あいまいな恋と電話
「あれ、いちるちゃんに、幸ちゃん……」
すっかり授業も終わった午後、三月は工学部の部室を、まるく曲がった廊下からのぞいていた。なぜなら、幸治といちるが共に、作業をしていたからだ。
「……、……」
「…………? ……」
ガラスで仕切られた部屋の向こう、2人はなにかを話し合っている。厚い壁も相まって、それは全く聞こえないのだが。
そのとき、理由はわからないが、三月の心に虚無的なものが生まれた。今まで自分がつみ上げてきた努力が、砂ほどの大きさにも満たない一瞬で、吹き飛ばされてしまうような。そんなむなしさが。
「いや、違うな」
三月は体ごと頭をふって、そう1人でつぶやいた。つんできたのは、努力ではない。個人の気持ちだと。そんなものはくずれ去るのが妥当だ。
そしてその気持ちというのは、三月自身、「恋」と認識していた。本当はもっと、最適な別の言葉があるのかもしれない。けれど三月はこれを、恋だと思いたかった。
それ以外に女が男に執着する理由を、三月は知らなかったのだ。
三月は幸治が、大好きだった。いや、現在進行形で、大好きなのだ。
「……よし、決めた!」
三月はこの複雑な思考を、やめることにした。「わからないことは聞く」。高校の担任の口ぐせが、三月にも感染っていたらしい。
♦︎ ♦︎ ♦︎
「あの、三月ちゃん?」
部活終わり、逢魔時と呼ばれるころ。いちるが、変なものをみる目でそういったのは、文字通り、三月が変なものらしかったからだ。
「……そして、彼女は最後にそう言ったの
だ。結婚してください。ぼくの瞳からは、
とめどなく涙があふれ……」
「あの! 三月ちゃん聞いてる?」
「ふぁっ! あ、いちるちゃん」
「なにしてはるんですか」
「はは、あのねぇ……」
部活動が終わるまで、暇を持てあましていた三月は、愛読書を小さな声で音読していたのだ。のども使わず、空気のかすれる音のみで。
おかげですっかり集中してしまって、時間の確認も忘れていたらしい。
カッ、カッ、カッ。2人はいっしょに歩き始めた。
「ねえ、ちょろっとカフェいかない? とい
うか、いって! お願い!」
「あ、やけど、そのぉ」
いちるはどもった。カフェにいくことについて、心配事があったのだ。三月はそれを察し、いちるの手をぱっと取った。
「大丈夫だいじょうぶ、おごるよ。私はお近
づきになりたいの」
「あっ、おおきに――いえ、ありがとうござ
います。私も三月ちゃんのこと、知りたい
です」
「うん! おいしくてお洒落で、とってもい
いところがあるから」
女子の特性というやつだろうか。今日あったばかりなのに、仲がとても深いようにみえる。これは三月の積極的な性格もあり、いちるの柔軟性もあるだろう。
いちると三月は、大学の敷地内を出た。カフェまでは10分ほどしか歩かないのだが、それに見合わずだいぶ話しこんだ。
片方にはビルがそびえており、左には小さかったり大きかったりする店が点々と並んでいる。地面はもちろん、舗装されたアスファルトだ。
「ここらへんって建物もあるけど、緑も多い
ですね」
「うん。みんな都会と田舎のあいだって、若
干自虐してるけどね」
「それっていっぺんに味わえるって事ですよ
ね。ええと思いますよ」
「そうかなぁ、私としてはどっちだよっ!
