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酒屋の奥へ消えたキヨッペと入れ替わりに、トロピカル色が涼しげなアロハシャツを着た杏が店から出てきた。
「にぃやんは、小ノ葉ねえちゃんが気になってしょうがないんだ」
杏は小ノ葉の胸の辺りに落としていた視線を二階へ送りながら、溜め息と共に脱力した声を出す。
「にぃやんもパイオツカイデーには弱いからな」
とんでもないことをぶっ放す妹だな。
「お前も最近カイデーじゃないか。目立ってきたな」
「ば、ばっかやろー。これはパイオツじゃねえ。胸筋っていうんだ。オレも最近イッちゃんを見習ってトレーニングしてっからな」
「ふっ……」
鼻で笑っちまうぜ。
「胸筋っていうのはこういう固いもんだ」
自慢げにTシャツの胸を張って、モリッっとしてやる。だてに俺は体育会系をしていない。意外とちょっとしたもんだぜ。
杏は眩しげにそれを見て、
「オレだって固いぜ」と言うと同じポーズを取るが、アロハの内側にポヨンと揺れるやけに柔らかそうな盛り上がりが二つ。すかさず小ノ葉が指を差して忠告した。
「杏ちゃん。ブララしたほうがいいよ。ルリさんが言ってた」
「小ノ葉ねえちゃん。クララみたいに言うなよ。それを言うならブラだ。『ラ』は一回でいいんだ。んで男はそんなもん付けないんだぜ」
「ムリするな杏。素肌にアロハはやばいだろ」
「うるせえ、うるせえ。男はなぁ。夏に限らず素肌にシャツ一丁なんだ」
〔呆れたバカだな〕
成長していくオンナの身体をどこまで誤魔化し続ける気でいるんだろう。カッコいい男でも現れて何とかしてもらわないと、歪んだ青春を送りそうだ。
「杏。せめて下にTシャツ着ろよ」
似非少年は胸筋を両手で持ち上げた後、ちょっと考え込むように瞬いてから、
「うっせぇぇ、オレは男だ。さぁ小ノ葉ねえちゃん行くぜ」
「どこへ?」
「今日はねえちゃんの歓迎会なんだ。かあちゃんが張り切って料理の準備してんだからその手伝いだよ。これからの男は料理もできないと嫁さんを貰えないからな」
店の奥、部屋に上がる三和土の向こうに家庭用の台所を改装した調理場がある。立ち飲み処と銘打つが、それは近所の居酒屋に気を使ってのことで、キヨッペのお袋さんは将来この酒店を居酒屋にしようと計画していることが、この調理場を見ればあきらかだった。
「小ノ葉ねえちゃんも見学しておいて損はねえぜ。かあちゃんはプロ級の腕してっからな」
女らしいほっそりとした小ノ葉の手を引いて、杏は店の奥へと消えた。
ほほえましくて俺は目を細める。杏の救われるところは、母親の手料理を確実に覚えていくところだ。いい嫁さんになりそうなとこだが……いかんせん。あれだもんな……。
杏の将来については後回しだ。今日は初日なんだから、とにかく職務に全うしなければいけない。
俺は重くってふらつく自転車を力任せに押さえつけつつ、商店街の通路へ一歩出た。
「重いから無理すんなよ」と後ろから声を掛けてくれるキヨッペのオヤジさんに会釈をしてから、ペダルをこいだ。
肉体労働向きの俺のボディは2ケースほどのビールは負担にはならず、軽々と一軒目の配達を終了。吉沢酒店へ舞い戻ってきた。
「おかえりぃ」
と優しく迎えてくれたオヤジさんの前には、今度は6ケースのビールが積み上げられていた。
「次は、国道の手前の中村さんだよ」
居酒屋『ゴッコ』だ。ここも親父とお袋が時々行く店なのだ。ここから片道500メートルほどの距離がある。歩いても結構くたびれる。
「こりゃぁ……マジきついな」
自転車で一度に運ぶのは無理だ。どう考えても三往復……。距離にして約3キロか……タルいな。
そこへ。
「これ使いな」と杏が声を掛け、小ノ葉を乗せて店の前に持ち出して来たのはリヤカーだった。
格好なんかどうでもいい。ようは効率の問題だ。
ありがてぇと手を出して受け取ると、やけに杏は上機嫌で、
「肉体派のイッちゃんにはこういうものが似合ってんな」
ショートヘアーを軽やかに振った。
絵に描いたような爽やか野郎だ。女にしておくのはもったいない。ファッションチェックばかり繰り返す兄貴と、交代したほうがいいかもしれない。
「アン! ジャガイモの皮むき手伝ってちょうだい」
奥から渡るオバさんの声に、あいよー、と快く戻ろうとする杏に小ノ葉が、
