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キヨッペの家まで15秒もあれば到着さ。
この時間だと店は開いていないが、シャッターが半分上がっているので、そこから横開きの扉をスライドさせて屈んで中に入る。
アルコールの臭いやら、おでんの臭いやらが混ざり合った臭気がつんと鼻を刺してくるが、すぐに慣れてしまう。そうでなくても商店街は雑多な臭いが混ざり合った一種独特の世界なのさ。
「キヨッペ、いるー?」
店の奥に向かって放ったいつもより大きめの声を聞き伝て、出て来たガリでひょろ長の男子。それが同じ西立花高校の二年生。同級生であり幼馴染みの吉沢恭平、キヨッペだ。
身長は俺とほぼ同じだが、黒くて薄いフレームのメガネをかけていて賢そうに見える。いや実際俺より成績は上だ。
まだ昼前だというのに頭髪は綺麗にオールバック。ポマードで固めた髪の毛を黒潮の荒波みたいにうねらせて、額の上で派手に波しぶきを上げるかのように跳ねたヘアースタイルだ。ヤツは一見真面目そうだが、意外とお洒落さんなのだ。
ほっそりとした顔立ちは、俺よりもイケメン度が高いが、オタク度もかなり高いことが校内に知れ渡っているので、モテ度はいまいち。俺も面はそこそこだと自負するが、スケベ度が高いことがあり、結局、女子にはモテない。なのに、互いにベースケ波の鍛錬に余念が無いのは、男として正しく生長したな、と思う今日この頃さ。
「やぁ、イッチ。おはよ……ちょうどよかった……。あのさ……」
何か言い淀んでいた。
「どうした?」
妙な雰囲気を感じたが、俺のほうが切羽詰まっている。
「あのよ。ちょっと相談に乗ってくれ」
「いいよ。あがって」
暖簾を掻き分け奥へ入って行くキヨッペに連れだって、三和土から部屋へ上がらせてもらう。
体格的に見ると、俺のほうが筋肉質で体育会系のボディをしており、逆に痩せていて下から物を言うキヨッペが弱々しく見られがちだが、何を隠そう立場は常にキヨッペのほうが上なのだ。頭脳明晰なところもあるが、どうしてもキヨッペに頭が上がらない理由がある。
女として育てられていた頃から、そのことに何の疑問も持たずに小学校へ上がり、そして現在に至るまで、知られたくない俺の遍歴を全て把握するのがキヨッペだ。クラスの連中に俺の恥部を黙っていてくれるのはヤツの優しさなのか、最終兵器として握られているのか定かではない。口調が常に下からなのは、何を意図するのか……少々不気味だ。
廊下を通り、暗い階段を上がって突き当たりの左側、ヤツの部屋に入る。
見慣れた景色が広がる。マルチモニターで固められたヤツの城だ。簡単に言うとパソコン部屋だな。大きなモニターが三つ並び、左右の画面にはたくさんのアイコンが並んでいて、俺には理解不能な文字がズラズラと並ぶ中央のモニターには、白い画面が開いていた。こいつの日課は、自分で拵えたSFに関するホームページの更新だ。たぶん表示中の画面はそれだろうな。
「アップ中?」
俺の問いに、キヨッペはパソコンデスクから椅子を引き出して座り、
「いや。今ネタ切れなんだよ」
隣りに置いてある四つ足の木の椅子を俺に勧めた。
「SFってもファンタジーじゃないよ。サイエンスだかんね」
「分かってるって、ようするに科学だよな」
俺には興味無いし理解する気も起きない。でもこいつはそこにこだわっていて、中学の頃、その手の話題で『ただの空想話』じゃないか、と笑っていなしたら、こいつは泣いて怒り出した。空想だけど科学的根拠に基づいた、実話に限りなく近づけた話だそうだ。
