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謎の少女をぶら下げて牛丼屋を出た俺は、商店街の中を北へと進んでいた。
「さてどうするか……」
俺の思考は完璧に二つに割れていた。悪魔と天使とでも呼んでくれ。とにかく頭の中でそいつらがさわぐのさ。
例えば天使がだな、
〔とにかくだ。俺にしがみ付いて来るこの変なのを早く引き剥がさなきゃならん。こいつは絶対にやばいヤツだぜ〕
と言えば、悪魔が囁く。
《少々変な奴は世の中に大勢いる。いわゆる天然て言う奴だ。おい、ちょっと訊くけどな、天然少女はどうだ? 嫌いか?》
〔大好きだ〕
「ねえ? どうしたの?」
潤んだ目で少女から見つめられたら、天使まで一緒になって、
〔うわお――。可愛いじゃねえか。しかもこの、たゆんたゆんした柔らかい感触はどうだ、悪魔よ。たまんねーなー〕
《なー。マジたまらんよなー。うひょ~》
悪魔は少女を凝視し、天使はさらにエスカレート。
〔マシュマロみたいな唇に、ぼよよーんと跳ね返してきそうなおっぱいはどうだ、悪魔? おけつもプリケツだぜ〕
「ふひょひょひょー」と悪魔ではなく俺。
もう悪魔も天使もない。俺も混ざって大興奮さ。
ところが――。
「うぉっ! なんだ?」
商店の切れ目にあるお宅の庭に生え茂っていた柿の木なのだが。妙な気配と一緒に少女の栗色の髪がなびき、その葉っぱが一斉にざわっと音を出してこっちを向いた――ような気がした。
「んなことあるわけねーじゃん。風だよな。風」
《あたぼーよ》
悪魔も囁くが、再度確認。なんとなく異様な気配は感じられるものの。柿木はいつもと同じように濃い緑の葉っぱが茂るのみ。
〔風が吹いたんだろ?〕
俺も天使の思うとおりだと思う。
〔何だったんだろな、悪魔?〕
と天使が尋ね。
《知らね……。おい、そんな事よりもだ。このまま行くと家の前を通るぜ。この状況を誰かに見られるとまずいだろ?》
そう。たいへんまずい。このまま商店街を突っ切ると俺ん家の店の前を通ることになる。そうすっと自然とキヨッペの家もあるし、ご近所さんが密集する危険ゾーンなのだ。だから少々遠回りして花屋さんの裏にあるガーデンの路地を歩くことにした。
足取りは軽いような重いような複雑な気分で、家から三軒手前の花屋さんを右に折れた。
強い陽射しに濃くなった影が二人分ユラユラ。そこへ揺らぐ影に気が取られて仰ぎ見たのは、咲きそろったヒマワリの黄色い花の一群。
「季節だな」
何ともなく言葉に出たのは、花などに興味の無い俺が思わず溜め息を吐きたくなるほどに立派に育っていたからだ。
このガーデンは隣接するフェアリーテールと言うフラワーショップが花を育てている栽培所で、各種の花が咲き誇るその中のヒマワリだから一際立派なのだ。
「これなぁに? こっちの日本には不思議なものがあるね。やっぱ異世界は一味違うわ」
その花に負けないほどの笑みをほころばし、ヒマワリの黄色い花を見上げる少女に、俺クラクラ。だから少しぐらいおかしな物の言い様は、どこ吹く風さ。
「この黄色いのはヒマワリだぜ? 知らないの?」
俺だってヒマワリとアサガオの区別ぐらいはつく。
「これってなに?」
「花だよ。植物」
「植物って?」
え? いきなり難問だな。ブラジルだって南米だからジャングルぐらいあるだろう? それとも生物学的に答えなきゃならんの?
「俺たちは動き回るから動物だ。植物は根を地面に生やして動かない。でも生きてる」
どうだこれで? それらしい答えになってんだろ?
「美味しい?」
「は――?」
コイツは食うことしか頭にないのか?
