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「イッチ。起きて。ねえ起きてよ」
昨夜から行方不明だった小ノ葉が、何事もなかったようにフトンの上から俺にまたがっていた。ピンクのパジャマを着て、ハーフアップにした栗色の髪から覗くうなじが、とんでもなくそそられた。
「やっべえーっし」
慌てて腹に乗る小ノ葉を振り落として枕で股間を隠す。夏フトンは薄いし、青春時代は元気溌溂なのである。
朝の挨拶にしては不適当だとは思うが、念のため言いたいことを言う。
「お前、昔流行ったスライムまだ持ってんの?」
「おはよ」
俺の質問は無視されたが、眩しいぐらいに爽やかでいて、明るい笑顔だった。
「おはよじゃない。昨日どこ行ってた?」
「どこも」
けろりと言いやがって。電話会社の話をしてるんじゃねえ。
「昨日って? イッチ部屋に来たの?」
「おわぁーと」
やっべ。夜這いに行ったのがバレバレだ。
「いやなんでもない。口が滑った。気にするな」
小ノ葉はビックリしたような顔をして、部屋の中をきょろきょろ見渡し、
「どこにも口は落ちてないよ? フトンの中かな?」
今日も、それ続くの?
それよりフトン捲らないでくれる。まだヤバイからね。口どころかとても怖いものが出てくるよ。
そうそう。スライムの話より訊きたいことがある。
あの後、悪魔と天使を交えて三者会談をしたおかげで、親父たちがいる前では、とても訊きだせない案件があった事を思い出したのだ。
「あのな……」
言い淀む。実際こんなバカな話をするのがほんとうにバカっぽくて、口に出した途端、大笑いされるか、ぶん殴られるか、どちらか二つだろう。
――でも訊くしかない。
「お前さ……昨日、風呂の水飲んだ?」
こんな会話、生まれてから17年、一度も口に出したことが無い。
「飲んだよ」
「………………」
最も聞きたくなかった言葉をあっさり吐いた小ノ葉に対して、俺は仰天して慌てふためくかと思っていたら、意外にもそれは脱力だった。
「犬かよ……」
俺が平然としていられるのは、昨日から続く摩訶不思議な現象に、そろそろ免疫が付いてきた証しかもしれない。
「なして……飲んだの?」
「昨日言ったでしょ。あたしのお腹にブラックホールがあるの」
なんとダイナミックな発言だろう。だから風呂の水を飲んでも平気だと?
こっちの思考の整理が出来ないうちに小ノ葉が尋ねる。
「あんたさ。ホワイトホールって知ってる?」
何が言いたい?
「それと風呂の水とどう関わるんだよ?」
小ノ葉は俺の正面でちょこんと正座をしたので、俺も一緒になって膝を突き合わせる。
「どちらも量子特異点なの」
またそれか……。もうウンザリだ。
「その一つが、あたしのお腹の中にあるわけ」
「はいはい。小ノ葉ちゃん。可愛いパジャマ着ているね」
うぉぉぉっと。
胸の前がはだけて、立派な谷間が覗いていた。やっほー、と叫べは返って来るほど立派な谷間がはみ出そうになっていますよ。
思わず心のビデオカメラを起動。録画に専念する俺。情けなし……。
視線が一点に固着されて動かせない。今見逃すと一生後悔する――映画のキャッチフレーズみたいな言葉が出た。
そこへ――。
「あら、小ノ葉ちゃん起きていたの。じゃあさ顔洗いに行こう。ここにいたら危ないからね」
俺の部屋の前を通りすがったお袋が、開いていた扉から顔を出し、アナコンダに睨まれたアマガエル状態の小ノ葉を救い出して行った。
「ほらほら急ごう。寝起きの息子はとってもおっかないからね。どうせ頭ん中お父さんと同じなんだから……」
変なこと言うなよ。そんなに不埒なことは考えてないぜ。
あそうだ。スライムはどうなった?
スライムならまだいいが、もし保冷剤だとすると、部屋中ベタベタじゃね?
階下に連行される小ノ葉を見送ってから、ヤツの部屋へ飛び込んだ。
部屋の中にはフトンが一組折り畳まれて置いてあるだけ。それ以外何も無い。リフォームしてまだ未使用の部屋なので家具も無く、だだぴろい空間が広るだけだ。
折られた敷布団に手を突っ込んでみたが、ほんのり温かみの残る以外、別段問題は無く、さらっと乾燥していた。
「やっぱスライムのほうか……それか、夢を見ていたかだな」
首を捻りつつ階下に降りると、小ノ葉がお袋から歯磨きのレクチャーを受けていた。
「こうして。このチューブから歯磨き粉を出してね……」
ヤツはブラシのほうを握っているが……大丈夫かこいつ。
ちなみにペースト状なのに歯磨き粉というあたり、お袋は昭和の女なんだなと実感する。
「ちがうよ。柄のほうを持つのよ」
「え?」
国によって歯の磨き方も変わるのかもしれないが、それでもそんなに戸惑うものか?
