2/3
少女は細い指で自分を示し、ちょっと寄り目になり――それがやけに可愛らしくて惹きつけられる――自分の名を告げた。
「あたしミカ。みのだミカって言うの。三つの野原の田んぼって書くのよ。あんたは?」
なんか向こうのペースに飲まれてんな俺……。
「三野田さんか……。ちゅうか。あんた俺の話し聞いてないの? 俺は、一途に神に祈ると書いて、」
「イッチでいいよね」
「あひゃ?」
なんで俺のあだ名を知ってんだ?
何度も言うが、俺の名は一途に神に祈ると書いて、『神祈一途』と読む。
それのどこがイッチだと言いたいんだろう?
よく見てくれ『一』って漢字があるだろ。だから『イッチ』だ。あだ名なんてこんなもんさ……って、何の説明をしてんだ俺は。
それよりもう一度考えよう。どうして俺のあだ名を知るかだ。
俺とは初対面だろ? 違うのか?
まさか俺んちの親戚か?
親戚にこんな可愛い子はいないぞ。だいたいは鼻と口があっちを向いたようなヤツばかりだ。
まさか……。
オヤジの隠し子か?
それならあり得る。あのスケベ親父のことだ。どこかに女を作ってすましている可能性はじゅうぶんある。となるとこの子と俺は腹違いの兄妹……。
妹か姉か……。いやいや、これだけの美貌だぜ。俺はどっちでも許すぜ。お袋、あんたはどうする? 許すだろ?
女の子が欲しかったって、俺の前で露骨に肩を落としたあんた。悪かったな野郎で。
何せ俺は小学校に入るまで女の子として育てられたんだ。どの写真を見てもスカートを穿かされたものばかりだ。
だから小5で突如目覚めた。遅いって? 知るかよ。目覚めないよりましだろ――で、とにかく目覚めたんだ。俺は男だぁぁぁぁ、と……。
古臭い青春ドラマみたいだけど、それから筋トレとランニングの日々だ。カッコいい男は砂浜を走ってりゃぁ、女は勝手につくんだ。
それより男になるのになぜ走る必要があるのか……。ぜんぜん考えていなかったけど、教科書にしたスポコンのマンガでは全員走っていたからな。
そして気づけば女はつかずに、筋肉が付いた。
まあ。いいさ。女なんかカッコいい男にさえなれば向こうからやってくる。今日はみたいにな。ちょっと変なヤツだけど、面とボディは最高じゃないか。俺の上腕二頭筋にはこれぐらいの美人でないと似合わないのさ。
白状すると、俺は一つの問題を抱えていた。
例えばの話だが、こんな変なヤツとでも、うまく行きゃ俺の彼女になるだろう。そして何年かお付き合いをしてだな。いずれ結婚ってことになる。
結婚と言えば結婚式だ。んでもって結婚式といえば、互いの成長過程をスライドにして見せ合うシーンがあるよな。その時、夫となる人物の幼児時代の写真がアレだったらまずいだろ。大人になって女になる人は大勢いるが、子供時代に女の格好をした写真ばかり出てきたら、こりゃ大問題だ。
ならどうすんだって話だ。
そうなる前に焼却しちまえばいいんだ。帰ったらアルバムの整理だ。そうだそうしよう。今日をきっかけにすぐ実行するんだ。
あ、待て、早合点するな。結婚式まではまだ日がある。
それより腹違いの妹とは結婚できるのか?
いやいや。この変なのが俺のあだ名を知るからって、腹違いの妹と結論付けるのは速断過ぎる。
同級生の妹か、もしくはその友達というパターンもある。それが偶然この店に入って来ただけのことだ。そうか。杏の友達か。それなら問題ない。
そういやあ、杏も最近色気づきやがってしょうがねえヤロウだぜ。
俺の幼馴染み、キヨッペ、吉沢恭平の二つ下の妹だから中3か。そろそろ男でもできたんじゃねえの?
