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悶々箱  作者: カツオ
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幸せの瞬間

 今日は、いや、今日もだめだ。

 

 あれほど朝入念にシャワーを浴びてきたのに、今私の目の前の客が鼻をすすった。


 季節の変わり目で風をひいているのかもしれない。

 唯々鼻が詰まっていただけなのかもしれない。

 その人にとってそれは癖のひとつなのかもしれない。


 そんな風に考えられないから、私の今日は終わってしまう。


 臭いと思われている。

 腋臭の店員だと認識された。


 こういった考えが、私の頭の中をすぐにパンパンにする。

 こうなるともうどうしようもない。

 



 日曜日の百貨店は戦場だ。

 目の廻るような忙しさがほぼ一日中続く。


 正午から夕方までの時間帯は特に地獄。

 人波が押し寄せ、店内温度は上昇する。


 制汗剤を塗りたくった私の身体は確実に火照り始める。

 腋や首筋にジワッとした不快感が広がる。

 自然と、人から距離をとる。


 客でも、従業員でも、兎に角人の近くに寄らないようにする。

 いらっしゃいませ~、と声出しはするが、自ら客に近づくようなマネは決してしない。


 高級鞄を販売しなければと言う思いが無いわけではない。

 臭いと思われたくない、あるいは匂いを嗅がれたくない。


 この思いが大き過ぎて、前者の販売員としての思いをいとも簡単に飲み込んでしまう。

 さっき私の近くで鼻をすすった客は四十代ぐらいの女だった。


 別に私が接客したわけではないし、目が合ったわけでもない。

 なのに、あの女は私の近くで鼻をすすった。


 私が臭いからだろうか。だろうか、ではなく、から、なのか。

 臭いから、だったらどうしよう。


 いや、きっとそうなんだろう。

 現に今私は腋に汗をかいている。

 パンプスの中も絶賛蒸れ蒸れ祭り開催中だ。


 動く悪臭拡散兵器として、この歴史ある百貨店を恐怖に陥れようとしているに違いない。

 だから、今日はもうだめなのだ。


 これ以上心が削られないように、鼻の付いている生き物から距離を取る事しかもう私に出来ることは無い。


 みんな私の近くに来ないで。


 従業員の制服を着ているからといって、色々聞いてこないで。

 

 鼻をすすらないで。


 私は臭いんだと、私に思わせないで。







 館内に閉店時間のアナウンスが流れ出すと、私は安堵感に包まれる。

 上昇していたフロアの温度も大分下がり、空調の効いた快適な空間へと様変わりする。


 ずっとこんな感じならいいのに。

 というか、これを基準にしろ。温度が上がれば空調強くして温度下げろ。

 人でごった返している空間が暑くなるのなんか分かりきったことだろう。

 客がいなくなってからのほうが快適になるなんて何のための空調だこの野郎が。


 そんなことを考えながら、フロアリーダーの売上報告を聞き流す。

 結局、鼻をすすられてからまともに働けず、隙を見つけては更衣室で腋のケアをしていた。

 

 ボディペーパーで拭いてデオドラントを塗る。

 戦場に行くための防具だ。

 戦うわけではない、ただ行くだけだ。


 目の前で他の従業員が高価な鞄を売りつけていようとも、私には関係ない。


 臭いと思われない、最善の行動を取るだけだ。


 終礼が終わると挨拶もそこそこに一目散に更衣室を目指す。

 着替えの時、誰も傍にいてほしくない。

 制服のシャツを脱ぐ時、蒸れ切ったパンプスを脱ぐ時、その空間には私しか居てはならない。


 隣のロッカーの人が鼻をすすったり掻いたりしようものなら、もう着替えなんて出来る訳がない。



 脱いだ制服を恐る恐る嗅いでみる。

 

 くんくん。

 

 くんくん。


 やっぱり。


 仄かに柔軟剤の香りがする。


 臭くない。どこも臭くない。


 昨日もそうだった。今日もそうだし明日もそうだろう。


 私は今まで人に臭いと言われたことは無い。

「言われてないだけで本当はそう思われてるのかもしれない」


 この考えが頭に浮かんだ時、私は地獄に足を踏み入れた。


 元々人の目を気にする女だった。

 嫌われてないか、陰口を言われてないか。


 あれ?私の傍で鼻をすすっているのは何で?

 そうか、私が臭いからか。


 鼻をすすっている人は皆、私の事を臭いと思っているのか。


 じゃあ離れなきゃ。腋ケアしなきゃ。

 毎日洗濯しなきゃ。腕畳んでなきゃ。


 あとはトントン拍子。

 自殺する程ではないのが、厄介でもあり救いでもある。

 

 

 ぞろぞろと更衣室に入ってくる同僚とすれ違いながら、私は従業員出入り口に向かう。


 これでようやく解放される。

 タイムカードを切って、外に出る。


 四月に入ったばかり、まだまだ夜は肌寒い。

 日中感じたあの暑さが嘘のように、冷たい風が身体の芯を冷やそうとビュンビュン襲い掛かる。


 薄手のシャツは、無駄に汗をかかないため。

 寒いのはいい。汗をかかないですむのなら、どんな寒さだって耐えられる。


 風の冷たさに、思わず両腕に鳥肌が立つ。


 もう体温が上がる心配はない。


 鼻をすすられないよに、人を避けなくてもいい。


 この瞬間が一日で一番テンションが上がる。




 新宿の駅に向かって歩き出した私の足取りは、新しい鞄を買ってウキウキな客の何十倍も軽かった。


 

 

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