「まぁ。タネは食えると親父が言ってたな」
「オヤジ?」
少女はまたもや首を捻った。
「オヤジ、美味しい?」
だめだ。根本的に言葉が通じていない。こんなに綺麗なのにやっぱりバカなんだ。
とその時、俺は異変に気付いた。
「ヒマワリって太陽に向かって咲くんじゃなかったっけ?」
あまりにおかしな光景だったので、つい独りゴチが漏れた。
なにしろ、ガーデンに沿って歩む俺たちを見下ろしつつ花の向きが変わっていくのだ。中には苦しそうな体勢なのに無理やり花を捻じるヒマワリもいた。
「おーい。茎が千切れるぞ」
思わずヒマワリに声を掛けてしまうほどに動物的な動きだった。その振る舞いはとんでもなく違和感がある。
でも俺は頭を振る。これはこの暑さの中を美人と歩くという優越感がもたらす、のぼせからくる一過性の思考麻痺だと。
さっさとヒマワリ畑を離れることにした。
「なぁ。三野田さん。ちょっと離れてくんない?」
「ごめんごめん。重かった?」
巻きつく腕の力を少しゆるめるものの、歩くたびに当たってくるおっぱいの柔らかさはどうだ。極上のチーズケーキみたいだぜ。すげぇな女って。
女子として育てられ、10才で自分は男だったんだと目覚め、それから手すら握ったことが無い。これが女無し暦、7年の底力さ。
いや正確には、杏とならあるが、あれは別だ。男だからな。
「ところでさ。三野田って誰?」
「あ――――――?」
只今、開いた口が塞がらない、の絶賛上演中だ。
「――――――――」
20秒は実演したな。顎が痛くなったぜ。
「あんた三野田ミカって言うんだろ? 名前だ、あんたの」
年上だろうが下だろうが、こういうバカには、はっきりと言ってやらないとだめなのさ。
「あたしの名前はそんなんじゃないよ」
「あーーー?」
まぁーた顎が外れそうになっちまったぜ。
「さっき牛丼屋で言ったじゃないか、三つの野原の田んぼだって……」
「あ~。ん? あれはあんたの名前を聞いたからよ」
「俺の名前を聞いたから?」
意味ワカラン。疲れる……。
この女が、すれ違う野郎全員を振り返らせるような美人でなければ、とっくに丸めてドブに捨てるんだが、いかんせん、この優越感はとても気持ちよい。牛丼屋を出てからずっと羨望の眼差しの連発だぜ。
今だって振り返った兄ちゃん、首をこちらに捻ったまま電柱と激突してやがるもんな。ま、俺だって逆の立場になれば、電柱の二本や三本へし折ってんだろうな。
「俺の名前を聞いたから、ミノダって言ったのか?」
「うん。ミノダミカ……カミダノミ……ね?」
「ね、じゃねえ。そんな可愛く言うな」
と言い返した後、早速声に出してみた。
「ミノダミカ……カミ……ダ、ノ、ミ…………。なぁんだ反対から言えば俺の名前じゃないか、って、お前んちは山本山か!」
「なにそれ?」
「……………」
あんた、俺を黙らす天才な。渾身のノリ突っ込みをひと言でいなしやがって。
でも、そのキョトンとする表情がとても可愛いから許す。
しかしふざけていやがるな。反対から読んだくせに、三つの野原の田んぼって、調子のいいこと言いやがって。こりゃ侮れんぞ。完全に弄ばれているぜ。今後は最大の注意を払わんといかん。
まず……どうすっかだな。もうしばらく犬の散歩みたいに町内を練り歩くか。しかしこう暑くちゃぁ、そういうわけにもいかないだろう。こいつ帽子も被っていないし、この炎天下だ、熱中症にもなりかねない。
しかし少女は喜色で埋め尽くした桜色の頬に直射日光を浴びて平気でいた。
さすがラテンの人は陽の光を反射して眩しいぜ。そいでもってこれだけ暑いのに汗一つ掻いていない。
これってマジかよ。少し変じゃないか? 大丈夫なのか?