「今度はちょっとイッチのお手伝いするから」
と手を振って伝えた。
「あぁ。手伝ってやんな」
女のくせにハンサム笑顔で答える杏に肩をすくめ、俺は6個のケースをリヤカーの荷台に積み込み、それを自転車の後ろと繋ぎとめていると、いつのまにか荷物と一緒に小ノ葉が座り込んでおり、楽しそうにしていた。
「いつでも出発オーケーよ」
何考えてんだこいつ。これは馬車じゃねえよ。
「お前なぁ、どこがお手伝いだ。重くなるだけだろ。それより軽トラにでも変身して、一気に運んだほうが助かるぜ」
「軽トラって?」
「あー、ウソだよ。免許ねえし、どうせエンジン無しのハリボテトラックなら、何の意味もねえし」
小ノ葉はとびっきりの笑顔で、
「じゃあ押してあげるよ」
素直にリヤカーの後ろに回り込んだ。
たかが500メートルだが、6ケースは結構きつい。
商店街の通路を小ノ葉の後押しを受けながら、うんしょうんしょと押していたら……。
見慣れた集団がこちらへ歩いて来るのが見えた。
「鬱陶しい連中が前から来やがったぜ」
自然と言葉が漏れた。
思っていたとおり、中の一人が俺を見つけて駆け寄って来てた。
「おりょ。神祈じゃね? 何でリヤカーなんか引いてんだよ?」
そいつは同じ高校の空手部主将、後藤田忠だ。
「何って見りゃ分かるだろ、バイトだ。健全な高校生は夏休みにバイトをしてだな、小銭を稼ぐんだよ」
「電気屋ならわかるけどさ、何で酒屋のバイトなんだ?」
と口を挟んできたのは、同じくレスリング部のキャプテン、藤木山聡だ。逆三角形の上半身は、杏あこがれの体形だ。
「ははーん。筋肉強化のために重労働のほうを選んだわけか……。おぉ。となるとようやく我が部へ入る決心をしてくれたわけだな」
藤木山は勝手にいいほうへ考えを歪めるくせがある。
「んなわけねえ……」
まだ人が喋っているのに。
「何だよ、神祈ぃ。レスリングなんかやめて、前から言ってるだろ……こっちに入れよ。お前のパワーをもってすれば県大会も安心して出られるんだ」
とは剣道部の主将、佐藤健吾だ。
筋トレなんかするんじゃなかったな……と反省する俺の面前で、
「おい。剣道部! 抜け駆けすんな。神祈は柔道部が先にもらう約束をしてるんだ」
「抜け駆けじゃねえよ。神祈に柔道は似合わない。やはり剣術だよな」
「なんだと。チャンバラじゃねえか、神祈は体一つで勝負できる筋肉をしてんだぞ」
柔道部主将、錦田伸三郎と剣道部の佐藤が小競り合いを始めたので、二人を引き離す。
「ちょっと待てって。俺はもう帰宅部に所属してんだ。どこにも入らねえよ」
「えー。それだけの体格してんのに、もったいないよー、神祈くん」
すかさず間に割り込んだのは、弓道部のキャプテン、小平三平だ。
「それなら弓道部へおいでよ。カッコいいし、女子部員も綺麗だし、全員ハカマなんだぜ。そそること間違いなしさ」
おいおい。どこかの客引きみたいなことを言うなよ。
5人の運動部キャプテンは、それぞれに口をそろえて俺を勧誘するけど、こっちは忙しい身なのだ。
「お前らは早朝練習の帰りで、のんびりしてるかもしれないけど。こっちは働く青年なんだ。ジャマしないでくれ」
「何言ってんだ。オレたちは朝練の後、格闘技連合会の主将を集めて牛丼屋で昼食を取りながら会議をしていただけだ。このあと自主トレーニングが待ってんだぜ」
代表して言い返したのは空手部の後藤田だ。こいつは古臭い頭の持ち主なので、結構疲れるタイプなのだ。
そこへ――。
「イッチって人気があるのね」
口を出したのは、リヤカーの後ろにいた小の葉。自然な動きで俺の腕にしがみついた。
もちろんその行動は、連中の情報を仕入れるために俺の脳内を覗き見るのが目的だが、運動バカには理解不能だ。
「「「「「この子、ダレだよ!?」」」」」
5人全員のコーラスだ。一語一句がきれいに重なった。
「ああ。この子は俺の彼女だ」
俺は優越感に浸りつつ、体裁もあるので小の葉を引き剥がす。
「「「「カノジョ!」」」
「彼女だと?」
おしい。空手部の後藤田だけがずれた。
「可愛い……」
「こんな子は我が校にはいないな」
「マジ、かわゆいっす」
目がハートになっているぜ、弓道部キャプテン。
「こんにちワ。あたし小の葉です」
ふむ。挨拶の仕方は完成したな。
いったん小の葉に据え置かれた5人の視線が、一拍空いて、一斉に俺へと振られる。
「コノヤロー、神祈! どこで拾った」
