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小ノ葉とキャサリンが二階へ上がったのを確認してから、親父が口を開いた。
「おい、カズ。これからどうすんだ」
「なにが?」
「お前のいいなずけの小ノ葉ちゃんを追って、元恋人のキャサリンちゃんが来たんだぞ。ふつうはもっと慌てるだろ?」
俺はアンタの溶け出しそうな脳ミソが心配になるぜ。
「また勝手に話を作って、小ノ葉はうちの親戚の子。キャサリンはその友達。以上終わり」
「お腹の子はどうすんだ?」
「子供なんかいるかよ!」
つい語気を強めるが、
「このあいだ、杏が言ってたぞ、腹の子のために頑張らなくちゃっいけないって言って、花屋でバイトしてんだろ?」
俺は両肩が落ちる感触を味わう。
「あのな……。あれは親父への借金を返すために仕方なくやってるだけだろ」
「ダブルベッド代な。あと2万5000円残ってっぜ」
「…………」
会話を続ける気力がなくなって来た。
「俺は明日もバイトだからもう寝るからな」
「おー。ののかちゃんだ」
テレビにお気に入りのアイドルが映った途端、そっちへ目を転じるバカ親父をすがめながら俺は二階へ上がった。
「ほんまっでっせ、コノハはん……」
小ノ葉の部屋の前で階下とは異なる憂虞する気分に落ち込んだ。
「……せっしょな問題やで、いやほんま」
俺は中から渡ってくる関西弁を拭い去る勢いで扉を開ける。
「キャサリン! 大阪弁禁止だ。容姿に似合った口調にしろ!」
こちらへ向かってキョトンとする小ノ葉。その前にいた正座姿の美女が俺へと澄明な瞳を注いだ。
テレビのアイドルがかすんむほどの奇跡の美形容姿。絹糸みたいで金に近い栗色の長い髪をしなやかになびかせて、幼けない赤く薄い唇が開く。
「ホンマあかんでカズト。マジで大阪人をバカにしとるやろ」
がくっ。
「あのな。お前の口調は大阪のオッサンなんだ」
「なんでやねん!」
これだ。このギャップがとんでもなく深くて大きいのだ。
「そんなことあるかい。大阪の女流漫才師にもベッピンさんはおるし、みんなこんなもんや」
「漫才師を家に泊めるわけにはいかん」
「せやけどこれが、ワテの素の姿でんがな」
「で……でんがなって、それがそもそもおかしいだろ!」
「まぁまぁ、イッチもキャサリンさんも、ちょっと落ち着いて」
小ノ葉があいだに入り、俺とキャサリンを引き裂いた。
「あたしも言葉遣いに関しては何も言えないんだけど。イッチもそこまでガミガミ言わないで。それからキャサリンさんはもう少しオンナ言葉を勉強したほうがいいよ。せっかくそんなに可愛いのに『でんがな』はないと思う」
「ほーでっか?」
「それそれ。そんなときは『そうかしら』でしょ?」
キャサリンは一呼吸おいてから、小ノ葉へ向き直り、
「そ……そうかしら……」
すぐに、
「げぇぇ。きしょー」
派手にえずく格好をした。
「あきまへんワ。ワテには無理でっせ」
俺は重くなった頭を片手で支え、マジマジと言い放した大阪弁とそれを口にした少女を見据える。
「ズレがすげえな……」
何も喋らなければ奇跡の美少女なのに、言語を発した途端、ベテラン漫才師、あるいは大阪船場の丁稚ドン。何度も言うが、それが悪いのではない。二つの差がかけ離れ過ぎているから、こうして頭が痛くなるのだ。
「キャサリン……」
「なんでっか?」
「いつまでここにいるか知らないが……俺の生活を脅かさないでくれ」
「大げさなやっちゃな。ワテはそんなつもりで、」
「それだ!」
俺は大声で奴の言葉を遮った。
「せめて『ワテ』と言うな。それを聞くとどうしても家具屋のハゲ茶瓶が目の前に浮かぶんだ」
「自分のことを『ワテ』と言わずして、何ちゅうーたらよろしおますねん」
ほとんど日本語に聞こえないのは俺だけだろうか。
言葉を失くしてしまった俺に代わり小ノ葉が応える。
「あたし、って言えばいいのよ」
キャサリンは澄んだ丸い目をもう一度小ノ葉に向け、
「あ、た、し……?」
「そうそう。あたしでいいの」
「ほうでっか。あたしねー。あたし、あたし……」
ぱっと美麗な面立ちをもたげて、
「なんや言えそうな気がしてきましたワ。おおきになコノハはん」
「だめだこりゃ……」
鉛の塊を飲み込んだかのような胃部不快感を覚えた。
「俺寝るワ、小ノ葉ももう寝ろ。明日もバイトだから朝早ぇぞ」
「そうしなはれ。ワテ……あ、あたしも疲れたから寝ることにしまっさ……するわ」
横目でキャサリンを睨みながら訊く。
「お前は明日からどうするんだ?」
「ワテ……、あたしは自分の任務をこなすだけやがな……こなすだけよ」
「お前の存在する理由は明日、夕刻、吉沢研究室へ向かうからそこで発表してくれ、今ここで言われても理解できん」
「吉沢研究室やて……うふふふ。酒屋の二階のくせして」
「そうか……」
俺は急激に襲ってきた悔恨の念と共に黙り込んだ。
小ノ葉が気に入ったことと、こいつがうるさいので花瓶に入れて持ち歩いたことをだ。だいたいのところに顔を出したので、こいつはそこの情報を得ちまったわけだ。
俺は振り返ることもなく、小ノ葉の部屋の扉をバタンと閉め、すぐ隣の自分の部屋に入るとベッドにうつ伏せのまま飛び込んだ。
一日の疲れと、今起きた出来事が重しとなって俺をベッドの深みに沈めていく。
「疲れた……」
襲う睡魔に身をまかせつつ想起する。明日はもっと疲れるだろうと。
目覚めると、階下から聞こえてくる複数の笑い声と鈴を鳴らすような可愛らしい声。そしてそれには似つかわしくない口調。
「…………!」
ガバッと飛び起き、自分の部屋だったことを思い出し、かつ隣の小ノ葉の部屋に飛び込む。
「あっ!」
小ノ葉はスライム状態を解き、実体化の最中だった。
女性が着替えている部屋に飛び込んだよりも見てはいけないモノを見た気がして、慌てて扉を閉めた。
「わ、ワルイ。見る気はなかったんだ。許してくれ」
ドアのこちら側から謝辞を述べる俺に、中からも愛しい声が、
「イッチにみられるのはもう平気。いいわよ入って……」
まるで新婚夫婦みたいじゃないか。その誘いにみるみるとろけると、そっと扉を開けた。
体を捻ってジーンズのファスナを上げる小ノ葉の色っぽい仕草にしばし見惚れる。まあるいヒップがまたたまらん……ってぇぇぇぇ。
「悠長なことを言ってる場合ではない、キャサリンの野郎、先に起きて親父たちのところに行ってるぞ」
「うん。あたしも声が聞こえてきたから飛び起きたのよ」
「まずいぞ、あいつにはまだまだ釘を刺さなければいけないことがいっぱいある」
三面鏡の前に座って髪の毛を梳かし始めた女性らしい姿に嘆息をかましながら、
「先行ってるからな、お前も急げ」
「うん。わかった」
小ノ葉の声を背に受けつつ俺は階段を駆け下りた。