牛丼屋を出てからぺったりくっ付いてくる女の感触は極上で、いつまでも味わっていたいものだが、なるべく商店街から離れたほうがいい。でないとカミデン(神祈電器店の略)のバカ息子がどこかの女の子と腕を組んで歩いていたと言う噂を立てられると、いろいろとまずい。特に杏の耳に入ると、とても痛いことになる。
最近あいつは何かと言うと俺に喧嘩を売ってくるからな。何が気に入らないんだろう。そうか高校入試で気が立ってんだな。兄貴と同じ学校へ行くって断言していた。そうなると俺たち三人そろって西立花高校の生徒となるわけか。
べつに今それを考えても、どうこうなるわけでもないくだらない題材を脳内で巡らせて小一時間。俺は超美少女を町内引き回しの上、駅の向こうにある別の商店街を目指していた。そこまで行けば俺の面があまり割れていないので好都合なのさ。
少々の時が経ち、西立花駅の踏切を越えて、途中にある公園に差し掛かった頃。
「これなぁに?」
山本山オンナは、またもや公園の花壇に咲くオレンジの花を指差した。
「さっきのヒマワリと同じだよ。花じゃん」
俺の花に関する知識はヒマワリとアサガオで底をついている。
一緒になって首を捻っていたら、少女が口火を切った。
「ダリアだって言ってるよ」
「はあ? 誰が言ってんの? お前だろ?」
「ちがうの。この子。ダリアの幸子だって」
〔おいおい。やばいぜ〕
《ああ。厨ニ病だ》
そう、さすがにこれはおかしい。悪魔と天使が同時に囁いたし、俺もそう思った。
ダリアって花は聞いたことはあるが、これがそうだとは知らなかった。でも『幸子』はねえだろ。
急いで離れようとする俺の腕を少女はグイッと引寄せて、花を指差しながら口早に連発する。
「幸子ちゃんと、清美ちゃん、それからこっちは芳樹くん。あ。珠美ちゃんも喉が渇いたって言ってる」
「あんたこそ、なに言ってんの? なんか怖いよ」
「だってみんな喉が渇いてるって」
山本山オンナは健気にも水飲み場へ走り、手で水を梳くって運んでくると、ダリアの根元に流し込んだ。
「ぶっ! お前いくつ? 幼稚園かよ」
とまあ。少々おかしなオンナだが、ここで放って逃げ出す俺ではありたくない。俺も男だ。もう二度と女には戻りたくない。
「ほらどけ。俺が撒いてやるよ」
公園の向かいにあるのは顔見知りの自転車屋さんで野川さん。そのオジさんがちょうどパンク修理用の水桶にホースで水を入れているところだった。
「オジさん。それ終わったらちょっとそのホース借りてもいい?」
眩しげに顔を上げた野川さんは、
「おう。電気屋のセガレか」
店の中から俺の肩越しに公園の奥を窺って目を細めた。
「ほほぅ。殊勝にも花壇の水撒きか? 親父に似合わず可愛いとこあるな。あー撒いてやっておくれ」
てなことで、再び公園のど真ん中。炎天下の真下でつぶやく。
「なんで俺が公園の水撒きなんかしてんだろな」
ダリアは気持ち良さげに風で煽られてゆらゆら。ついでに恨めしげにその状況を見つめる他の花や木々にも大盤振る舞いをしてやる。
公共の水道だけど、飲んでもいいのなら、公園の植物に水をやったって咎められることは無いと思う。
ところが山本山オンナは意味不明の言葉を並べやがった。
「みんなが言ってるよ。子供の頃にここのイチョウの木におしっこ撒いてたんだから、罪滅ぼしだってさ」
「な……何でそれを知ってんだ!」
そう、意味不明ではない。衝撃的なお言葉であった。
その子の言うように子供の時だ。キヨッペと並んで、ここらあたりのイチョウの木に大きくなれとおしっこを掛けていた。しかも毎日学校帰りに。
さすがに中学に上がってからはしてないが……。
もしかして、この公園周辺に家があってそれを目撃していたとか?
それなら同じ校区で年もそう変わらなければ顔見知りのはずだ。現にこの辺の学生ならだいたいは顔と家を言える。
謎は深まるばかりなのだが、いかんせん。
「あっついなぁ」
そりゃ。この夏の炎天下に花壇へ水を撒いていれば暑くもなろうぜ。
額から溢れる汗を拭い、天を見上げる。
バットで殴りつけてくるような陽ざしだった。
だけど少女は平気な顔してダリアと話し込んでいた。
「ねえ? また明日来ようか?」
とか訊いて、
「へーそうなのかぁ、明日は夕立があるから心配ないのね。よかった」
お天気お姉さんみたいなことをつぶやき、訝しげに見遣る俺の下へと駆け寄って来た。
これはちょっと異常だろ。
「あんた暑くないのか?」
「なんで?」
「頭おかしくなってないかなと思ってな」
「べつに? 涼しいよ」
「…………」
なーんも言い返す文句が浮かばず。
「喫茶店でも入る?」
「なにそれ?」
あ~ウザい。
とにかく俺はまだ歩き続けようとするそいつを引き摺って、近くの店に飛び込んだ。