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格闘技一派が去った後の、やけに透明感を帯びた街の喧騒に包まれて、俺たちはしばらく呆然としていた。
「あの人たちイッチのお友達?」
「まあぁな」
口は悪いがイイ奴らばかりだ。
「でも……クラブは入らんからな」
ビルの屋上を仰いで独りゴチを漏らす。
「さてと……」
焼けつく夏の陽射しに背を押され、準備中と書かれた札がぶら下がる入り口から顔だけを突っ込み、大声を上げた。
「まいどぉ。吉沢酒店でぇぇす。御注文のチリンラガー6ケースですけどぉ」
入り口は開いていたが、案の定、目がやられて真っ暗で何も見えなかった。でもひんやりとしていた。
俺の声が奥にまで届いたようで、
「あいよぉ~」
じんわりと明かりの戻る俺の視界に、鉢巻きをした兄ちゃんが入った。
「あっれぇ~。カズちゃん。なに? 電気屋やめたの?」
雇われ店長の飯沼さんだ。ここのオーナーは居酒屋だけでなく、おしゃれなワインバーやらレストランを数店舗営み、なかなか顔を見ることは無い。つまり飯沼さんがオーナーに雇われたここの責任者というわけだ。
「いやさ。急遽お金が欲しくなって、親父に頼んだら無給で雇うっていいやがったんで、出稼ぎしてんだ、俺」
毛先の丸まった髪の毛に指を入れてガシガシ掻きながら、細かい説明を加えていると、俺の脇と扉の隙間からゴソゴソと、
「こんにちワ」
恥ずかしそうに小ノ葉が顔を出した。
「やぁ。小ノ葉ちゃんだろ? きみもたいへんだね。今何ヶ月?」
「あ………………」
なんということだ。こんな離れた所まで吉沢ラジオの声は届くんだ……。
いったいキヨッペのオバさんはどこまで言いふらしてんだ。その不気味な噂。不幸の手紙より拡散率高くないか?
「あのね店長。それ誰かが面白がって言い回ってるんですよ。この子はブラジルから来た親戚の子で、それ以外なんでもないからね」
「へぇ。ラテンの娘かぁ。よろしくね小ノ葉ちゃん。オレこの店の雇われ店長やってんの。カズくんのオヤジさんの後輩なんだ」
ここらへんの子供は、だいたいがあの高校へ行くから、どうしてもそうなる。
「でもよー。オヤっさんと同じでカズくんも手が早かったんだな」
どうしてもそうしたいらしい。この町内の連中はみんなどこかウワサ好きなのだ。だいたい親父の手が早かったからって、息子も同じ道を歩むとは限らないだろ。
「はいはい。飯沼さんまいどぉー。ご注文ありやとあんした。ビール6ケースどこ置きます?」
説明が面倒臭くなってきて、ぞんざいに返事をした。
「それじゃあ。ごひいきにー」
奥へと声を響かせ、
「さあ帰るぞ、小の葉」
酒屋へ折り返そうとする俺の背中越しに掛かった声に引き止められる。
「待ってくれ、カズくん。せっかく来てくれたんだから日本酒と焼酎の注文をしとくよ」
「まいどっす」
戻りかけた足の動きを急いで止め、
「小の葉。お前先に帰っていいぞ。俺は注文を聞いて行く」
「うん」
やることもなく身の置き場に困っていた小の葉も快く返事をして、すっかり慣れた商店街を軽い足取りで戻る背を見つめる。
「仲のいいことで……熱いな」
俺に注文票を差し出しながら、飯沼さんが肩越しにつぶやいた。
「あのですね……」
なんとでも言っておくれ。俺はすぐに礼をして、リヤカー付きの自転車をUターンさせ、軽くなったペダルを漕いだ。
数十メートルも進んだ頃。後ろから呼び止められた。
「そこのリヤカーの青年!」
「この声は……」
