2/3
「なっ! んだ?」
不気味とか怪奇とか、そんなレベルではない。何が何だかよく分からない。なんかのイリュージョンを見せられている気がした。
次の瞬間、その部分が洗面所に置いてあった手鏡に変わった。
手鏡を握った、ではない。手首から先が手鏡になったのだ。お袋がよく使う裏が紫色のプラスチックでできた楕円形のやつな。
「どうやったんだ。手品だろ?」
「違うわ。触っていいよ」
恐々だが手を伸ばす。
プラスチックのツルツルした感触がそのまんまだ。鏡面部分もちゃんとした鏡になっていて、覗き込むと血の気が失せた俺の顔が映った。爪の先で突っついたら、カチカチとガラス独特の音が返って来る。取っ手の部分から先が腕と融合して、とんでもなく気持ち悪い状況だった。
「なんだこりゃ…………」
思考を停止した脳波はたぶん真っ平らになっていただろう。
そのまま手を伸ばし、今度は腕の部分を触れてみるが、柔らかくきめ細かな肌触りがとても心地よく、餅のように吸い付いてくる。
ピンク色の半袖パジャマを着た少女。その子が突き出した腕の先に手鏡が生えた……そんな感じだ。
「ありえん……」
体の一部が物体に変わる?
昨日からヤツが言っている『ブシツカ』って、
「――物質化か!」
ようやく答えが一本化された安心からか、胸を撫で下ろすと共に大声を上げた。
「もしや昨日のフトンの中に広がっていたスライムが……オマエ?」
静かにうなずく少女。
「見たのね……」
夜這いがばれた、という罪悪感は微塵も浮かばなかったし、そこにこだわる状況ではない。
「そうなの。あたしはこっちの日本人じゃないの」
次の刹那、もう一度変形、元の綺麗な手の平に戻った。
「そんな日本があんの?」
小ノ葉はゆっくりとうなずき、
「量子特異点を挟んで次元が異なる場所にあるもう一つの日本よ。そこがあたしの住んでいたところ。体は流動性が基本なの、でも念じれば何にでも変身できるわ」
「………………」
俺は二の句がつげない。言葉だけでなく意識までも失いそうだった。
量子特異点だとか次元だとか言われても体育会系の俺には到底理解できん。でも冷や汗を浮かべつつ思案していたら、昔読んだ絵本を思い出した。ようは鏡の中にある日本みたいなもんだ。そこではスライムが普通で、何にでも身体の形を変えることができると言いたいんだろう。
混乱した頭に浮かんでくるものは一つのみ、
「……あれは完全にクラゲかスライムだったぜ」
「そうだよ。スライムって何だか知らないけど、あたしたち日本人はあの状態で普通なの。こっち来て初めて形のある生命体と出会ってビックリしてんのよ。変な突起物がいっぱい出てんだね」
「びっくりすんなよ。これが普通だ」
「だってこの町や家の中は突起物に都合のいいように作られていて、流動性生物には不便な物ばかり。だから人間のカタチを見て変身したら、またまたびっくり。使いやすいって気が付いたわ」
「さっきから突起、突起って言ってるけど、まさかそれって、手とか足のことを言ってるのか?」
「そう。手の先にはまだ5つも突起が出てて、それが自由に動くんだもん、最初は気持ち悪かったわ。今は慣れたけど……」
慣れたのかよ……。
「……見ててね」
訝しげに見つめる俺の前で驚愕の事態が勃発する。
俺の視線を誘うように立ち上がった小ノ葉は、
「ほら。これがあたしのほんとうの姿だよ」
瞬時に全身がトロリととろけて、床に広がる肌色のスライム。いやそれよりも、もっと水を弾く感じがする。ぷよんぷよんとして弾力がありそうだ。
「昨日のクラゲだ!」
そう漏らして体が凝固した。
ブヨブヨした物体が床の上を滑って移動。フトンを緩く持ち上げ、その下をすり抜けて向こう側に達すると、溶ける雪ダルマを撮影した動画を早送り逆再生したにも似た動きで、元の人間の身体に変身した。
足元に脱ぎ捨てられたピンク色のパジャマ。となると真っぱかと思いきや。黄色いTシャツとデニムのショートパンツから白い滑々の美脚が曝け出されて、最後にはそれを妖しげに包む紺色のオーバーニーソックスで綴じる姿は昨日のままだ。
「なんてこった……」
ここまで来たら信じる信じないの次元ではない。あとはどう俺的に納得するかの問題になる。つまり耐えられるか耐えられないか。耐えられないとしたらどうするか……だ。
「それじゃ。そのTシャツとか短パンとかもお前の体の一部が変形したのか?」
「そうよ。体の一部を物質化して具現化するの。向こうの日本ではそうやって体の一部を自由に変形できるから、工具や生活用品の形はここのとはまったく違うわ」
とかほざいている小ノ葉の足の先から髪の毛の先端まで視線を這わしていて、ようやく口から出てきた言葉は、
「便利な体だな……」
《ああ。工務店が手ぶらでやって来て、家を直して行くようなもんだ》
〔すげえな〕
俺の人格すべてが導き出した答えが、何ともしょぼい物だった。
「ねえ、イッチ見て。こんな細かいものまで再現できるのよ」
