願いの代償
ぬるり、と握った手から滑り落ちそうになるスマホを必死で掴みながら、彼女は震える指で番号を押した。
視界は霞み、数字が正確に映る事は無かったが、たった3桁の110を押せば良いのだ。
そう自身に言い聞かせ、崩れ落ちそうになる意識を必死に繋ぎ止め、耳に届くコール音に縋りついた。
早く…お願い出て。
…助けて。
「…はい」
コール音が途切れ相手が応答した瞬間、ピンと伸ばされた糸が限界を超えたら脆く切れるように、張り詰めた彼女の意識はそこで途絶えた。
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「…ようこそ」
耳朶に響くその声に彼女がはっと我に返ると、少し離れた先に1分の隙も無く黒いスーツを着こなした壮年の男性が立っていた。
「…っ!?」
思わず喉の奥で悲鳴を上げて小さく仰け反った彼女を、男は無表情のまま醒めた瞳で見ていた。
「我が店に電話をしたのはお前だろう?
…その願いが店に認められた」
「…電話?」
慇懃な態度で告げらたその言葉により、自身の身に起きた事を思い出した彼女は瘧にかかった様にブルブルと震えだした。
「た、助けて!!助け…」
震え、取り乱した彼女は目の前の男にしがみ付き、必死で言葉を搾り出した。
「…代価を差し出すなら、叶えよう」
必死に縋り付く眼差しを向けられ、しがみつかれた腕に無意識に爪を立て力一杯握りしめられても、男の表情は全く変わらなかった。
男は淡々と低い声でそれだけ告ると、自分にしがみ付く女を無造作だけれど乱暴では無い仕草で振り払い、傍にあった椅子に女を座らせた。
「さて、何を希う?」
「あ…たすけて、くれ…る…」
「叶えよう、と言っている。…何だ?」
不意に男は後ろの空間を振り返り、声を掛けた。
すると、何も無い空間から、少年が音も無く滲み出るように現れ、悪戯っ子めいた笑みを口に浮かべながら滑るような足取りで近づいてきた。
「おねーさん取り乱してるし。落ち着かなきゃ願い、聞けないでしょ?」
はい、熱いからね。
無邪気な口調で告げながら少年は彼女に手に持っていたカップを無造作に渡した。
助けを求める事しか頭に無さそうな人間に渡すには考え無しすぎる態度だったが、彼女は何故か素直に受取り、ゆっくりとそれに口をつけた。
「…美味しい」
一口、二口ゆっくりと啜った後、彼女はようやく顔を上げ、少年にぽつり、と告げた。
カップを包んだ手のひらにじわりと広がる温もりと、お腹に届いた温もりが、彼女の心を少し弛めた。
「うん。お茶入れるの得意なんだ」
ボーイの格好をした少年は得意そうにニッと口の端を上げるとそう応え、それから役に立ったでしょ!?という瞳を男に向けた。
男はその視線を無言で受け流すと、もう一度口を開いた。
「それでお前は何を希む?」
「…私。さっき変な男に追いかけられて、それで必死に逃げたの! でも追いつかれそうになって110番しようとして…」
再度震えだした女にめんどくさそうな瞳を向けながら男は先を促した。
「で、どうしたい?」
「た、助けて!!あの男から私を助けて!!」
「叶えよう。未来永劫その男の手の届かない所にお前を連れて行こう…それで良いか?」
淡々と紡がれる言葉に、彼女は幾度も頷いた。
助けてくれるというなら、否やは無い。
「そうか。では契約成立だ。此処にサインを」
くるり、と男が手を小さく振ると、彼の手の上に一枚の羊皮紙が現れた。
いつの間に彼女の目の前にシンプルな小振りの卓が置かれており、男はその上に羊皮紙を置いた。
「はい。ペン。でサインは此処ね」
少年がすかさず彼女の手からカップを取り上げ、代わりに古風な羽根付ペンを握らせた。
彼女は、もはやそれらを不思議とも思わず彼らに言われたままに羊皮紙を良く確認もせずにサインをした。
少年は、彼女がサインするとさっさと羊皮紙を取り上げ、男に渡した。
「はい。契約成立です。マスター」
「…では代価を」
その言葉に彼女ははっとした。
そう言えば対価が幾ら必要なのかも確認していない。
「あ、あの今手持ちがあんまり…」
「あ、大丈夫。お金じゃないから」
「…え?」
「…そろそろ器が限界のようだ」
男がふ、と虚空を見つめそんな言葉を呟いた瞬間、彼女の視界がくらりと歪み体を支える力も無くなり前のめりに倒れた。
「…あ、れ」
「おねーさん、自分が既にその追いかけられた男に刺されちゃって瀕死だって忘れちゃってたんだね。お休み。おねーさん♪」
無邪気な少年の残酷な言葉で、彼女は自身の置かれていた状況を全て思い出した。
彼女の魂は深い絶望と恐怖と憎しみに一瞬にして彩られ、固まった。
「うん。きれーな色」
少年の満足そうな声が闇い其処に響いた。
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翌朝、小さな公園の中で壊れた玩具のように緋く染められた四肢を投げ出した年若い女の冷たい躯が発見された。
倒れた女の傍にあったベンチにべったりとついた毒々しい緋色が、まるで纏わり着いた怨嗟のように幾度洗浄しても落ちなかった、というウワサがその地を駆け巡るのに、然程の時間も掛からなかった。