キヨッペと同じで杏も幼馴染だ。今じゃ俺の妹みたいなもんだけど。あいつは気が強くて男勝りな性格なので弟だな。
あ、うん。弟か。いいな。そう思うとあいつは俺にぴったりだ。
おいおい。どうして脳ミソの中をこんな話でいっぱいにしてんだ?
まるで押し入れの中から雑多な物をひっぱり出して、年の瀬の大掃除みたくなってんじゃん。なんでこうなったんだ?
そうか目の前でニコニコした美少女が何で俺のあだ名を知ってんのか、だったな。
「きみ。どこの子?」
どうだ。『あんた』から『きみ』に格上げだぜ。
まんがいち誰かの知り合いだとしたら、上手いことその立場を利用して、お友達になってもらうっていう手もありだな。
「量子特異点が開いてさ。あっと言う間に吸い込まれて気が付いたら異世界なの」
「りょうし……? イセカイ?」
頭の上からナメコの栽培みたいに、疑問符をいっぱい生やす俺の隣で、美少女は妙な言葉でこう括った。
「帰れなくなっちゃった」
「はぁ?」
もう一度、でっかい疑問符を頭に生やした。今度はマツタケみたいなやつな。
そして、急に目の前が開けて、数々の難問が一気に解けた快感に浸った。
な――んだ。迷子か。
やっと気を取り直して、ドンブリの底に残っていた御飯を頬張った。
と、その時だ。顔に差してきた影に視線を上げた瞬間、噛み潰す間もなく丸呑みにしてしちまったぜ。
「はいよぉ~。牛丼10杯ね」
二段重ねになったトレーで運ばれてきた物体が、大きく俺の前に影を落としたのだ。
「うぉぉぉぉ!」
ずらずらずらずらーと並べられた牛丼1、牛丼2、牛丼3、牛丼4、牛丼5、牛丼6、牛丼7、牛丼8、牛丼9、牛丼10。
うげぇぇ。マジかよ。コンだけ食えんのあんた?
こいつギャル●根かよ。
それとおやっさん確認しろよ。こんな小柄な子が牛丼10杯は無理だろ。
「――すげぇぇぇ。食いやがったぜ」
一杯を残して9個の空ドンブリが、俺の前で重なっていた。
最後の一杯はゆっくりと味わうようだ。ここまではほとんど掃除機に近いペースだった。
リアル大飯食らいを初めて見た。ホントにいてんだ、こんなヤツ。こんな子を彼女にしたら一瞬で破産だぜ。
少女は美味そうに最後の一杯を頬張りながら、
「さっきさ。日本の裏側と量子特異点が開いたんだよ。あんまりみごとでさ、ちょっと覗いたら落ちちゃったんだ」
「げぶっ!」
飲んでいた水が鼻から噴き出した。
「……特異点って、だん(なん)ですか?」
お絞りで顔を拭きつつ尋ねる。
「え? 知らないの? あんた何年生?」
「高校二年……」
「なにそれ?」
やばい。変なのに関わっちゃったよ。外人さんだったんだ。てっきり日本人だと思うぜ。日本語ベラベラだし……。
日本の裏側って言ったら南米だよな。
「習ってないんだ……ふぅん」
「そっちの国では習ってんのかよ?」
また言葉遣いが荒くなってきた。
彼女は可愛いほっぺたをモグモグさせた後、ごっくんと飲み下してから、
「あたしは日本人よ。それから研究者でもあるの」
「はぇぇ。大学生っすか……年上だとは思ってもいませんでしたよ」
またまた言葉遣いを変える俺って、超いい加減なヤツだ。
だけど年上と分かって逆に落ち着いて訊くことができる。
「量子特異点って何すか?」
「宇宙を捲り上げることができるの。ちょうどここの空間の裏側にある日本よ。あたしビックリしたんだけど、ここも日本って言うのね」
こりゃだいぶ日本語がおかしいけど、ようは日本の裏から来たと言いたいワケだな。
「ブラジルの大学生ですか。留学? それともホームステイっすか?」
なるほど。それでラテン系の体をしてんだ。
「なにそれ?」
うーむ。こっちが何か言っても向こうには通じないし、向こうが説明する話も理解できない。
おかしいぞ。日本語で会話をしてんのに、何も分からないのはどういうわけだろう。単に俺がバカなのか?
