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小ノ葉が杏の見立てた衣装に着替えるあいだ、俺は集まった人のテーブルに食器を運んだり、飲み物の注文を聞いたり雑用をやり、キヨッペは杏がやるべき仕事だった料理運びをやらされていた。先ほどまでの冷たい空気は、忙しなくなった作業に押しやられ、またウワバミたちの笑い声が洗い去ってくれており、潮が引くように収まっていた。
安らいだ気分で働いていたら、調理を終えて普段着に替えた大輔さんが俺の前を通った。
深い理由は無いが、自然と目で追う。
大輔さんは、先に杏の手によって客席のど真ん中へ運ばれた優美に尻尾を反らす活け造りへと出向き、最終点検をして戻って来ると、満足げな息を吐いて近くの椅子に腰掛けた。
早速ビールサーバーから生ビールをグラスに注いで運ぶ。一仕事後のビールは格別だとよく親父が言っていた。
「ども、お疲れさまです」
労いの言葉を掛けながらグラスを置く俺へ、大輔さんは優しい声で応える。
「助かったよ、カズ。プラスチックの皿だったらこの鯛にあまりに失礼だからな」
「いや。偽物の瀬戸物ですけど、お役に立てて嬉しいです」
「素人目にはわかりゃしねえ。でも陶器自体は本物だな。焼き具合がいい」
俺は複雑な心境に陥る。
偽伊万里だとちゃんと見抜いているが、まさか素材が我が家の庭に埋まっていた古茶碗だとは思うまい。でもまあ、とりあえず本物の焼き物だと納得の様子だ。
その道に詳しい大輔さんがそこに気づかないところを見ると、小ノ葉が仕掛けた再構成による質感は完璧だということだ。
それをスマホの写真と、牛丼屋のドンブリに手を添えた感触だけの情報で作り上げた流動生命体の未知数的な能力に驚愕した。
死後、自分が何かの形に変身して後世に伝えていく、と語った小ノ葉の言葉は本物かもしれない。しかもそこも日本だと言うが、想像もつかない。
「さぁ。時間だ。みんな集まってくれ!」
店を閉めてやって来た親父の声に誘われて、客席の視線が集中する。
すでに出来上がった家具屋のおやっさんの横には、真っ赤な顔をした割には、まだシャキシャキした駅前の巡査。そして普段ヨボヨボ見せるのは演技なのか、やけにしっかりと喋る肉屋のジイちゃんをセンターにして、ルリ洋品店の旦那さんはビールグラスをウイスキーに持ち替えてちびりちびり。隅っこのほうに奥さんのルリさんと、その信者たちの集団。
ルリさんは人生相談も引き受ける女性陣の中ではカリスマ的な存在なのだ。だからルリさんが現れるところに取り巻きが数人、必ず存在する。
ようするにこの人たちは小ノ葉には興味が無い。ルリさんにくっ付いて来た金魚の糞なのだ。
だといってもみんな近所の人だし、知らない人はいない。会費もちゃんと払ってくれるんだから問題は無い。あの人たちにとって今日は女子会(オバさん会)のつもりなんだろう。
唯一わが道を行くのは俺のお袋で、乾杯の音頭を取ろうとする親父の脇でニコニコしている。居酒屋夫婦は一時も離れないのだ。
「えー。本日は……お日柄もよく。はるばるブラジルから我が家にやって来た小ノ葉のためにお集まりいただき……」
「マサやん。結婚式の挨拶みたいに聞こえまっせ」と言う家具屋のおやっさんの野次と、
「早く姫君のお披露目といこうでないか。拙者、待ちくたびれたでござるぞ」
時代を飛んじまったのは肉屋のジイちゃん。
酔っ払いの世界では、俺たち未成年の者にとって理解不能の奇妙奇天烈な空気が広がっていた。
親父もその輪の中に飛び込みたいのだろう。
「そういうことで………それじゃあさっさと進めて、乾杯と行くかぁ」
用意してきた間抜けな挨拶を大幅にはしょって終わらせた。でもすぐに、
「いけね。すっかり忘れていたぜ」
頭を掻き掻き、もう一度声を張る。
「今日のこの立派な鯛は、大輔んち、『魚よし』さんの提供だ。それから肉は山田精肉店さん、酒はケンちゃんのプレゼントで今日は飲み放題だからな。みんなよろしく頼むぜ」
報告みたいな説明に、奥のほうで歓声と拍手が起きるので大輔さんと山田さんが拳を振り上げてガッツポーズ。肉屋のジイちゃんも白ひげを擦って目を細めて微笑んでいた。
「それとあとでアンが回るので、会費のほうよろしく!」
と親父は言うだけ言って切り上げた。
続いてタイミング見計らっていたのか、杏が厨房と客席を結ぶ通路から威勢よく出て来た。
「さぁさ、おっさんら。目んタマひんむいてよーく拝みなよ。ブラジルから来た、小ノ葉ねえちゃんを紹介するぜ。今日の主役だ!」