最も会いたくないランキング1位だ。
「ナゼに神祈くんが、往来のど真ん中でリヤカー付きのチャリを引いておるのかね?」
振り返りたくないが、無視もできない。
「往来だからいいんじゃねえか。それより相変わらずネチっこいな、野川!」
「これは性分だ。仕方あるまい、神祈くん」
野川春樹。水泳部キャプテンだ。同じ運動部でも格闘技連合会の連中とは性質が真逆だ。常に上から接してくる態度と、粘っこく語ってくるいけ好かない野郎なのだ。あいつらとはまったく別種の人類だと言い切ってやる。
「お前も牛丼屋か?」
「ワタシをあんな野蛮な連中と一緒にしないでくれたまえ。ワタシは国道沿いにあるレストラン、『ブルーハワイ』だ」
「なにがブルーハワイだ。高校生なら牛丼かラーメンぐらいが分相応だぜ」
「分相応? だからそうしているのだ。ふんっ、リヤカーを引いてるような貧乏学生とは身分が違う」
「あー。はいはい。お坊ちゃまくんはお金持ちだったな。じゃあな。俺は急いで店に戻って配達の続きをしなけりゃなんねぇんだ」
「ワタシも急いでおる。セントポーレシア学園のお嬢様方がお待ちなのだ。神祈くんとの会話を楽しむ気はこれっぽっちも無い」
「うっせぇな! さっさと信号渡れ! 青点滅始めてんぜ」
「ふんっ。信号はワタシが渡るまで変わらないのだ」
歩の速度を上げるどころか、ワザとらしく緩め、黄色になってから渡りだしたバカは、派手にクラクションの罵声を浴びつつも、平然と渡って消えた。
「ばーか。ダンプに轢かれて死ね!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その後、数時間の肉体労働の後。ようやく配達業務から解放された。
「はいご苦労さん。カズくん今日は上がっていいよ」
吉沢酒店の店主、キヨッペのオヤジさんののんびりした声で開放された俺は、自転車の上で取り込み忘れたフトンのように脱力した。
「あ、あ、あ、あ、足が………ゆ、指の震えが止まらん」
体育会系の体力を自負していた俺なのに、日頃あまり使わない筋肉を酷使したのだろう。もう自転車に座るのもままならない。そのままあぐらを組んで地べたに座り込んだ。
夏はビールがよく売れるのは当たり前のことだが、中瓶だけで36ケース。大瓶を入れたら50ケース以上を運んだことになる。それ以外に日本酒にウイスキー。あ~。もうだめ、俺、死ぬ。
店先で無様な格好をしてうな垂れていると、首筋に冷水が滴り、悲鳴を上げて背中を反らした。
「あひゃぁぁ!」
「イッちゃん営業妨害だ。そんなところでぶっ倒れるなよ」
アロハ姿の杏だった。
冷えた麦茶を入れたグラスから垂れてくる雫をわざと俺の背中に滴らせていた。
「サンキュー」
杏の差し出したグラスを奪い取り、一気に飲み干す。
「うめぇぇえ」
腹の奥まで滲みていく冷茶の刺激に咽び、
「くぅぅぅう」
脳髄の先にまで広がる心地よい痛みに耐え、
「ふはぁぁぁ~」
喉の奥をアーケードの天井に晒した。
「やっと生き返りやがったな」
杏は竹刀の先で俺の頭を突っつくものの、
「もう一杯持ってこようか?」
乱暴な態度の中に優しさが紛れていた。
「イッチ死んでたの?」
意味不明な言葉と共に、地べたで伸びた俺の脇へしゃがみ込んだ小ノ葉。いつもの笑みが消え、影を下ろした表情で肩に手を添えてきた。
「こんなに疲れて……。これがこっちでのお仕事なの?」
小ノ葉は竹刀で肩をほぐす黒髪の少女に不安をぶつけた。
返事に困り片眉を歪める杏に、コップを返し、