恋愛話だって空想だし、推理物だってみんな同じだと思う。そういう意味で言ったつもりなんだけど、ヤツはそうは取らなかったようだ。
その時の剣幕はクラスの誰をもビビらす迫力だった。それからこの手の話題になると、できるだけ慎重に言葉を選ぶことにしている。
「不思議だけど、科学的に説明できなきゃいけないんだ」
ほらな。もう牽制してきただろ。
「わりい。実はなお前でないと解けないような科学的難問を持ってきたんだ」
キヨッペはメガネのフレームを指で押し上げて、キラリと瞳を光らせた。
「その前に……」
キヨッペは爽やか青年を演じると、瞬時に反転。今度はえらく剣呑な視線を俺に撃ち込んできた。
「アンが落ち込んでるんだ。イッチのせいで……」
「杏が? 俺のせい? 何の話だよ。さっき会ったけど元気だったぜ。竹刀を振り回しに公園へ行くってさ」
「それは憂さ晴らしなんだよ」
「憂さ晴らし?」
意味わからんぜ、実際。
胸ポケットからステンレス製の櫛を引き抜き、そいつで俺を指し、
「昨日、えらくダイナマイトな女の子と歩いていたみたいだね」
「ああぁ。そうだ。それを相談しに来た」
「そうか。本当なんだね。あいつだけは悲しませたくなかったのに……これも運命だな……」
キヨッペは急激にトーンを落とした。
「何言ってんの?」
しゅらん、と櫛を刃物みたいに持ち構え、そいつでまたもや俺を強く指し示した。
「なんだよ……キヨッペ……」
俺はビックリして仰け反る。
「うるさい! 今日からその呼び方をやめてくれ。イッチとはもう幼馴染でもなんでもない。ただの同級生だ。いいね!」
「何怒ってんだよ。あの女はタダのすれ違い事故だ」
手首を返したキヨッペは、黒々としたオールバックに銀の櫛を挿して梳きながら、俺にではなく天井のすぐ下辺りに語りかけた。
「その子と腕を組み合っていたそうじゃないか」
「なんで俺が女と歩いていただけで、お前がそんなに怒るんだよ」
ワカメの食い過ぎか、と言いたくなるような艶々で真っ黒な髪の毛を見つめ、キヨッペの怒りの原因を探るが、思い当たる節がまったく出てこない。
それは嫉妬心なのか?
俺が先に女子と近づいたからだろうか?
「お前、もしかしてこれか?」
手のひらを弓なりに逸らして、甲のほうをほっぺたに添える仕草。
「へんな格好はよしてくれ。僕はれっきとした男だ。相手にするのは女性一本だよ。基本男には触れたくない」
「分かってるって。それなら杏のほうを何とかしろ、あいつマジで男になる気だぞ」
「だからそれをまかせてるんだろ。妹を何とかできるのは、女から男になったイッチだけなんだ。なんとかしてくれ」
「誤解を受けそうなセリフだな。あれはお袋に弄ばれていただけで、俺は生まれてから今日まで、いや、これからもずっと男だ」
――そんな話をしに来たのではない。
「ちょっと待って。今日はお前の頼みを聞きに来たんじゃなくて、」
キヨッペは俺の言葉を手のひらで寸断させて、
「先にこれだけを約束してくれ、アンを悲しませないでくれ」
「はぁ? 意味わかんね」
こいつも受験ノイローゼに陥った妹の兄貴として、だいぶ追い詰められているんだろう。
「わかった。俺も男だ。勉強で分からないところがあれば教えてやる。そう杏に伝えてくれ」
ヤツはちょっとのあいだ口を丸く開けてから、
「いや。勉強はいい。そっちは僕が担当するから」
腹の立つヤツ……。
「じゃあ何を担当するんだ。あいつのサンドバック代りになれと? 体がもたんぜ……」
「僕とアンちゃんはイッチと幼馴染みだろ?」
「え? ああ。そうだよ……」
何が言いたのか、さっぱりだ。
つまり杏を女に戻してくれということか?
