精神性の高い趣味が必要だという祖父の勧めによるものです。
だから、高校、大学を通じて剣道部に所属していました。
件の後輩は、子供の頃から親しい男です。
今年は、順調に予選を勝ち上がり、全国大会に出場するという報告がありました。
前回の出場から実に四年ぶりの快挙です。応援に行かないわけにはいきません。
軽い気持ちで出かけた岩崎は、会場の武道館で目を剥くような光景を見ました。
試合が終わって帰ろうとする選手が、防具に謎の薬をスプレーすると、防具がまるでヘリウムガスの入った風船のように浮いたのです。
唖然としました。
岩崎は、試合のことも忘れて叫びました。
「君、それって、一体、どうなってるんだ?」
その学生によれば、この春頃からの流行だそうです。
でも、重い荷物にスプレーして宙に浮かべるなんて、一体、誰が考えたのでしょう。
誰がそんなものを発明したのでしょう。
翌日、出社すると、岩崎はあの謎の薬の出所を探しました。
それこそ、必死になって探したのです。
昨日の出場者全員に尋ねて、どこから入手したのか調べたのです。
それは、大会関係者に彼らの連絡先を教えてもらうところから始めなければなりませんでしたが、個人情報として拒否られ、それぞれの出場校を通じて問い合わせなければなりませんでした。
でも、そこでも、個人情報という壁があって拒否られてしまいます。
結局、正式に学校に依頼して、学校から学生に対して問い合わせてもらうという迂遠な方法を取らざるを得ませんでした。
薬の利用者は、十四人いました。
でも、それぞれ、違う経路で入手しているのです。
大学の友人から譲ってもらった者、近くの高校の生徒会から買った者、商店街の文房具屋で買った者等様々です。
中には、近所の八百屋で買った者までいました。
その結果、あれは『浮遊薬』と呼ばれる薬で、地方の大学の学生グループの会社――株式会社AZ――が製造販売していることが分かりました。
早速、最寄りの支社に命じて、連絡を取らせました。
支社の担当者である吉村は、件の大学の卒業生でした。
でも、株式会社AZのことは、全く知らないのです。
どうやら、吉村の卒業後入学した学生たちのグループのようです。
岩崎が連絡を取ろうとした頃は、AZが浮遊薬を学生生協に置かせてもらう前でした。
メンバーが直接販売していましたので、連絡先をつかむのは至難の業だったのです。
何しろ、どこからともなく現れるメンバーが売っているとしか、説明のしようがなかったからです。
吉村がAZとどうにかこうにか接触できたのは、年が明けた頃、AZビルのリフォームが終わってAZが本格的に活動し始めた頃でした。
吉村は大滝と何度か交渉しました。その席で、AZから、浮遊薬の製造販売権の見返りとして、とてつもなく非常識なことを求めると言われたのです。
できるだけ早い契約締結を迫る岩崎と非常識な要求を仄めかすAZの間で板挟みになった吉村は、にっちもさっちも行かなくなって、岩崎その人の応援を求めました。
AZの要求がどの程度のものか分からない以上、さほど権限のない吉村には、交渉を進めることができなかったからです。
こうして交渉の場に引っ張り出された岩崎は、吉村からの報告に興味が湧きました。
報告によれば、まず、AZはメンバーを容姿で選んでいるらしいのです。
そのため、入社希望者が多いにも関わらず、メンバーは十人程度に留まっているというのです。
バカじゃないか?学生の活動は、数で決まるんだ。
交じりたいというなら、全員巻き込んで、大きな運動にすれば良いんだ。
でも、可愛いと言えば、可愛いかも。
それが、岩崎の感想です。
次に、AZには、株式会社AZの社長の大滝の他に、AZ全体を統括するリーダーがいるというのです。
学生達が自分たちで起業するのは、よくあることです。
でも、社長の他にリーダーを置く意味が分かりません。
そんなことをすれば、指揮命令系統が重なって混乱を招くだけです。
一体、何考えているんだ?
もしかして、何も考えていないのか?