「あははは。おもしろいねえ小ノ葉ちゃん。ボウのほうよ、棒」
「ボぅ?」
女の子が滞在して喜ぶのは俺だけではない。女子を授かりたかったのに、こんな野郎を出産して17年。溜め息の日々だったお袋が朝から張り切って買出しに走ったのだろう。洗面用具や簡単な化粧用具一式がそろえられていて、居間のテーブルに並んでいた。ご丁寧に自分の座る定位置の隣にだ。つまりお袋の隣が小ノ葉の席と決定づけられたようだ。
その対面にちゃっかり親父が陣取って、新聞を読んでいた。
「その席、俺の場所なんだけど」
新聞の裏からポツリ。
「席替えがあったんだよ」
「学校かよ……」
座れるのなら、べつにどこだってかまわない。
そんなことより小ノ葉に対する俺の疑念はますます膨れ上がり、親父たちみたいに素直にはしゃぐことができなくなってきていた。ヤツの行動があまりに怪しすぎる。大食漢な女子、だけでは済まされない部分が多い。風呂の水しかり、スライムしかり……だ。
「そうそう。じゃ、こっちにいらっしゃい。歯はね洗面所で磨くのよ。やり方教えてあげるから」
手取り足取りで、ご親切なことで……。
親戚の娘だと信じきった親父たちは、慈愛に満ちた気持ちで彼女を暖かく包んでいるが、小ノ葉の不可解な行動にいつか疑いを持ち始めるだろう。そうなると、ちょっとやばい。何か早急に手を打たないとまずい。
しばらくして。
一回の使用で半分近くなくなった歯磨きチューブを握り締めて戻って来た。
「このペースト状の物質は美味しいね。どうやって作ったの?」
何を言いたいのか、理解できないが、
「それは食い物じゃねえし」
「それなのに味をつけるの?」
どこに不可解さを見出すのかさっぱりだが、小ノ葉はとても不思議そうな顔をして、あらためて歯磨きチューブを凝視している。
ほんとうだな。なんで味が付いてんのかな?
「違う。これは味じゃない。味という言葉は食うときに使うんだ」
と言う俺から小ノ葉がさっと目を逸らした。
あ――。
こいつ食いやがったな。
「朝ごはんもうできるからね」
カウンターの向こうで告げるお袋に、
「ありがとうおばさん。カタチ変えてくるね」と返して二階へ上がる小ノ葉を追いかけようと俺も席を離れた。
「カタチを変えるってどういう意味だ?」
新聞の向こうで首をかしげる親父と、
「着替えて化粧をするってことよ。日本語は難しいのよ」
と言う声を耳にしながら、握っていた自分のタオルを肩に掛けて二階へ駆け上がった。
小の葉を困らすつもりはない。今日こそ答えを出さなければいけない。俺は真剣なのだ。
「着替えの前に話がある」
「着替えながらでいい? お腹すいちゃって」
パジャマの胸元辺りのボタンに手を掛けて、顎を引く小ノ葉。
とても嬉しい申し出なのだが、
「いつもあんなペースで物を食ってんのか?」
「食うって?」
「もういい。いい加減にしろ。とぼけるな」
「とぼけるって?」
「うるさい!」
「……イッチ……怖い……」
あ……。
昨日から同じことの連続でちょっと苛立ってしまった。素早くトーンを和らげる。
「悪い。怖がらせるつもりはない。だが聞いてくれ。あんなペースで口に物を詰め込まれては、我が家はえらいことになる」
少しの間が空き、小ノ葉が泣きそうな声を出した。
「どこで止めていいのか、分からないの」
「それって、満腹にならないということか?」
「さっきも言ったでしょ、お腹の中に量子特異点があるの」
聞きようによっては、お腹に赤ちゃんがいるの……とでも告げられたようで、心の底からヒヤリとする。まともに手も握ったコトないのに。男ってひ弱だ。
じゃない!
頭を振って話を引き戻す。
「何かを腹の中で育ててるのか?」
自分で言ってることの意味が解からなくなってきた。それならSF映画だ。
「ブラックホールなの」
わ――お。映画のほうが現実味あるじゃん。
「あのな。それは宇宙の果ての話だ。生身の体の中に宇宙など無い。あり得ないだろ」
「……あのね」
小ノ葉は言葉を濁す。
「……あたしは異世界の人間じゃないの。ただの日本人よ。ほら言葉も同じでしょ?」
よく解からんが別に驚かなかった。
厨ニ病か妄想癖の激しいヤツに違いないと俺は結論付けた。それより訊きたいのは腹の中云々だ。だいたいこっちを異世界と言った理由が解らない。
「日本には『チィ――』村はねえし。異世界じゃなければどこから来たんだよ。あの世か? 幽霊なの?」
「幽霊? あ、霊的存在ってこと? 違うわ。ちゃんと実体があるでしょ。あのね。とても稀有なことなのよ」
「けう?」
だんだん言葉数が減少する。何も言えずに柔らかそうな朱唇を見つめていた。
「こっちの日本ではどうだか知らないけど、あたしがいた日本ではこれが普通なの。見ててね……」
俺の前に突き出された手のひら。可愛いらしい小ノ葉の手のひらが――。
力が抜けたように輪郭がグニャリと変形。瞬きをするよりも早く手首から先が、水風船とよく似た弾力のある緩い揺れを起こした肌色の球体に変形した。