さぁっと風が通って暖簾が揺らぐ――そして杏が選んで着替えも手伝った、杏、コーディネートの衣装に身を包んだ小ノ葉が、奥から顔を出した。
「脚っし、長げぇぇぇぇっし」
「おぉぉぉ。美しい」
「うなぁぁぁ~~」
「まあ……」
そこだけ見慣れた景色から逸脱していた。
一輪のつぼみが咲き開く寸前のような瑞々しさを帯びた鮮やかな姿。芳しい空気をまとう全身は白色で統一され、一部真紅に彩られた衣装から伸びる素肌が部屋の照明を煌びやかに反射させていた。
集まった者はそれぞれに異なる反応を見せるが、誰しもが目映くて目を細めるという共通の振る舞いをして見惚れた。
小ノ葉は栗色の髪を丸く結ってハーフアップにしたヘアースタイルで、袖を通さず羽織らせた朱色のカーディガンを純白のサマーセーターの肩に掛けるだけのセレブのお嬢さま風スタイルだった。
小市民は思わず口に出す。
「買ったら高そうなセーターだな」
小声でキヨッペに囁く俺。
「写真を見せただけだよ。それより僕のお古があんなサマーセーターになるとは思ってもみなかったよ。でもさ……」
奴は変な笑みを目元に浮かべて、
「ボクが着ていた服が小の葉ちゃんの素肌に触れてるかと思うと、なんだかこそば痒いね」
このヘンタイ野郎め。
しかしそう言う俺も目が離せない。杏が見立てた白色のセーターは、風通しをよくするためにざっくりと編まれており、淡い色の下着が薄っすらと透き通ってくるのもなんだかたまらなくそそるし、レース編みで裾を縁取ったタイトなミニスカートから伸びる両脚は、ストッキングも穿かない完璧な素足が猛烈に眩しい。
《ヘンタイはオレのほうだぜ》
〔同感だ……〕
人格は正直なのだ。
「こんな子がいたとは……すげえな」
今日の鯛より艶っぽいオンナがいたら連れて来い、と高言を垂れていた大輔さんが、小ノ葉の華麗なスタイルを前にして固まっていた。
「小ノ葉です……」
大勢の視線を一斉に浴び、恥ずかしげにひと言だけ添えて頬を桃色に染めた。
「「「「おおおぉ」」」」」
何も言わなくても誰しもとろける振る舞いだったた。
その美貌さえあれば言葉は要らない。今日の宴は花を肴に盛り上がろうぜ、と何とも不埒な目の輝きを放つのは、中央を陣取るおっさん集団。そして若かりし日々と比較して嫉妬やら驚きやら――遠き過去に思いを馳せる目は、夢見る少女……からだいぶ遠ざかったルリさんの信者たち。
思いはそれぞれだが、暖かく向かい入れようとする気持ちが熱く伝わってくるのは、この商店街特有の仲間意識、家族的思考から来るものなんだろう。
「ほな。新しい仲間に乾杯しまひょか」
「よっしゃー。みんなグラス持ってくれ」
親父の掛け声に合わせて、ゾロゾロとグラスを片手に立ちあがった、その時。
「わるい! ボクも参加させてくれ」
寸前のところで飛び込んで来たのはフラワーショップ、フェアリーテールの舘林さんだ。この人に何の罪もないが。あの忌々しいナデシコをくれた人だ。選んだのは俺だが……。
「ゴメン。研究室の後片付けをしてて遅れちゃったんだ」
この時点では何の研究をしているか誰しも知らないことで、だが俺たちは後日それに巻き込まれるのだが……。
「かまわんよ。みんなそれぞれに仕事があるんだから」
杏と将棋を指してヒマを潰していたのはあんただけだ。
「ほな、とにかくビール注いだって。ええか? アキちゃん生一丁や!」
すぐに中ジョッキが運び込まれ、
「さあ。乾杯すんでぇ」
いつのまにか親父の音頭は、御預けを喰らい続けていたウワバミの代表に取って代わっていた。
「「「「「「「「「「「かんぱ~い」」」」」」」」」」」
『せやけどホンマ……小ノ葉はん……たまらん可愛さやな』
「あ……」
立花家具のおやっさんが口を開いたのかと思ったが、声ではなく例の頭の中に直接渡って来る忌まわしい音波だ。
『なに? あの衣装は小ノ葉はんの分子化で作ったん? ほー。すごいでんな』
このややこしい奴がいたのをすっかり忘れていた。なんでこんな奴を小ノ葉は連れて来たんだろ。
『なにゆうとんねん。それはこっちのセリフや。アホ! せっかく松野はんと思い出話をしとったのに、いきなり我が家の立ち退きを強制執行するなんて、オマはんは鬼か! 悪魔でっか』
「我が家って……」
だよな。大皿の補強をするための素材にこいつの一輪挿しを利用したんだ。
「悪いと思ってるって、でもあの場合は緊急的処置だったんだ」
『その辺は小ノ葉はんに聞いて納得してまんのやけどな……この仕打ちは何やねん!』
ナデシコは自分の足元を見るように花を下に向けた。