吉村の報告には、こうともありました。
これまで、いくつかの企業がAZに接触し、ことごとく失敗しているようだというのです。
中には、浮遊薬を発明した男を一本釣りしようとした会社もあったというのです。
浮遊薬の権利を得るためには、あくまでもAZのリーダーと交渉しなければなりません。
しかも、その交渉には、とてつもなく非常識なことを求めると公言しているのです。
これが、吉村が岩崎に応援を求めた理由でした。
吉村の報告を受けた岩崎は、向こうの要望が何であれ受け入れよう、AZが何をどのように考えていようが、浮遊薬の権利を買い取ることができればそれで良い、と足を運んだのです。
約束の日、約束の時間。新装開店のAZビルの応接室。
吉村に伴われた岩崎がソファに座っていました。
彼は少し前に到着して、浮遊薬の製造現場を見学しました。
工場スペースの側に研究スペースがあって、そちらを見ると、ビン底眼鏡の男がパソコン画面を睨んでいました。少し離れたところで、銀縁眼鏡の理知的な美女が、分厚い専門書を拡げてブツブツ言っています。その脇でボサボサ頭の男(身なりを構えば、もっと男前に見えるのに)が、何やら薬品を混ぜて、バーナーで加熱しています。
工場スペースで働く二人に唖然としました。
一人は、可愛らしい顔立ちの見るからに感じの良さそうな少女です。
もう一人は、長い髪をポニーテイルに結んで腰まで垂らしています。可愛い娘に何か尋ねられて、振り返ったその顔は、東京でも滅多に見かけない美貌でした。
事務室のメンバーも美男美女揃いで、吉村の報告どおりでした。
今、目の前に座っているのは、三人です。
一人は、浮遊薬の発明者で、先ほど一階の研究スペースで薬品を混ぜていたボサボサ頭の男で、山本賢治といいます。
もう一人は、スタイル抜群でモデルにでもなりそうな男前、株式会社AZの社長、大滝大悟です。
驚いたことに、この男、社長なのにコーヒーを運んで来ました。
最後の一人は、株式会社AZのCEOの遠山ハルで、AZグループのリーダーだというのです。
遠山が現れたとき、岩崎はその美しさに感動しました。
吉村も会うのは初めてのようで、隣で息を飲むのが聞こえました。
そう、遠山は天使のような容貌だったのです。
三人の存在感は、半端じゃありませんでした。
とりわけ、遠山の存在感は圧倒的でした。
メンバーを顔で選ぶという理屈を学生らしい可愛らしさだと馬鹿にしていた岩崎ですが、どうしてどうして、これだけのレベルを揃えるのは並大抵のことではないと思いました。
どうやら、AZは、可愛いだけではないようです。
浮遊薬がブレイク中ということは、メンバーの中には、経営手腕のある学生もいるのでしょう。
でも、これから先を考えると、岩崎が取る手は、二つに一つです。
一つは、ブレイク中の浮遊薬の権利を菱田商事に譲り受けて、メンバー全員を菱田グループで雇う方法。
もう一つは、優秀な人材と技術を擁する企業として、AZを菱田商事の傘下に加え、経営や新商品開発の指導を行う方法です。
いずれの場合も、メンバーの中に使える人材がいるなら、岩崎の部下として引き抜くつもりです。
将来、菱田グループの総裁として働くために、優秀な部下を集めるのは当然の使命だからです。
中心人物を引き抜かれたAZがどうなるかは相談する必要がありますが、岩崎にとっては、後は野となれ山となれです。
ただ、AZの要求するものがどのようなものであれ、菱田商事としては全面的にバックアップするつもりでした。
菱田商事は国内最大手の商社です。やろうと思えば、やれないことはありません。とりあえず要求を全面的に受け入れ、時間をかけて懐柔していけば良いのです。
どちらにしても、菱田商事は浮遊薬の製造販売権を手に入れ、上手く行けば、優秀な人材もゲットできます。
ビジネスチャンスでした。
浮遊薬の説明を終えた山本が退席すると、二対二の交渉となりました。
AZに好感を持った岩崎は、真正面から口説きました。
二案のうち、どちらが良いかを尋ねたのです。
メンバー全員の菱田系列への採用と、会社への指導のどちらが良いか、と。
どちらにしても、菱田商事が責任を持って浮遊薬を売ると約束しました。
さあ、AZ。僕が出て来たんだ。遊びは終わりだ。
どっちに、する?君たち自身に選ばせてあげよう。
菱田商事の御曹司の登場です。ごく常識的な人物にとってAZは衝撃的な存在です。彼の常識はことごとく覆されることになります。
 