人生の中で最も奇妙な事実を突きつけられて固まる俺の前で、小ノ葉が自慢げに頭を振った。
「その髪も……そうなのか」
ハーフアップにされていた栗色の毛がやんわり解けて肩へと広がり、忽然と現れたリボンがしゅるしゅると巻きついて俺の好きなポニーテールに変身。
「これもよ。すごいでしょ」
彼女は可愛らしく顎を引いて胸部を前に出した。別に体を揺すったわけでもないのに、おっぱいがポヨヨヨン。
「なんてこった……」
同じ言葉しか出なかった。
「それからね……夜こっそりあたしの部屋には来ないほうがいいわよ」
それは夜這いを咎めるというよりも、来てもいいと暗示が込められたようなセリフだった。
「あのね。驚くかもしれないけど、夢を見たらその物に変身することもあるからね」
「なっ!」
夜這いのレベルをはるかに超えた別の意味での興味をそそられた。
「俺でなくてよかった」
これは本心だな。俺の夢が具現化したら即行で18禁の札を掲げなきゃならん。
「あのね……まだあるの」
まだあるのかよ。もう満腹なんだけどな……。
「ここまでが、あたしのすべて。でもここから先は説明できない現象なの。あたしビックリしてるのよ」
「俺はもっとビックリしてる」
小ノ葉はその端正な面立ちをもたげて、俺の目を覗き込むように顔を近づけてきた。
甘い吐息がすぐそばまで漂ってくる。
「それ貸してみて」
俺の肩からタオルを取り片手の上に。すぐさま光の粒が舞い上がり、少しのあいだもやもやと霧っぽくなったかと思うと、今度は模様の異なる二枚のハンカチになった。しかもお袋が買い与えたハンカチと瓜二つだ。それは食堂のテーブルにあったはずだが。
「これどういうことなの? イッチにわかる?」
「ハンカチだろ?」
不安げに一枚を摘み上げる小ノ葉に対して俺の答えはとても淡白だ。
驚愕の目で見つめるのは、俺ではなくて小ノ葉のほうで、
「あたしの可変能力は体を使うから出来ることなのよ。でも、今みたいに別の物から違う物を作ることはできないわ」
全身スライムを見せつけられた後だけに、驚くほどのものでは無かった。こんなのはテレビで普通に見る手品だ。
「下にあったハンカチをポケットに忍ばせておいて、目の前ですり替えたのじゃないのか?」
「ううん。違う。物質を分子に戻して、元と同じ材質で別の物を再構成する物質化だと思う。こんなのって向こうではできなかったの。たぶんこっちに来てから魔法を掛けられたんだと思う」
ねえよ。
「だって。ここに来たときに強く感じたわ。大地から不思議なパワーが植物を伝わって、あたしにくるのよ。それが魔法だと思う」
「大地からのパワーなんてねえよ。だいたいここは普通に日本だ。変身できる日本人など一人もいない」
《あーいや。オンナは変身するぜ》
悪魔くん、ややこしいから今は黙っていてくれたまえ。
「昨日、イッチは動く生命体を動物。根を張って動かないのが植物って教えてくれたでしょ。あたしたちの日本にもそんな分類方法があってね。あたしたちみたいに変身できる種族を可変種、変身できないのを不変種って言って。こっちで言う植物みたいなのはいるんだけど。喋ることもできないし何も力は持ってないわ」
《可変種と不変種って言ってるぜ》
動物と植物とどう違うんだろ?
〔たぶん、ぜんぜん違うもんだろ〕
「あたしこっちに来て最初に驚いたのは植物からものすごい魔力を感じるの。それは食べ物になっても消えなくて、ぎゅうゥドン屋さんの時も、木の葉ドンも。そしておかあさんが作ってくれた、かれーだっけ?」
「それだと魚の鰈胸な。カレーだ」
「その中にもたくさん入ってた。ニンジンだとかジャガイモだとか。中でもタマネギを触った時、強く感じたの。魔力はここからも来てるって」
再び小ノ葉の手の上で光りの乱舞。たちまちのうちに俺のタオルに戻った。ただし模様がデタラメだった。
「ごめんね。どんな模様が描かれてたかよく見てなかったの」
「模様なんてどうでもいいさ……」
摩訶不思議な気分でタオルをギュッと握り締め、溜め息混じりにつぶやく。
「昨日から植物の様子がおかしいのはそういうことか……」
ヒマワリとか柿木が動いた不思議な現象と一致することに気付いた。
「戸惑ってるのは俺だけではないということだ……」
《おーい。納得するなー》
〔そうだ。今のタオルだって手品だよ〕
でもよ。ブラックホールとか特異点とか言ってんぜ。
〔よく考えるんだオレさま。それが何か知ってんのかよ?〕
知らん……。
〔ほらみろ。難しいことを並べて煙にまこうってんだ。ただの厨ニ病のたわ言じゃねえか〕
花が動いたりしたのは?
〔知らんね。オレ見てねえし〕
んなワケなないだろ。お前も俺の一部だ。天使の部分だろ。天使ぽくないけど。
「…………」
こら、何とか言え!
くそ。都合が悪くなると黙り込みやがる。どうなってんだこいつ。なぁ悪魔?
「…………」
あ。こいつもシカとする気だな。
どいつもこいつもいいかげんな奴らだぜ。俺だけに……。