「――わかったよ。あいつも俺の妹みたいなもんだ。なんでも相談に乗ってやるよ」
「安心したよ。そこまで言い切ってくれるのなら、この話はお終いにしよう」
ようやく銀の櫛を胸ポケットに仕舞い込んだ。
ふうぅ。なんだったんだよ、いったい。
一段落ついたところで、今度はこっちの番だ。
牛丼屋から始まり風呂の水。ついでに腹の中に宇宙を持っていて、体の一部を物質化できるうえに寝るとスライムに変形する少女の話をした。
「と言うわけだ、キヨッペ。ほんとうに変身すんだ。ウソじゃねえ」
「……あのさ」
椅子をギシギシいわせて、重たげに口を開ける。
「ありえない話じゃないけど。やっぱり直接見てみないと、僕にも簡単に答えは出せないよ」
夢を見ていたとか、でたらめ言うなとか、ひと言で済ませないだけ、やはりキヨッペはたいしたヤツだ。信じてくれそうだ。
「美人なんだけど、すげぇ変なヤツで正直困ってる」
「そうか……そういうことか。なるほど……よかった」
何だかこいつ、急に明るい表情に変わってないかい?
「安心したよ」
「なにが?」
小ノ葉の口癖がこっちにまでうつっちまった。
急ににこやかになったキヨッペは、俺の大嫌いな小野田の物真似付きで説明を始めた。
あ。小野田って高校の物理の先生な。
「量子特異点とはだニィ、こちらの世界のだニィ。物理法則がァー抹消される点だニィ」
「言ってることがよく解かりません……小野田先生」
手を上げて、こっちも一緒になって盛り上がってやる。
キヨッペはコホンと咳払いをして「これしんどい」と言って、普通のトーンに戻した。
「あのね。物理法則が成り立たなくなるんだ。そこを境にね」
「お願い。授業はやめてくれって」
「その子はそこからやって来た……そう、無機質と有機質のどちらの性質をも兼ね備えている……物体とも生命体とも取れない、つまり、流動性の固形物……」
「お、おいキヨッペ? 大丈夫か? 目がいっちまってるよ」
腕を組んで、何度もうなずくと、
「……流体ソリッドを形成する物質に宿ることができる生命体だ。それも特異点がボディのセンターにあるにもかかわらず消滅しない」
グイッと細っこい顎を上げた。
「それで? その子は自分たち種族のことをなんて言ってたって?」
提灯アンコウみたいな髪の毛の先を揺すって、次なる興味を待つ瞳は子犬のようだ。
「たしか。可変種って言ってた。他にも不変種がいるとか……」
キヨッペは虚ろな目に転じると天井を仰ぎ、
「……なるほど。身体のカタチを自由に変えられるから可変種。できない不変種。こちらの世界では自由に場所を移動できる動物と、できない植物……すごい。次元が違うと生態も異なる……これは稀有な存在だぞ! うおぉぉぉ! 来たぞ!」
どうやら、俺は何かのスイッチを押したようだ。
キヨッペはいきなりパソコンに向かうと猛烈なスピードでキーボードを連打。「来た来た来たぁー」とか叫んで自分の世界に入ってしまった。こうなるともう手が付けられなくなるので、放っておく。それが一番いい。
「じゃあキヨッペ、俺、帰るわ。んでその子と夕方までにご対面させてやるからな」
と言って部屋から出ようと戸に手を掛ける俺に親指を一本立てて、キヨッペはニカッと笑いやがった。
「んとによ……」
溜め息混じりで戸を開けた。
「うぉっと!」
目の前にショートカットヘアーの少女が立っていた。
兄貴と同じ髪質を受け継いで、黒々とさせた艶のある髪の毛は純日本風。
キヨッペよりもさらにクオリティがアップした端正な面立ちをした分、こいつもロングへヤーにすれば、かなりの美人になれるのに、性格が男以上に男らしいため、女子にモテまくるらしい。
「杏! もう帰ってきたのか?」
「にぃやんとの話し合いが気になったんだ」
「心配するな。お前も仲間に入れてやる」
「ほんとう?」
黒くて真ん丸の目が俺に向いた。
「ああ。夕方までに一人の女性を紹介するから、その人をお手本にしろ」
「あの。ベッピンさんかい?」
「そうだ。小ノ葉って言うんだ。仲良くしてくれよな」
杏は首が千切れるほどに前後に振って、
「するするする。オレ、キレイなねえちゃんが欲しかったんだ」
「おうよ。俺もさ」
人間ならもっとよかったんだけどな。
【ナデシコと語らふ(ひとまず3話)】へと続きます