『これ……牛乳瓶でっせ。なんで可憐な生駒ナデシコがこんなみすぼらしい入れモンなんや』
「だから緊急的処置だって言ってんだろ」
『ふんっ。まあ。ワテも歓迎会に誘ってくれたんでその件は帳消しにしたる』
偉そうな花だな……。
こちらの次元を超えた会話など誰も気付くはずは無い。
「そうそう……」
と言って舘林さんは屈み込みんだ。
「プレゼントを忘れてたよ」
床に置いてあった大きく膨らんだ手提げバッグから抜き出したのは、他の連中にとってはどうってことないが、俺にとっては忌々しい花束だった。しかも……そう、綺麗な包装紙で包まれたナデシコだ。
「この花はカズくんが浮かべた花嫁さんのイメージなんだ」
と言ってから改めて小ノ葉に視線を移し、
「おお。キミのイメージどおりじゃないか。可憐で美しいナデシコか……言うこと無しだな」
言うこと大ありですよ。いいですか、小ノ葉はそのとおりですが、ナデシコはそうではないよ、と言いたいな。
「アキ子さん。これ鉢植えになってるからどこかに飾ってくれませんか」
どうやら、舘林さんはこいつと小ノ葉を見比べて、それを肴に一杯飲むようだが、何だか嫌な予感がする。それは俺んちから持って来たナデシコの様子がおかしいからだ。
『ちょ、ちょう。その鉢、ワテのそばに置いてくれへんか』
もちろん。大阪弁の声が聞こえるのは俺と小ノ葉だけなのだが、そこに置くのが自然であるのは誰の目にも当然で、舘林さんは小ノ葉の座る席、つまり牛乳瓶に挿し込まれたナデシコの横に置いた。
「ありがとうございます」
小ノ葉が贈った感謝の言葉に舘林さんはスマートに会釈すると、自然な動きできびすを返した。
俺は悩んだ。最初にもらったナデシコが、なぜ牛乳瓶に活けているのかの理由を述べるべきか。
だが舘林さんは特にこだわる様子もなく、ウワバミ連中の輪の中に入った。
「よかった。気にすることはなさそうだ……」
ところが安堵するヒマは無い。俺は大きく脱力して肩を落とした。
『おーい。久しぶりやんけ。ワテや。キャサリン・ジャスティーノやがな』
『え? あー。どないしてたんよ。元気やった?』
舘林さんの持ち込んだ鉢植えのナデシコ、薄いブルーと赤と白のマンダラ模様の二種のナデシコの花びらが、さっと振り返ったのだ。
もちろん花が振り返るなど、誰も想像だにしないことなので目撃した人はいない。気付いたのはそんな行動を取ることを知る俺と小ノ葉だけ。
『どないもこないもないで。これ見てみいや。牛乳瓶や。最悪やろ。主がしょぼいからこのあり様や』
「エライ言われようだな。緊急的処置だと言ってんだろ」
唾を飛ばす俺の方へ赤と白の混ざり合った花が向いた。
『あーこの人かいな。植物界と人間界の綱渡りのカズトちゅう人類は』
「なんだそれ。もしかして『橋渡し』って言いたいのか?」
『綱でも橋でもかまへんがな。ほーかー』
またまたグイッと花が俺を見上げた。
『お初にお目にかかります。ワテはジェシカや。ジェシカ・マジョリーニュちゅうもんや』
「へぇへぇ。初めましてだね。ところで『ジェシカくん』でいいのかな?」
『あほー。ワテはオンナや。さん付けせんかい』
相も変わらずナデシコは口が悪いぜ。
続いてグリンと茎を旋回させたのは、薄水色のナデシコ。
『いっ、やー、キャサリン。お久やー。ウチやウチ。京子や。東京子やで』
なぜにこいつだけ和名なんだ?
『あぁぁ。ウチか? ウチは京都や、京都。ほんで宇治出身や。キャサリンの出身地の生駒とはちゃうからね。宇治ちゅたらお茶畑やで。知ってるかニイちゃん? 有名な宇治茶や、宇治茶、高級なお茶や、お茶》
何で大阪人は同じ言葉を二回繰り返すんだろうな。
『そんなん言われても知らんやん。それからなニイちゃん。ウチは大阪とちゃうからね。京都や京都。天下の都や。商売人の町と一緒にせんといてや。1200年ちゅう長い歴史があんねん。覚えといてや』
『何が1200年や。とうに都は東京に移っとるやろ』
『アホやなオバちゃん。まだ遷都されてへんのや。東京は副都ちゅうてな、ほんまの都はまだ京都や』
ジェシカのほうが年上のようだ。
『何ゆうてんねん。まだ小娘のクセにして、宇治は京都ちゃうわ。京都の外れでな、京阪ちゅうねん』
「うるさい! どっちもどっちだ。俺にしたら全部ひっくるめて関西だ。それよりもお前らみんな女なのかよ。女のくせにワテとかウチとか意味わかんねえよ」
思わず声に出してしまった。
「あ……」
店にいた人間の視線を四方から浴びていた。
何とも言い難い気分で俺は肩をすくめる。
「え……と。お気にせず宴会を続けてください」