「痛ててて、柔道部! 本気で絞めてくんな。くのヤロ!」
背中に手を回してこっちも反撃だ。
「ぐおぉぉぉ。ワルかった神祈、本気になるな」
締め上げてきたキャプテンを逆に締め返してやった。
「はあ、はあ。オメエの強さは知ってんだから本気でくるなよ……」
肩で息する柔道部キャプテンを憐憫の眼差しで見るのはレスリング部キャプテンである藤木山だ。
「県大会準優勝の主将を逆に締め上げる神祈くん。ぜひ秋からレスリング部へ正式入部を求める。キミがいれば優勝間違いなしだ」
「だめだ。神祈は剣道部の物だ。下手なクラブに神祈を送り込むと人を殺めるかもしれない。我がクラブが引き取って管理する」
だんだんと俺が化け物みたいに扱われてきたので、さっさと切り上げた。
「じゃあな。俺はバイトに精を出すから」
「待ってくれ。神祈くん。もうちょっとこの子を見ていたい」
「俺はバイト中だと言ってるだろ」
「それなら僕も手伝ってあげるよ」
と言ってリヤカーからビールを1ケースを持ち上げて小ノ葉にアピール。
「僕は弓道部の小平って言うんだ。憶えておいてね」
「あー。テメエ。弓道部。また抜け駆けしやがったな。じゃオレも手伝ってやる」
「このやろ、柔道部め、おい、神祈。これをどこまで運べばいいんだ」
「え? 6ケース全部を居酒屋ゴッコまでだぜ」
「国道の手前のゴッコか?」
目がギラギラしてんぜ、レスリング部。
「よっしゃ。空手部も手を貸す。なんなら部員全員を集合させようか?」
「……バカだ、こいつら」
〔いいんじゃね。手伝うってんだから〕
「じゃあ。頼むぜ。その代わり丁寧に扱えよ。お前ら運動部の荒くれ者は雑だからな」
「なに言いやがる。その荒くれドモを裏で牛耳ってるのが、神祈、オメエじゃねえか」
「人を覇王みたいに言うな、柔道バカ」
でもって5人の助っ人のおかげで、俺が運ぶのは1ケースだけになった。
「うほほほ。こりゃ楽だ」
「で、何度も訊くけどよ、この可愛い子、ダレ?」
柔道部だけでなく5人全員の疑問だと思う。ビールのケースをそれぞれに肩に担ぎ、興味津々の様子。
「小の葉って可愛い名前だけど、上の名前は?」
小の葉は小平の質問を受け、思い出したようにアーケードの屋根を見上げた。そして首を捻る。
「上って?」
しまったフルネームを決めてなかった。
《まずいかも……》
「名前には苗字ってのがあるんだよ。キミもあるだろ?」と訊いたのは空手部主将。
小の葉は5人の猛者を嫣然と見渡してから、こくんと首を落とした。
「あるよ」
「そう。それを教えてほしいな」
「あたしは……δΨィ―――――――小の葉です」
少々の間が空き、最初にレスリング部の藤木山が辺りを探った。
「おい、蚊が飛んでんぜ?」
「ほんとだ。神祈くん、この商店街は蚊取り線香点いてないの?」
「……ねえよ」
そんなこんなで、こいつら格闘技一派に掛かったらビールの1ケースを担ぐことなど赤子の手を捻るのと同じだ。あっという間に、楽々と居酒屋ゴッコの前に到着。小の葉を囲んでいた連中は運んできたビールのケースを再び俺のリヤカーへと積み直した。
「ほらよ、神祈。運んでやったからな」
「柔道部には入らねえぜ」
「それはまた後の話だ。それよりもう一度この子と会わせてくれな」
「どうだかね」
俺はニヤケ面で返し、錦田は肩をすくめた。
「みなさーん。お手伝いありがとうございましたー」
春風のような爽やか笑顔で連中を労う小の葉へ、今度はレスリング部がしゃしゃり出る。
「とんでもありませんよ。級友が困っていたら助ける、これがわが格闘技連合会の使命です」
「また、お前だけ抜け駆けしやがって。オレ、剣道部のキャプテンで佐藤健吾と言います。名前だけでも憶えて帰ってください」
「お前は芸能人か」
目の前は国道が行く手を遮断。連中はそこを渡ろうとしているが中々歩きださない。
「おーい。さっさと帰れよ。信号が赤に変わるぜ」
「お。そうか」
で、やっと歩き出したが、
「小の葉ちゃーん。またねー」とは柔道部で、
「今度お茶しましょう」
軽薄な野郎は弓道部の小平だ。
「小の葉ちゃーーん」
道路のあっち側を行く連中をすがめる俺。
「まだ叫んでやがる」
「イッチって人気があるんだね?」
「ちげえよ。お前に人気があるんだよ」
「どうして?」
「……まあいい。配達業務に戻るぞ」
自覚が無いので、一安心だった。