って、はっきりしてほしいけどね。ふふ」
「たしかに、ごちゃ混ぜはいやですね」
お互い、カフェで話すはずの本題にはあえてふれず、いちるの地域についての質問に、一問一答形式で三月が答えていった。
それは予想以上に盛り上がり、ついには三月が身ぶり手ぶりしたり、検索した画像をみせたりしていた。閑静な住宅街、というほどではないが、2人の笑い声はビルや店を超え、響いていた。
「あーあれあれ、どう? お洒落でしょ」
三月は質問を切り、白くペンダコのある指で店をさした。落ち着いた木目調で囲まれ、名前もわからない観葉植物が植えてある。大ガラスの向こうには、これまた木目調のイスが数脚みえる。
「うわぁ……こじんまりとしてますけど、そ
れが逆にええ感じに思えますね」
「でしょ、秘境っていうか、通って
いうかね」
「大人になった気分ですね。早速入りまし
ょ」
気分だけおしとやかにした、三月といちるは、受付をすませた。案内されたのは、さっきまでみていた、大ガラスのそばの席だ。
いちるは興奮して高ぶる気持ちを、注文が終わるまでなんとか抑えた。
「ねね、いちるちゃんなに食べたい? は
い、メニュー」
「えっ……と。あ、この、『幸福のパンケーキ』、をお願いします」
「なるほど、それじゃあ私はね。うん、『い
ちごのサクサクタルト』と、『さっぱりた
っぷりモンブラン』。お願いしまーす」
慣れず注文するいちるに反して、もうすぐ常連といったところの三月は、すらすら暗唱をするように注文した。
雑誌で特集されるような格好をした、女性店員は、「ご注文は以上でよろしいでしょうか」と、テンプレートの文を発した。
「あっ、後もう1つ。『カフェラテ』と『マ
ンゴー&オレンジジュース』、お願いしま
す」
「わかりました、以上でよろしいでしょう
か」
「はい、ありがとうございましたー」
店員は厨房らしき場所に向かい、紙を棚の側面にはった。調理をすると思われる男性は、それをちらりとみると、後は一心不乱に作業を続けた。紙をもう一度みることはない。
いちるはそのプロ意識に感心し、しばらくぼうっとしていた。初めての土地での初めてのカフェという、緊張の場面だからというのもあるだろう。
「いーちーるちゃん、もういいかい」
「あ、はい。すんません」
「さっきはここのこと聞いてくれたからさ、
次は私のことでも聞いてよ」
「はい、じゃあ。さっきのご飯中の自己紹
介、続きをお願いします」
「お、いいよ。伊乃三月と申します。部は
ね、文学部の日本文学科だよ。ちなみに幸
ちゃんとは、高校からの仲なんだ。それじ
ゃあ、よろしく!」
注文の品はまだこない。けれど2人の女子はそれを逆手にとって、さらに親密になっていった。夕日が奥に座るいちるをめがけ、美しく照り飾っている。
「それであないに仲よかったんですね。ほ
な、趣味とかってあるんですか?」
「趣味ねぇ。好きなことなら、タイプライタ
ーで文を打つことかな。ほら、私文学部っ
ていったでしょ。文学部には昔のタイプラ
イターが、名残としてあるの」
「タイプライター……パソコンみたいにキー
を押して、文字を点字みたいに打つんでし
たっけ?」
「まあそんな感じ。打つときの『カシャッ』
みたいな音が、病みつきになるんだ」
いちるが三月を、深く知り始めたころ。注文した一式がまとめて届いた。先ほどの女性店員が、1つのお盆から次々と甘い魅惑を取りだす。
「わぁ、やっぱりおいしそう!」
「三月ちゃん、私の飲み物がマンゴー? な
んやけど」
「それは私のおすすめだよ。すっごくおいし
いから飲んでみて」
女子の心を惹くスイーツの前に、自己紹介は勝てなかった。いちるはすすめられた通り、マンゴーとオレンジのジュースを口に運び、三月は待ちに待ったタルトをほおばった。
「ん〜! 安定した甘さ、おいしい!」
「ジュースもさっぱりして、甘くて、気にい
りました!」
「それはよかったよ。パンケーキも甘いか
ら、食べてたべて」
「三月ちゃん、2つも頼んで食いしん坊なん
ですねぇ」
「疲れたあとの脳ってのは、糖分を欲しがっ
てるものだよ」
甘いスイーツに酔い、7割ほど食べ終えるまで感想以外の口をきかなかった。名前の通り、幸福そうに食べるいちるたちの姿に、店員たちはほほ笑んでいた。
その甘さは、いい意味で麻薬のようで、三月は本来の目的を忘れかけていた。その目的を実行したのは、カフェからでた別れ際だった。
「今日は色々、おおきにでした。これから、
よろしゅうお願いします」
「はい、こちらこそ、よろしゅうね」
「あ、三月ちゃん」
「ごめん、下手くそだった?」
「失礼かもですけど、可愛かったですよ」
「それは嬉しいなあ」
いちるは、三月のその応答を聞き終えると、「ほな」といって後ろを向いた。
「あ、いちるちゃん。最後に1個答えてもら
っていい?」
「はい、なんですか」
「あのさ……幸ちゃん、どう」
「どうって、いうのは?」
「だからその、失礼してないかって。いい先
輩なのかってこと」
三月はこのとき、告白した卓司の気持ちを理解した。この数文をいうのに、大決心が必要なことを知った。今度は三月を夕日が照らし、薄紅に染まるほおを隠している。
「ええ、えらい良い先輩ですよ。安心してく
ださい」
その少しの言葉を聞くと、三月はある程度胸をなでおろした。「そっか」とお礼がわりにいい、「また明日」と、帰路に着こうとした。
けれど三月の気持ちは、当然に砕けちったのだ。少しの言葉によって。
――それこそ、惚れてまうほどにね。
お読みいただきありがとうございます。
ほんの僅かずつ、不穏な空気が流れ始めてきました。