「そうさ。その代償にお金を頂くんだ。ほら」
俺は、あえて爽快な顔をして薄茶色の封筒を見せた。
バイトは日給制なので終了時に精算してくれる。たった今そこでオヤジさんから貰ったところだ。
時間給820円。今日は5時間だから4100円のところ、初日だから色を付けてくれて5千円入っている。
自分ちのバイト以外で収入を得たのは、これが初めてなので心底嬉しい。これでやっと小ノ葉とラーメンでも食べにいける達成感と、幸せな気分に満たされた。これが社会に出たという喜びなのだろうか。高二の夏休みにして初めて感じた満足感だった。
だが、膝を抱えて封の中を覗いた小ノ葉の表情は暗いままだ。
「こんなに苦労したのに一枚だけ……おかあさんに貰ったのは二枚もあったのに……イッチかわいそう」
………………。
何だか分からない流動生命体だとか言っていたが、こいつは意外とナイーブで心優しいのだと感じた。
小ノ葉から人間臭ささを感じると共に、腹の底から庇護欲が湧き出てきた。
「心配してくれてるようだけど、これは5千円札と言って、お袋から貰ったお金が5枚でこれ1枚に変換されるんだ」
小ノ葉はみるみる明るくなり、
「そっか。お金にも単位があるのかぁ」
「そう。これが二枚あれば、一万円と呼ばれる一枚のお札になる。つまりお袋から貰ったヤツ十枚分だ」
「じゃぁ。あと81時間と42分26秒お仕事すれば、おとうさんの呪縛魔法から抜け出られるのね。それで自由の身なのね」
「計算早っ!」
それより俺、奴隷商人に売られたわけじゃねえし。
キヨッペもぷっと吹き出し。
「小ノ葉ちゃん、遊女の身請けでもする?」
「ユウジョ?」
小ノ葉でなく杏が首をねじったので、慌てて撤回する。
「ご、ごめん。口が滑った。気にしないでアンちゃん……」
小ノ葉は俺の肩に手を当てていたので、その情報が伝わったらしくキヨッペを睨んでいた。
遊女……。簡単に言えば昔の人身売買だ。くだらん情報だけは俺の脳ミソに蓄積されてんのさ。
「ま、まぁまぁ。深く考えるな………。それより小ノ葉。明日、これでラーメン食べに行こうな」
「ラーメン食べられるの? うれしいぃぃー」
喜色満面の笑みで飛びついて来た小ノ葉。
「――あ、こら、なにしゃがる!」
俺とのあいだを、杏が竹刀を挿しこんで引き離した。
「は、離れろ! 小ノ葉ねえちゃん」
こいつ本気か?
えらい勢いで杏が噛みつく。
「ここは日本だ。公衆の面前で女が男に抱きつくなんぞ。ブラジルでは許されても、ここでは百年早いんだ」
ぱしり、と力強い音を上げて、杏は地面の上で竹刀を跳ね上げた。
「お前、何年前の話をしてんだ?」
「うるせぇぇ。オレの目が黒いうちは、そんなことさせねえ。いいか小ノ葉ねえちゃん。日本には、ゴウに従えって言葉があるんだ」
「ずいぶんはしょったな。それを言うなら、虎穴に入らずんば郷に従えっていうんだ」
キヨッペは情けなさそうな笑い顔を俺に向けて、
「虎穴にはいらずんば虎児を得られず。それからアン。郷に入れば郷に従え、って言うんだよ」
「オケツ? ゴぅ?」
俺から引き離されて情報が途切れた小ノ葉は、間の抜けた言葉を連呼するが、結局、俺の脳ミソを探ったって答えは落ちていない。くだらない情報はあるくせに、こういう一般教養的な常識が欠損している――こっちの日本人として恥じだな。
肩をすくめる俺から小ノ葉に視線を戻したキヨッペは、
「郷に入れば郷に従え、と言うのは、その世界に来たのならそこの習慣に従いなさいと言う意味だよ」
はいはい。あんたはエライ。