でもよ。日本の裏側といえばブラジルだろ。ブラジルの皆さーんって叫んぶ人もいたよな。テレビに。
それより頭の中に、またまた一つの不安材料が出来てしまった。
ブラジルから来た少女は、最後のドンブリをそろそろ食い終わろうとするところなんだけど、よく見たら手ぶらだ。
黄色いTシャツには大きな丸いものを二つ包んで、ぽよよーんと突き出してはいるが、財布らしきものを入れるポケットが無い。Tシャツなので当然だけど、デニム生地の短パンにもポケットらしきものが無い。実用性ゼロのパンツだがファッショナブルなデザインに凝ると、ポケットなどはダサく野暮ったいものとなる。まあ、そんなことはどうでもいいが、このたくさんの牛丼代をこの子は払えるのか?
日本にやって来て最初に飛び込んだお店がここだとして、お金を持たなくてもブラジルでは食事ができたのだろうか。手にお金を握る様子も無いし。
まさかと思うが、あっちではピースとやればタダでメシが食えるのか?
行ったことはないけど、美人だとそれが通用するのがブラジルなのかもしれない。日本だってお相撲さんは『ごっちゃんです』と言うフリーパス券があるというし。
でも――なんか風向きがおかしい気がするのは俺が神経質過ぎるのか?
「あぁぁ美味しかった。牛丼美味しいね、イッチ↑」
おい。イッチの『チ』部分で半オクターブキーを上げるんじゃねえ。それだとミナミちゃんが『タッチ』って甘えたときの声にそっくりじゃないか。
なななななな、なんだ!
「お、おい、お前!」
きみ、あんた、から最低ランクの『お前』にまで格下げだ!
「俺の腕にしがみつくんじゃねえ!」
「ねぇ。また連れてきてね。イッチ↑」
「まいどありー」
おやっさん。そのタイミングで礼を言わないでよ。お勘定なんてひと言も言っていないし。
奥からおねえさんも出て来て。
「えっと。一杯380円ですので……3千800円の……」
ちらりと俺の食ってたドンブリを見て、
「4千180円です。毎度ありがとうございます」
満面の笑みで丁重に頭を下げやがった。
おーい。なんで?
この人、無関係っすよ。誰なんすか、この女の人?
「ねぇ。今度はなに食べる? イッチ↑」
その子は俺の腕にやけに柔らかい物体を押し当てて、甘えた声を上げた。
おいおい。これだと誰がどう見たってカップルじゃないか。俺はひとりで来たんだ。
おやっさん。女の子のお持ち帰りなんて頼んだつもりはないって。
4千円なら安いって?
知らんよ。俺、高校生だし。
そんなことより――。
ひと言言ってやらないと、気がすまない。俺だって言うときは言うんだ。それが男ってぇもんだろ。
「お前! まだ食うのかよ!」
「ありやとあんしたー」
牛丼屋のおやっさんが、深々と頭を下げる光景を背に受けながら、俺は炎天の真下をとてつもなく美人で大食いの少女をぶら下げていた。
なんで俺が払わなければいけないんだよ……。
ちらりと横を見る。
懐は極冠の寒さなのに、やけに俺の腕だけは熱い。そりゃ南国のマンゴーみたいな熟れた果実がポヨンポヨンしてりゃ熱くもなるか。
「やっべーっし」
事の始まりは、高校2年の夏休み初日の昼下がりだった。